佐藤健主演。直木賞作家・杉森久英の「天皇の料理番」が原作。片田舎の青年が天皇の料理番を勤め上げるまでに成長する、史実に基づいた究極の人間愛の物語。(c)tbs 役所内の細かいルールなど知るはずもない皇太后が事前に上履き用のスリッパを用意し、高官らが用意せずに来た事で、秋山は皇太后の気配りに俄然感極まった[23]。 最終章・皇居編「皇居編~ザリガニと御即位の御大礼」第9話の視聴率は、前回の15.3%より更に上がって、16.7%(関東)。このドラマの最高視聴率でした♪(^^)瞬間最高視聴率は、9時57分の18.1%。篤蔵が太陽に向かって「兄やん、わし、ちゃんとできてましたか? 天皇の料理番 第4話のラストを再度確認! 労咳(ろうがい)を患っていることが明らかとなった篤蔵の兄・周太郎(鈴木亮平)。 夢半ばにして弁護士の夢を諦め、 静養のため故郷の武生に帰ることとなって … It includes tags such as "天皇の料理番", "秋山四兄弟" and more. 2020年09月02日 天皇の料理番!!大好きでした! 篤蔵さん、俊子さん、兄やん 新太郎さん、辰吉さん、お父さん お母さん、お梅さん、フランソワーズ 宇佐美さん 本当にありがとうございました! 最後は、この言葉で… バンザーイ!バンザーイ!バンザーイ! コメント(28). と情熱をもって食べられる大好物を持っている人は、幸福なのじゃないか。別に何も食いたくも飲みたくも――なんてことになったら、人間まことに寂しいことじゃないか――と。, 秋山は、「並べて書くのはもったいないが」と前置きした上で、「忘れ得ぬ二人の婦人」として、「一人は貞明皇后さま、もう一人は亡くなった先妻(注=秋山俊子)」を自著で挙げ、以下のように回想した[6]。, 先妻俊子とは、秋山(旧姓「高森」)が26歳の時に結婚した(当時俊子は17歳。同年8月に秋山は満年齢で25歳になっているので、秋山の戦後の著書における回想とは言え、両名とも数え年であると考えられる)[6]。雙葉女学校に通う熱心なカトリック信者であったという。秋山によれば、「心の優しい女」で、「この家内を熱愛していた。世界中に比べもののない、いい家内だった」という。, そのため、彼ら夫妻の三人目の子が6歳になった時に俊子が肺結核に罹り、寝込んでしまってからは、「世の中が真っ暗になってしまう思いだった」という。, 発病して一年半目にはいよいよ重症となり、痰も自分で吐き出せなくなり、秋山がその都度吸い出してやった。, 俊子の死後、秋山は「腑抜けのように」なり、忌中35日の間、勤めを遠慮して家に引き籠もったという[6]。, 俊子は、臨終の際に秋山を枕元に呼び、自分の財布に付けてあった鈴を秋山の手に握らせ、以下のように言ったと秋山は自著で語る[6]。, 「たったひとつ、わたくしの心配なことは、あなたが癇癪もちでいらっしゃることですの。あなたのお仕事は、ほんとに、この上ない大事なお仕事です。お願いですから、役所へいらっしゃいますとき、坂下門をおはいりになりますときに、この鈴を鳴らしてくださいませ。そして、私が心配しておりますことを、思い出してくださいませ」, そう言い残して俊子は死去したが、秋山はその鈴をいつもポケットに入れて持ち歩き、坂下門を入る時には、必ずそれをチリチリと鳴らして自戒のよすがとしたという[6]。, 「皇太后さま」(貞明皇后)からは先妻俊子を失った秋山に対し、お悔やみの言葉と頂戴ものがあったので、俊子の忌明けの日にお礼言上のために青山の大宮御所に参上したところ、皇太后宮大夫入江為守を通じて、秋山に一体の人形を下賜したという。秋山は当初その人形の意味が分からなかったが、貞明皇后が夫である大正天皇を失ってまだ間もない頃だったので、「最愛の妻を亡くした私の気持をほんとうにお解りくだすったのだろう。