?アツいぜ!チケット」を1枚4000円・50席限定で販売した。このチケットは観客の満足度によって、試合内容が気に入らなければ勝ち・引き分けの場合は半額の2000円まで、負けた場合は全額の4000円を上限に返金するものであった。この企画の初日にあたる5月1日にチームが敗戦した際は全員が返金を要求。金額にして9割に及ぶ返金額となったが、勝利した試合でも半数以上の人間が返金を求め[152]、5試合での売上100万円のうち半数近い47万円が返金となってしまった。この結果に当時の監督・中畑清はショックを受け、「ひどい負け方をしたならともかく、最高のプレーをして『金返せ!』じゃ選手のモチベーションを下げるだけ」とし、同じような企画を二度と実施しないように求めた[153]。, なお、2012年度のレギュラーシーズン最終戦(10月8日・広島戦)において、「新・熱いぜ!チケット」が企画・発売された。これは、内野SS席ペアチケット(通常2人分で1万1000円)に2000円分(1人1000円)を追加で負担すれば、2016年度までにDeNAがレギュラーシーズンで2位以上の成績を収め、クライマックスシリーズ(CS)の主管権を確保した場合、その主管試合の内野指定席での観戦ができる権利を得るというものであったが、この期間中にCSに進出できなかったり、進出してもレギュラーシーズン3位で主管権を得られなかった場合、またはCSが廃止となって権利失効となった場合には、追加負担分は神奈川県のアマチュア野球の振興に役立てるという企画であった[154]。実際には2016年の3位が期間内のレギュラーシーズンでの最高順位であり、DeNAはCSを主催することはできなかったため、観戦権は成立せず、全額が神奈川県の野球振興の寄附金となった[155]。2019年にレギュラーシーズンで2位の成績を収め、CSの主管権を確保したことを受けて、球団は権利を特別に復活させた上でチケット購入者50組100人を同年10月5日のCSファーストステージ初戦に招待することとなった[156]。, 1956年に明治大学から秋山登、土井淳、岩岡保宏、黒木弘重、沖山光利の5名が入団。同一校の選手が同一球団へ同時に5名も入団するのは極めて珍しく、彼らは「明大五人衆」と呼ばれて注目を集めた。, 1980年代、横浜大洋ホエールズに対し、本拠地の横浜を主な営業エリアとする横浜銀行や当時存在した太陽神戸銀行(現在の三井住友銀行)をもじった「横浜大洋銀行」という呼び名が付けられていた[157][158]。これは当時長年にわたって低迷し、毎年のように他球団に勝利を配給し続けてきた様を、勝敗数や勝率を預金や融資になぞらえて揶揄したもので、この不名誉な呼び名はいつしか定着してしまった。特に巨人ファンが「貯金をするなら横浜大洋銀行」へという合言葉とともに当球団を煽るなどしていたが[159]、そのほかにも巨人以外の球団のファンが大洋や大洋ファンを嘲る際のみならず、大洋ファンも自嘲の念を込めて使い、特に連敗が込んだ時やテレビでの露出機会が多い巨人戦の対戦成績が著しく悪いシーズンにはマスメディアでも頻繁に使われた[注 62][158]。また、最近では、同じく相性の悪い阪神戦においても、この名称が使用されることがある[注 63]。一方で、その阪神とひっくるめて、セ・リーグで特に弱い球団として、「大洋神戸銀行」と揶揄することもあったという[158]。巨人戦で負けが続くと「**銀行」と揶揄する事例も見られる(例として2014年に当時の監督の名前から「中畑銀行」と呼んだ見出し[160])。, 1993年から球団名が横浜ベイスターズに改称されてからは「横浜銀行」と呼ばれるケースが多いものの[161]、実際には球団と同行の間には直接的な関係はなかったが、2014年8月に行われる「YOKOHAMA STAR☆NIGHT 2014 第1弾」に横浜銀行が初めて協賛することとなった[162]。詳細は横浜銀行#その他を参照のこと。. 選手成績. プロ野球 横浜DeNAベイスターズ 赤間 謙のプロフィール、個人成績をお届けします。 ... 緩急をつけた投球で打者と勝負する右腕。昨季は二軍で防御率1.56の好成績を残すも、一軍ではわずか7試合の登板にとどまった。 ... 投手成績. 投手成績 1軍 打撃成績 1軍 投手成績 ファーム 打撃成績 ファーム. 投手成績 1軍 打撃成績 1軍 投手成績 ファーム 打撃成績 ファーム. 以下の基準は、特段の記載がない限り、NPB球団に所属のすべての支配下登録選手・育成選手、および指導者に適用します。 前のページに戻る ... ホ | ル ド 打 者 投 球 回 数 被 安 打 被 本 打 四 球 死 球 奪 三 振 失 点 自 責 点 防 御 率; 横浜DeNAベイスターズ 120: 4: 1: 1: 56: 58: 24: 84: 4208: 990 … また、NPB公示については、NPBの公式WEBページを基準とします (https://npb.jp/announcement/ )。ただしオフシーズンの移籍に関する扱いに関しては例外措置を設けます, 横浜DeNAベイスターズの選手一覧(よこはまディー・エヌ・エー・ベイスターズのせんしゅいちらん)は、横浜DeNAベイスターズ(前身を含む)に所属している選手・監督・コーチの一覧である。, TBSホールディングスが親会社の時代に入団し、球団名に「DeNA」がついていなかった2011年以前からDeNAに在籍している選手は以下の通り。, プロジェクト:野球#FA移籍、トレード、FAに伴う補償として移籍が決まった選手の所属球団記載について, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=横浜DeNAベイスターズの選手一覧&oldid=80762148. ファーム成績詳細(出場選手成績) チーム投手成績 2020年 2019年 2018年 2017年 2016年 2015年 2014年 2013年 2012年 2011年 2010年 2009年 2008年 二軍投手成績; 年 度 所 属 試 合 完 投 交 代 完 了 試 合 当 初 無 失 点 勝 利 無 四 球 試 合 勝 利 敗 北 セ | ブ ホ | ル ド 勝 率 打 者 日本野球機構(以下「NPB」とする)所属の各球団に登録している選手・指導者の所属を編集する際は、以下の基準を満たすまで絶対に編集しないでください。 横浜ベイスターズの投手成績(総合指標)(奪三振順) - ファーム(二軍)。他では見られないプロ野球の詳しいデータを掲載。チーム成績、選手成績。 2000年 - 2010年 二軍の独立採算化と一軍との差別化を目的に、二軍の球団名を「湘南シーレックス」に変更し、ユニフォームも独自のものを使用。帽子は紺色を地色に白の「s」マーク、ツバはエメラ … 大洋ホエールズ(1950年 - 1952年)松竹ロビンスと対等合併大洋松竹ロビンス(1953年)洋松ロビンス(1954年)大洋ホエールズ(1955年 - 1977年)横浜大洋ホエールズ(1978年 - 1992年)横浜ベイスターズ(1993年 - 2011年)横浜DeNAベイスターズ(2012年 - 現在), 山口県(1950年 - 1952年)大阪府(1953年 - 1954年)神奈川県(1955年 - 現在), 横浜DeNAベイスターズ(よこはま ディー・エヌ・エー ベイスターズ、英語: Yokohama DeNA BayStars)は、日本のプロ野球球団。セントラル・リーグに所属する。略称は「横浜」「DeNA」。, 神奈川県を保護地域とし、同県横浜市中区にある横浜スタジアムを専用球場(本拠地)としている。また、二軍[注 1](イースタン・リーグ所属)の本拠地は同県横須賀市にある横須賀スタジアムである。更にその他には球団全体の練習場と合宿所が追浜公園内に設けられている。, 林兼商店(後の大洋漁業、現・マルハニチロ)の実業団チームとして1929年5月に設立[4] され、翌1930年の第4回全日本都市対抗野球大会では、初挑戦ながら全国大会出場を果たした(初戦敗退)。