そして、この人形の意味は、あとに残った子供達を可愛がって育てよ――という御心なのであろう」と推察した。, そう思うと急に涙が溢れ出し、泣き顔を通行人に見られたくないので、わざわざ暗い道を選んで自宅まで帰ったという[6]。, 秋山には泊りがけで遠方に競馬観戦に行く趣味があった。ある時(昭和時代)、大阪方面に競馬観戦に行っていると、宿泊先の大阪ホテルに宮内省大膳寮から電話がかかってきた。それによれば、「大宮さま」(皇太后=貞明皇后)が、中華料理で客をもてなしたいとの事で、大膳寮職員が秋山は今競馬観戦で遠出していると啓上すると、それならば秋山が帰って来てからでいいとの事であった。それを聞いた秋山は、「そうか。そいじゃ、すぐ帰る」と返事し、夜行列車で急ぎ帰京した。, それを知った貞明皇后は、「わざわざ帰ってこなくてもよかったのに…」と秋山を気遣った事が、後で秋山の耳に入った。 コメント(16), 【私の家政夫ナギサさん】最終話(第9話)感… 「天皇の料理番」動画をフルで1話~最終話まで無料視聴するには? まずは天皇の料理番の動画をフルで楽しむ為にはParaviで観る事をお勧めしましたが、念のためその他のVODサービスを調査し表にしましたのでご覧下さい。 2017/11/05 - Pinterest で T.S ALBUM さんのボード「天皇の料理番」を見てみましょう。。「天皇, 佐藤健, 健」のアイデアをもっと見てみましょう。 『天皇の料理番』第9話が放送になります。 で、ですね ここは一つ 観ていただきたいのです。 第9話 思い出の第9話 台本を開くと この回だけは 周太郎に1ページも使ってくれていました。 愛情あふれる現場なのです。 天皇の料理番、第9話 放送後には、 戦前でも、「半つき米に丸麦混入の御飯で、おすしの場合も、白米の使用をお許しにならなかった」という[6]。, 日本が戦時体制に入ってからは、昭和天皇は「さらにひどいものを召し上がった」と秋山は語る[6]。, まだ食糧事情がそれほど行き詰まっていない時期から、昭和天皇は「やはり国民と同様に外国米を混ぜよ」と指示を出し、「半つき米に、丸麦、それに外米を混ぜたもの」を食べていたという[6]。 【天皇の料理番】第3話感想. しかしながら役人である秋山の乏しい懐具合ではそれを続けているばかりにも出来ず、今度は古道具屋で雛人形の揃いを買って来て、顔の汚れや着物の破れを繕って贈り物にしたりもしたが、それも喜ばれた[6]。, 秋山が乏しいポケットマネーでGHQ幹部らへの贈り物をして苦しんでいるのを知った大映の永田雅一が、ある日秋山に立派な羽子板を5枚、大膳寮に送り届けた。その一つに値札が付いているので見ると300円と書いてあると思ったが、部下がそれは3000円と書いてあると言う。秋山は驚いたが、それならばGHQのお偉方達に贈ってやれと思い立ち、マッカーサー元帥、アイケルバーガー中将、チャールズ・ウィロビー少将、ホイットニー少将、フレイン・ベーカー准将の5人に、クリスマス・プレゼントとして贈った[6]。, 皇室と日本の存続のために敢えて屈辱的な「たいこもち」生活を堪え忍んだ秋山であったが、サンフランシスコ講和条約調印の日を境に、ピタリとGHQ幹部らへの接待攻勢をやめた[6]。, 私の一生のうちで最も屈辱的な時代であった。陛下のおっしゃることなら、絶対になんでもきくが、その他の人のいうことは、きくべきことしかきかぬと、誰にでもそういっている私が、太鼓もち同様のことをやった――しかし、これは自らすすんでやったことで、それには自分で納得できる理由があってのことだから、当時こそ腹が煮えかえるようなこともあったが、いま思い出してみて、決して恥とは思わない。, 秋山によれば、「ごく最近」(秋山が著書『料理のコツ』を上梓した1959年=昭和34年頃の事)、ある御陪食でトゥヌルド(牛フィレ肉を厚く切って、ベーコンで巻いて調理したもの)を供したところ、個々のトゥヌルドのベーコンを巻く糸を一本だけ取り忘れるという失態を演じてしまった[22]。, 本来は調理する際に、使った糸の本数を予め数えておき、トゥヌルドを焼き上げて糸を解いた時に、最初の本数と合っているかを確認するものなのだが、長年の仕事の中で本数を数える作業がつい形骸化してしまい、正に注意力を欠いていた時に、この取り忘れ事件が発生してしまったという[22]。, しかも、たった一本取り忘れた糸が巻き付いたトゥヌルドが、事もあろうに昭和天皇に供されてしまった[22]。, 秋山ら厨房の一同は色を失い、意気消沈した。この失態につき、侍従経由でお詫びした。 秋山は禁断症状で気が狂いそうになる事もあったが、何とかそれを克服し、やがてそばで誰かがたばこを吸っていても全く欲しくなくなり、禁煙に完全に成功した。秋山は、頭を丸刈りにしたのも禁煙したのも、「大宮さま」(貞明皇后)の高徳に導かれたお蔭であると言う[23]。, 森枝卓士は、宮中の午餐・晩餐を通じて日本における「西洋料理」の体系化されたスタイルを生み出したこと、大規模な宮中行事の協力にあたった市中料理人への指導を通じて市井に影響を及ぼしたことなどを挙げ、「日本の食を変えた人物」と評している[5]。その影響力は大きく、弟子の中には料理人として世襲している者もいるほどである。, 2015年に秋山が収集した宮中晩餐会などの献立を記載したカードが、遺族により味の素食の文化センターへ寄贈されている[24]。, ただし秋山が「ザリガニのポタージュ」を供したのはこれが初めてではなく、1910年にドイツ前全権大使をもてなす料理で既に提供されている。, 松平乘昌「宮中の饗宴」、松平乘昌編『図説 宮中晩餐会』(河出書房新社、2012年)p.5, 日光市で発見されたニホンザリガニ個体群の由来、および大正時代に北海道から本州に持込まれた個体に関する宮内庁公文書等に基づく情報, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=秋山徳蔵&oldid=78216488, もっともしつこく秋山をからかったのは、皿ばかり洗っている、太っていて、毛深く丸太のような腕を持つ中年男だった。その男は秋山の傍を通るたびに、秋山の頭を押さえ付けたり、背中をつついたり、おどけた仕草をして見せたり、日本人だと知っていながら中国人と呼んで馬鹿にしたりした, ある日秋山は、昼休み前に、その男の前でこれ見よがしに芋剥き用のナイフを研ぎ、紙に包んでポケットに入れ、「おい、ちょっとお前に用がある、昼休みになったら、外へこい」と凄んだところ、その男は怯え出し、問答の末、秋山に握手を求めてきて「おれが、悪かった、許してくれ」と言ったが、秋山は知らぬふりをした。すると、更に謝罪し、握手を求めて来たので手を握ってやると、「メルシィ、メルシィ」と喜び、それ以来秋山をからかわなくなったという, ある日の事、シェフが秋山をからかって、スープがいっぱいに入った大鍋をストーブに一人で上げろと命じた。それは大男ならともかく、普通は二人がかりで持ち上げるほどの重さのものであった。秋山が出来ないと言うと、そのシェフもむきになって上げろと言い張った。そうこう問答しているうちに、厨房内の皆が異様な空気を察して、二人に注目し出した。すると秋山はそのスープを床に全部こぼし、空になった大鍋をストーブに上げ、「はい、上げました」と言った。するとシェフは激怒して秋山を「糞野郎!」と罵り、秋山につかみかかろうとしたが、店主が間に割って入り、シェフに「待てッ。