翌年は中国大会でベスト4に入るなどの成績を残したが、世界恐慌の影響などで1932年の第6回全日本都市対抗野球大会前に休止状態となり、軟式野球部だけが太平洋戦争開始前後まで存在していた[5]。戦後、1946年6月に大洋漁業(1945年12月に改称)軟式野球部として復活、同年11月(一説には1947年3月)には硬式野球部へ変更された。その後の都市対抗野球では全国大会の常連となり、1948年には国体で優勝し一躍名をあげる[5]。, 1949年プロ野球シーズンオフ、リーグ拡張方針で各企業がプロ野球参加に名乗りを上げ、大洋漁業野球部からは、戸倉勝城・河内卓司・徳網茂ら主力選手が新球団の毎日オリオンズに引き抜かれた。野球部に情熱を注いでいた前社長中部兼市[注 2] は憤慨し、自社野球部のプロ参加方針を打ち出す。, 1949年11月22日に「株式会社まるは球団」を設立し、球団名を暫定的にまるは球団とした。セントラル・リーグに加盟。山口県下関市をフランチャイズ、下関市営球場(下関球場とは別)を本拠地球場とした。本来、大洋の社章と同じ「(は)=はを丸囲みしてマルハと読ませる」とすべきだが、新聞の活字にそれがないため、「まるは」と表記していたといわれている[6]。, 社会人野球としての大洋漁業野球部は、まるは球団設立によって1949年11月30日をもって解散したが、社会人野球時代の選手には拘らないという中部兼市の方針でまるは球団に移籍出来なかった選手のために、大洋漁業が呼びかける形で「全下関」チームが結成され、1951年まで活動していた[5]。, 1950年シーズン開幕後に大洋ホエールズ(たいようホエールズ)に球団名を改称(3月に会社名を株式会社大洋球団に変更)し、読売ジャイアンツからベテランの中島治康と平山菊二、大陽ロビンスから藤井勇と林直明を譲り受け、宇高勲のスカウト活動により、東急フライヤーズから大沢清や長持栄吉、片山博らを、阪急ブレーブスからは宮崎剛や今西錬太郎らを補強してスタートしたものの、投手力の弱さはいかんともしがたく、リーグ参戦1年目は5位に終わり、1951年は6位、1952年は4位と伸び悩んだ。, 1951年、不採算から経営悪化した広島カープを吸収合併することも検討されたが、広島球団関係者や地元市民らの必死の存続運動もあって広島との合併の話は立ち消えになった。1952年、9月7日の対松竹ロビンス戦(京都市西京極総合運動公園野球場)は、当時のセ・リーグ最長イニング記録である延長20回を戦い抜いたが、チームはサヨナラ負けを喫した。同年度から保護地域(フランチャイズ)制度が正式導入となり、山口県を保護地域と定めるも、下関での主催は18試合(年間ホームゲームは60試合)に留まった。その他、主に試合は徳山市毛利球場3試合、防府市設野球場2試合、門司市営老松球場2試合、小倉・豊楽園球場3試合、平和台野球場5試合、長崎市営大橋球場3試合のほか、佐賀市営・熊本市水前寺野球場・大分県営でも開催し、山口県を含む九州で39試合主催試合を行い、下関時代は下関を中心とする北部九州の球団という意味合いも強かった。その他は、浜田市設、旧松江市営、岡山県営球場、甲子園球場、川崎球場、熊谷市営、越後髙田、長岡、新潟白山、宇都宮総合、宮城球場、盛岡市営、弘前市営球場、函館オーシャンスタジアムで開催された[7]。, 1953年1月10日、「シーズン勝率3割未満の球団に対して処罰をおこなう」という前年の取り決め[注 3] の該当球団となった松竹ロビンス[注 4] と対等合併に合意、セ・リーグは6球団体制となる。大洋松竹ロビンス(たいようしょうちくロビンス)に改称し、翌1954年には通称名の洋松が入る洋松ロビンス(ようしょうロビンス)に改称した。, 1953年シーズンは球団の合併・統合が決まりながらも運営会社の完全合併が間に合わず、フランチャイズも大洋球団の下関市と松竹球団の京都市で並立。球団運営も2社で1つの球団を運営すると言う変則的な形となり、選手の給与もそれぞれの前所属球団から支給された。主催試合は興行面の利点から大阪スタヂアムで行われた。1年目のシーズン終了後(12月16日)に球団運営会社が新設合併で正式統合され(当時の会社名は株式会社大洋松竹球団)、球団事務所も大阪スタヂアム内に置かれた。