シェフ。できないことを命令するのはいけない」と叱り付け、秋山には「よし、よし。お前が悪いんじゃない。心配するな」と慰めてくれたという。そのシェフは元々気が良くて、秋山をよく可愛がってくれていたのだが、このようにからかわれると、「短気な私は我慢できなくなった」のだという, フランスでは料理人組合に加入すれば、一生が保障された。火傷すればすぐに医師が駆け付けてくれて、手当ての後, 日本では、当時料理人よりも、食材を買い付けて売っている大きな食料品店の主人の方が社会的地位が高いと秋山は感じていた。食材を自分の技術で最高のものにも最低のものにも出来る料理人はいわば画家であり、食料品店は絵具屋に過ぎないのにと、秋山は不満を感じていた。また、秋山が感じていた日本人の出世観とは、小学校の教師が中学校の教師になり、そして高等学校や大学の教員になる事を出世と心得、または農民が村役場の役人となり、工員が自分で会社を興す事が出世だと心得ているというものであった, 秋山の三男蜂谷三郎によると、蜂谷の小学生時代、日本では料理人は社会的地位が低く、恥ずかしさから父親がそれなりの地位を得るまで言えなかったという, 秋山がみるところ、フランスでは郵便配達員にしろ、靴屋にしろ、自分の天職を楽しみ、それを立派に遂行する事を自慢としているというものであった, 秋山徳蔵をモデルにした小説。フィクションもまじえているため、主人公名は「秋沢篤蔵」に変えられている。この小説は1980年・1993年・2015年の3度にわたってドラマ化されており、主人公の名はいずれも「秋山篤蔵」と変えられている。. かつて宮内省入省間もない時期に、厨房に土足で入って来た高官を怒鳴り付けた秋山からしてみれば、ルールが無くとも、調理場ならば当然清潔な履物を用意して来るのが当然であり、皇太后の配慮はまさに身分の上下を超えた「真心」であろうと感じ入り、「涙がこみあげてくるのをどうすることもできな」かったという[23]。, ある日、皇太后(貞明皇后)と以下のような会話が交わされた[6]。(会話中の秋山の年齢や会話内容からすれば、GHQによる占領期間中となり、秋山が昭和天皇と日本の立場を少しでも有利にするために、GHQ幹部らに接待攻勢をかけていた時期となる。), 「いや、私は六十以上は年をとらないことにいたしました。いまの日本の有様では、のんきに年なんかとっておられません。それで、今年からは一つずつ若くなることにいたしました」, と、「たいへんお笑いになった」という。 鴨猟では、獲った鴨をすぐにさばき、醤油をかけて鉄板で焼き、GHQ幹部らに食べさせた。彼らはこれを非常に喜び、これにより秋山にはGHQ幹部らに知己が出来た[6]。, 私は、生来のかんしゃく持ちも、負けず嫌いも、自尊心も、恥も、なにもかも一擲した。たいこもちになった。 2020年09月29日 この人ならばと思う人には、翌日鴨を持っていって、御機嫌をうかがった。料理人、ハウスキーパー、洗濯屋などの世話も、いろいろとまめにしてやった。, 秋山はコートニー・ホイットニー准将(1950年=昭和25年に少将に進級[21])宅に料理人を世話したが、ホイットニー夫人と喧嘩して出て行ってしまった。そこで、秋山は直ちにホイットニー宅に呼び出された。イライラする夫人は、すぐに代わりの料理人を用意しろと言う。秋山は、そうそうすぐに用意出来るものではないと弁明すると、ならばあの料理人を呼び戻せと言い返してきた[6]。, 秋山は辞めた料理人の家に行って宥めすかしたが駄目であった。仕方なくホイットニー宅に戻ってその事を報告すると、夫人は以下のように恫喝した[6]。, 「私達は、お前の国の仕事をするためにきているのです。お前の国を助けるために、仕事をしているのです。