, 大阪時代の球団成績は1953年は5位。翌1954年は32勝96敗2分で最下位となり、優勝した中日ドラゴンズとは55ゲーム離され、5位の国鉄スワローズに23ゲームの大差を付けられる大惨敗であった。, 12月11日限りで松竹は球団経営から撤退し、中部謙吉がオーナーとなる。球団名を大洋ホエールズに戻し、保護地域を神奈川県へ移転した。球団事務所は川崎市中原区に設置される。, 川崎市の川崎球場を本拠とする新生ホエールズとして再スタートしたが、成績は31勝99敗。首位・巨人と61.5ゲーム差も離され、5位・国鉄にも大差をつけられての最下位。, 明治大学から秋山登、土井淳、岩岡保宏、黒木弘重、沖山光利の5名が入団。同一校の選手が同一球団へ同時に5人も入団するのは極めて珍しく、彼らは「明大五人衆」と呼ばれて注目を集めた。エース・秋山登が毎年の酷使に耐え抜き、巨人から移籍した青田昇が三度の本塁打王を獲得。, ロビンス時代の1954年から6年連続最下位。この年に1955年から同チームからリーグ最多敗戦投手のNPB記録となった(1955年権藤正利、1956年から1959年秋山登で秋山は新人から4年連続リーグ最多敗戦投手でこちらもNPB記録。), 前年まで西鉄ライオンズの監督だった三原脩を招聘。三原は新人の近藤昭仁と、シーズン中に近鉄バファローから獲得した鈴木武で二遊間を固め、秋山や島田源太郎を中心とした投手力を前面に押し出して水原茂監督率いる巨人と優勝争いを演じ、前年最下位からのリーグ優勝を果たす。日本シリーズでも毎日大映(大毎)オリオンズ相手に全て1点差勝利で4連勝。日本一に輝いた。, 1962年・1964年も阪神と激しく優勝を争うもあと一歩及ばず、1963年は、最下位・広島と1ゲーム差の5位。, 1965年以降チームの勝率は1969年から1971年の3年間を除いて本拠地移転まで5割を超えなかった。三原は1967年に監督を退任。 投手成績. 監督・コーチ 投手 捕手 内野手 外野手 スタッフ. 選手登場曲 メディア出演情報 出場選手登録 公示 2020春季キャンプ情報 選手成績. 1965年から1973年にかけての巨人の9連覇中、大洋は強力打線で巨人の投手陣を粉砕するものの、貧弱な投手陣が同様に打ち込まれ、大味な打撃合戦に発展することが多かった。当時の巨人に打ち合いで勝てるチームの筆頭は大洋で、それも両翼89メートル、中堅118メートルという本拠地・川崎球場の狭さも少なからず関係していた。, 開幕から6月頃までは混戦のセ・リーグで広島とともに首位争いの主導権を握っていた。ところが7月頃から徐々に低迷、結果的に巨人のV9を許し、優勝争いに最後まで加われなかったヤクルトにも抜かれて前年と同じく5位に終わった。青田昇が成績不振の責任をとって監督辞任。, 15年ぶり最下位。川崎から横浜への移転計画を画策していた大洋球団は、横浜での新球場建設の資金を捻出するため飛鳥田一雄横浜市長の斡旋で国土計画(現プリンスホテル)の出資を受け入れる。これにより、大洋球団の株式保有率は、大洋漁業55%、国土計画45%となる。, 2年連続最下位。オーナーだった中部謙吉が1月に死去。親会社の大洋漁業は長男の中部藤次郎が、大洋球団オーナーは三男の中部新次郎がそれぞれ継承した。松原や米田慶三郎といった守備の名手に加え、クリート・ボイヤー、ジョン・シピン、フェリックス・ミヤーンら好守備を誇る外国人選手の活躍もあり、1970年代の大洋内野陣は堅守を誇った。1980年代に入っても山下大輔、基満男、高木豊に受け継がれた。, 国土計画の主導で横浜市中区[注 5]に建設した横浜スタジアムに移転[注 6][注 7]、都市名を入れた横浜大洋ホエールズ(よこはまたいようホエールズ)に改称。横浜の小学生が入り易いファンクラブの設置[注 8] など営業体制の改革を伴った改変によりファンが増加した。この年、国土計画が福岡野球株式会社(クラウンライターライオンズ)を買収したため、野球協約に抵触することとなり、同社が持つ大洋球団の株式はニッポン放送と東京放送へ2:1の割合で売却された。これより先2002年初めまで、球団株式保有率は大洋漁業(のちにマルハ)55%、ニッポン放送30%、TBS15%となった。, 序盤は巨人と、6月からはヤクルトも交えた三つ巴の首位争いを展開する。移転初年度の年は4位に終わるが、7年ぶりに勝ち越し、観客動員は143万7千人となり、球団史上初めて100万人を突破している[注 9]。, 8年ぶりAクラスの2位に躍進。この年をもって別当は監督を退任。翌年、大洋球団の常務取締役・球団代表に就任した。, 土井淳が監督就任。初年度は4位。この年のドラフト会議では地元東海大学の原辰徳を1位指名したが交渉権を獲得できなかった。, キャンプでは野球用具が盗難に遭ってしまう。 こんにちは。 10月8日、今シーズン不調の投球が続いていた山﨑康晃投手がついに二軍降格となりました。不振での二軍降格は2015年のプロ入り以降初となります。そして、この守護神降格をきっかけに2021年シーズンを迎えるにあたっては恐らくベイスターズにはさらなる変化が訪れます。 キャンプ中から開幕前にかけて故障者が続発。山崎憲晴が左膝靱帯断裂で今季絶望[78] となったほか、梶谷隆幸、石川雄洋、山口俊といった主力選手が故障により開幕に間に合わず、開幕直後に藤岡好明とマイク・ザガースキーを相次いで獲得したが、4月は投打に渡り戦力不足の結果9勝18敗と大きく負け越した。5月に入ると梶谷など怪我で離脱していた主力選手も戻り、石田健大、今永昇太が揃って月間4戦全勝(石田は26イニング連続無失点を記録し、月間MVPを獲得)と活躍するなど5月3日時点で11あった負け越しを5月28日には完済した。交流戦は負け越したもののエリアン・エレラが加入し、7月には筒香嘉智が月間16本塁打の歴代日本人最多記録、月間6度の複数本塁打と3戦連続複数本塁打という2つのプロ野球記録を樹立するなど大爆発。7月11日には三浦大輔が世界記録となるプロ野球投手としての24年連続安打を達成(ギネス世界記録に認定され、8月22日、横浜スタジアムで認定証が授与)するなど勢いを取り戻し、17年ぶりとなる2年連続の前半戦Aクラスターンを決める。すると後半戦は8月25日に4位阪神に0.5差まで詰められるも最後までAクラスを守り抜き、9月19日、広島東洋カープ25回戦にて勝利、11年ぶりのAクラスが確定し、チーム初のクライマックスシリーズ(CS)進出を決めた。最終結果は69勝71敗3分。CS進出を決めた翌日に三浦大輔が現役引退を表明し、9月29日の対東京ヤクルトスワローズ25回戦(レギュラーシーズン最終戦)が引退試合として行われた。三浦の引退により、大洋ホエールズ時代に在籍した選手と1998年のリーグ優勝・日本一を経験した選手が全員引退した。CSでは公式戦2位の巨人と対戦し、2勝1敗でファイナルステージ進出を決めて公式戦1位の広島東洋カープと対戦、第3戦で借金チームとして初のファイナルステージでの勝利を挙げたものの1勝4敗で敗退した。DeNAがCSに進出しファイナルステージまで進んだことにより、CS制度導入後10年目にして、12球団すべてがCSに出場するとともに[79]、セ・リーグ全球団がCSファイナルステージ(第2ステージ)に出場した。, シーズンオフ、新外国人選手にアウディ・シリアコ、フィル・クライン、ジョー・ウィーランド、スペンサー・パットンの4名を獲得。ヤクルトを自由契約となった田中浩康と、FAで山口俊が巨人へ移籍した人的補償として平良拳太郎を獲得した。, 5月30日の交流戦初戦で3位に浮上する[80]。8月22日から同月24日の対広島3連戦。22日の第1戦は9回裏2対5の劣勢から筒香嘉智(2ラン)、ホセ・ロペス、宮﨑敏郎の3者連続本塁打でサヨナラ勝利。本塁打3連発のサヨナラゲームはプロ野球史上初の事であった。翌23日も5-6で迎えた9回裏2死からのロペスのソロ本塁打で同点にし延長戦に突入、10回裏に梶谷隆幸のサヨナラタイムリーで連勝。24日の第3戦は9回、二死二塁から打者倉本寿彦の詰まった打球がイレギュラーバウンドを生みサヨナラ勝ち。