その私達に食事をさせないのですか。食事をしなければ仕事はできません。それは日本の運命にかかわることです。, 秋山は夫人の言いがかりを「とんだ春秋の筆法」だと思ったが、その当時の秋山としては、夫人の「日本の運命」という言葉にドキンとし、ついに大膳寮の料理人を一人、つなぎとしてホイットニー宅に派遣し、十日間のうちに代わりの料理人を見付けた[6]。, 春が近くなり、鴨が段々いなくなると、今度は鴨場ではなく、三里塚の下総御料牧場にGHQ幹部らを招待した。秋山らも連合軍専用列車に同乗して現地に行くのだが、上野駅に行ってみると、元のお召列車が連合軍専用列車に改造されていた[6]。 秋山としては、「たまにはすし米のような純白の御飯をさしあげたいと思った」し、また、「半生を美味追求に没頭してきた」身としてはそれは苦痛でもあったが、「思召しだから仕方がなかった」という[6]。, 昭和天皇が当時の日本の食糧事情を考慮して白米を遠慮する傾向はパンにおいても同様であり、「真っ白なパンはもったいないから、何か混ぜたらどうか」と側近を通じて打診があった。 Re:【エール】期間平均20%超え&【おちょやん】初回視聴率・低発進(汗)(12/01), Re:【おちょやん】第2週「道頓堀、ええとこや~」ネタバレと視聴率&第1週感想(12/05). 宮内省 大膳職司厨長(料理長)を務めた秋山徳蔵の青年期から主厨長になるまでを描いた作品。 秋山 徳蔵(あきやま とくぞう、1888年(明治21年)8月30日 - 1974年(昭和49年)7月14日)は、明治 - 昭和時代の日本の料理人。 大正期から昭和期にかけて宮内省(のち宮内庁)で主厨長を務めた。 位階・勲等は正四位 勲三等 。 フランス料理アカデミー名誉会員 。 それ以降、秋山は競馬観戦で遠出する事をやめたという[6]。, 1936年(昭和11年)11月27日、突然皇太后(貞明皇后)が大膳寮の厨房を視察する事になった[23]。, 明治以降、秋山が知る限り皇族が厨房を訪問する事は前代未聞であり、そもそも貴人が厨房に近付く事を忌避する風習が日本にはあった。秋山は、それは昭和天皇の母として、そして女性として、厨房を見ておきたいという自然な気持からであろうと推察し、そして感激した[23]。, 皇太后厨房視察の報を受け、秋山には思うところがあり、宮内省内の床屋に行き、残り少なくなっていた髪を丸刈りにしてしまった。当時秋山は、ドイツ訪問時に買って来たブラシで、すだれのようになっていた髪を後生大事に梳かしていたので、役所内では「厨司長のブラシ」と呼ばれて一種の名物になっていたが、その一方で、髪の毛というのは料理人の仕事にとって何のプラスにもならず、たとえコック帽を被っていても髪の毛に付いたゴミが料理に落ちないとも限らないという心配もしていた[23]。そういう矛盾を自分の中に抱えていたが、皇太后の厨房視察を前にして、髪への未練を断ち切る決心をしたのであった。皇太后訪問後に、側近が、秋山がこれを機に髪の毛を丸刈りにしてしまった事を啓上したら、皇太后は、「おや、おや、それを知っていたら、帽子を脱がせてみるのだったのに、と冗談をおっしゃった」と、秋山は伝え聞いた[23]。, それ以降、秋山の髪の毛も秋山の意を体したのか、減り方の速度を増し、「掘りたての新ジャガ」と吉川英治が形容したようになったという[23]。, 白衣を着た皇太后が、やはり白衣を着た宮内大臣や宮内次官(時期からすれば、大臣は松平恒雄、次官は白根松介となる)、その他の供奉員を従えて厨房にやって来たが、皇太后が厨房の入口で女官を差し招くと、女官が皇太后の足元に真新しいスリッパを差し出した。皇太后がスリッパに履き替えると、女官らも同じくスリッパに履き替えた。普段厨房には外部の人が入る事は無いので、余分な上履きの用意が無く、慌てた高官らも上履きを探させ、見付けられずに結局厨房に入れずじまいだった者も発生した[23]。 秋山は悔しさで目をそむけたくなったが、以下のように自分に言い聞かせて堪え忍んだ[6]。, 米第八軍司令官ロバート・アイケルバーガー中将に至っては、飛行機で直接三里塚までやって来た。御料牧場では、アイケルバーガー中将に乗馬をさせ、桜を見せ、最後はジンギスカン料理でもてなした。夏には、長良川の鮎漁にもGHQ幹部らを招待し、これも好評だった[6]。, 鴨場での接待では、秋山はさんざん乾杯を勧められたが、「相手変れど、主変らず」でそうそう飲めるわけでもないので、その都度流し場で喉に指を突っ込み、嘔吐した後でまた新たな乾杯に臨んだ。鴨猟にはGHQ幹部夫人らも来ていたが、そのうち彼女らは悪乗りし、秋山を「ヘーイ、マイ、ボーイ」と呼びながら抱き付き、秋山の禿げ頭にキスし、キスマークだらけとなった。さらにはハンドバッグから口紅を取り出し、秋山の頭の上に日の丸を描いた[6]。, これには、押し殺していたかんしゃくが、ムラムラと咽喉のところまでこみ上げてきたが、グッとのみ込んだ。, マッカーサー元帥の誕生日には必ずテーブルに盆景を作って置いてきた。珍しいものを見付けると贈り物として届けた。また、マッカーサーの息子がスキーで骨折すると、入院先の聖路加病院にお見舞いに行き、お会式の万燈が欲しがっていると聞くと西沢笛畝に絵を描いてもらって届けた[6]。 秋山は元々石渡とは知り合いで、石渡の宮相時代(つまり秋山が所属する宮内省のトップだった頃)は個人的な付き合いを控えていたが、戦後石渡が公職追放となり、成城の自宅に閑居してからはよく行き来するようになった[23]。, 1950年(昭和25年)の8月に糖尿病が悪化し、一カ月程入院したが、退院後、秋山は砂糖の代わりにサッカリンだけを甘味料として用いたお汁粉を作り、石渡邸に持って行った[23](サッカリンはその後発ガン性が取り沙汰されたが、当時はカロリー無しの有効なダイエット甘味料と見做されていた)。, 秋山は、「甘いものも過ぎれば毒だ」と思ってはいたが、その時の石渡の喜びようを思い出すと、以下のように考えるようになったという[23]。, なんでも、これはうまい! Copyright (c) 1997-2020 Rakuten, Inc. All Rights Reserved. そんな貞明皇后を、秋山は「ああ――あの、お優しかった大宮さまも、いまはいらっしゃらない」と偲んだ[6]。, 秋山は元々愛煙家であり、紙巻きたばこも、パイプも、葉巻も相当に嗜んでいた。更に、第二次世界大戦(大東亜戦争)敗戦後のGHQ占領期には、GHQ高官らとの付き合いもあり、挨拶代わりにたばこを勧められたり、たばこをプレゼントにもらう事も多々あり、秋山の喫煙量はますます増え、一日に60~70本程にまでなった[23]。, 秋山としても、喫煙量が増えて頭痛気味になり、そして何よりも嗅覚も鈍り、料理人の仕事上良く無い事は百も承知であったが、簡単にやめられるものではなかった[23]。, そして1951年(昭和26年)5月17日、「大宮さま」(皇太后=貞明皇后)が崩御した。, もったいない言い方かもしれないが、私にとっては母か姉を失ったような悲しみであった。秋山、秋山――といつもお優しかった大宮さま、私たちの仕事に深い理解を持っていてくだすった大宮さま。, そこで秋山は、「天皇陛下の料理人」としての職責を全うするためには、今のようにたばこに淫していたら申し訳がない、「大宮さま」のみたまに報いるためにもここはキッパリ禁煙しようと決意した。そして、貞明皇后十日祭を機に、完全に禁煙した[23]。, 秋山としても、自分の意志力を疑っており、外圧を用いる事で自分に禁煙を強いた[23]。, 家族の者には、もし自分がたばこを吸っているところを見付けたら何でも欲しいものを買ってやると約束し、同僚や友人らには、もし自分がたばこを吸ってしまったらどんな事でも言いなりになる、箱根や熱海への旅行も奢る、もし自分が同行出来ない場合には、君らだけで旅行に行って豪遊し、後で領収書を自分に回してくれればいいとまで宣言した[23]。 天皇の料理番 2015/06/23 言葉 自分ではどうしたらよいか分からず、とぼけた事ばかり話す篤蔵に、さすがにこればっかりは兄やんも厳しくお説教するしかないだろうと思いながら見てましたが、「善人面をして俊子さんと子供のために田舎に帰るも良し。 たまに鯛、ブリ、カツオの類が配給されてくると、秋山は「飛び上るほど嬉しくて、いそいそと御膳にのぼせたものであった」が、それらは実は魚河岸の篤志家の商人が自腹で船橋の闇市で仕入れて来たものだという事があとで分かったという事もあった[6]。, 秋山は、農学博士・陸軍主計少将の川島四郎の協力を得て、長野県で乾燥野菜を作り、備蓄した。そこで作った乾燥野菜と、さらに乾パンを天皇の食事に供した[6]。, 戦前に長く宮内省御用達を務めた業者も、戦中、戦後は予算不足に悩む大膳寮に寄り付かなくなり、戦後に食糧事情が回復してから再び笑顔を作ってやってくるという苦々しい例も多かったという[6]。, 昭和天皇の食事については、まずは献立案を秋山側が作成して香淳皇后に提出し、そこで献立が決まっていた。但し戦時下で食材の入手が困難だった時期には皇后を通さず、秋山側がその日その日の間に合わせの材料で、作って供したという[6]。, 昭和天皇は、戦後の食糧難時代でも、外国使臣や閣僚らを招いての御陪食や、歌会始予選者への賜宴では特配を受け、麦を混ぜない白米を許可したという。更に、食糧難時代でも御陪食の時には「出来るだけ御馳走をしてやるように――」と指示をしたが、それでも「魚または肉の一品と、野菜の一品に限られた」ものだったという[6]。, 明治天皇については秋山が聞き及んでいる分、大正・昭和二代は秋山が直接知っている分である。, なお、最も長く仕えた昭和天皇でも、好き嫌いについては一切語らなかったので、食べた量や、残したもので察しを付けるようにしていたという[6]。, 酒は多少嗜んだ。しかし明治天皇ほどでは無く、祝膳の時には日本酒を、日常の食事では葡萄酒やベルモットを嗜んだ。料理の味は比較的辛い物を好み、昭和天皇とは対照的[6]。, 麺類、特にざる蕎麦が好み。週に一度は供していたが、時にはおかわりもしたという。どちらかと言えば薄味が好みだが、油っこいものも、うなぎ、天婦羅、中華料理も好み。秋山はよくお座敷天婦羅を供した[6]。, 第二次世界大戦(大東亜戦争)に敗戦し、米軍が占領軍として進駐して来ると、秋山は以下のように思った[6]。, われわれは檻の中に入ったようなものだ。こうして自由に歩きまわっていても、日本全土が大きな檻なんだ。マッカーサーが潰そうと思えば、潰せる国なんだ。国が可愛ければ、彼らのいうことを聞かなくちゃなるまい。特に、皇室に対する彼らの考えを好転させるには、彼らにすがらなければならない。そう考えた。, 宮内庁には、宮内省時代から越ヶ谷と新浜の2カ所に鴨場があるが、そこでの伝統的な鴨猟に、GHQ高官らを招待する事にした。それがたちまち人気となり、GHQ幹部らが我も我もと申し込んで来て、一回に何十人も参加するようになった。鴨猟自体そう簡単に出来るものではなく、本来はシーズンに一回か二回程度しか行われなかったが、無理をして毎週土日に開催した[6]。
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