同一カード全てリードされている状況からの逆転サヨナラでスイープを達成した。3試合連続サヨナラ勝利はベイスターズ前身のホエールズが1960年に達成して以来57年ぶり、同一カードとしては史上初である[81]。9月に入り巨人が持ち直してきた為、巨人との間で激しい3位争いとなり順位が入れ替わることもあったが、10月1日の対広島戦で勝利し3位を確定させた[82]。73勝65敗5分で公式戦を終え、2001年以来16年ぶりのシーズン勝ち越しを決めた。, クライマックスシリーズ(CS)では、1stステージで2位阪神を2勝1敗で破り、ファイナルステージでは第1戦を落としたのちに4連勝し4勝2敗(広島へのアドバンテージ1敗含む)で1位広島を破り日本シリーズに進出した。3位からの日本シリーズ進出はセ・リーグとしては初。またこれにより、セ・リーグでは2010年代で、CS制度導入後11年目にして全球団が日本シリーズに進出した。ソフトバンクとの日本シリーズでは3連敗で王手をかけられたのち2連勝するが、6戦目でサヨナラ負けを喫し、前身含め3度目となる日本シリーズで初めて敗退。日本一を逃した。これに従い、1950年に出場し、1952年に消滅した松竹ロビンスと、2004年に消滅した大阪近鉄バファローズを含む日本シリーズの参加経験のある20世紀・昭和誕生の13球団が日本シリーズを敗退したことになる。, オフの補強の目玉として、阪神からFA宣言した大和を獲得した他、元ソフトバンクのエディソン・バリオス、自由契約となった選手では中日から武藤祐太、楽天から中川大志を獲得。新外国人ではネフタリ・ソトが加入した。, 2011年以来、球団がDeNAになってからは初めて本拠地での開幕を迎えた。開幕投手は2年連続で石田健大が務めたが試合は3-7で敗れ、5試合で1勝4敗と波に乗れずにいたが、4月6日から同8日の対広島3連戦で今季初のカード勝ち越し、続く対巨人3連戦を3連勝した。翌4月13日の対中日1回戦で逆転勝利を収め、単独首位に浮上すると[83]、4月7日から15日にかけて2001年以来17年振りとなる8連勝を記録した。しかしここから急降下を見せ、7月、8月と2ヶ月連続で負け越し最下位に沈む。9月に13勝8敗と持ち直したが、ラミレス政権では初のBクラスとなる4位でシーズンを終え、12球団で唯一平成のクライマックスシリーズの球団の主催試合を開催せずに平成を終えた[注 19]。後藤武敏、加賀繁が現役を引退、ウィーランドや荒波翔が自由契約となり退団した。トレードで7月に中後悠平や伊藤光、赤間謙が、オフには巨人を戦力外通告となった中井大介、かつてDeNAに所属した古村徹が加入した。また7月18日、オーストラリアン・ベースボールリーグのキャンベラ・キャバルリーと戦略的パートナシップを締結したことを発表した[84]。, 球団創設70周年を記念し、この年[注 20] 限定の球団プライマリーロゴが登場した。従来使用されていた星マークの上部に「70th」の文字が入り、マークの上に巻きついていたリボンが外される。中央には「YOKOHAMA DeNA BAYSTARS」、マークの下に巻きついたリボンには「Since 1949 SHIMONOSEKI」の文字が入る[注 21]。, 1月にアレックス・ラミレス監督の日本国籍取得が認められた[85]。3月14日、MLBのアリゾナ・ダイヤモンドバックスと業務提携を締結した。, 4月に約4年ぶりの10連敗を喫したが、その後は復調。5月30日の中日戦に勝利し最下位を脱出し、オールスター前には首位巨人と9.5ゲーム差の2位で折り返す。一時は首位巨人との差を0.5ゲーム差まで縮める猛追を見せたが、直接対決で敗れたことが響き、結局一度も首位に立つことなく優勝を逃した。9月24日の中日戦に勝利したことでシーズン2位が確定し、初となるCS本拠地開催を決めた。これによりNPB全球団がCSを本拠地で開催した経験を持つことになった。2位以上でシーズンを終えたのは優勝した1998年以来21年振り[注 22]。ネフタリ・ソトが43本塁打を放ち、二年連続の本塁打王と打点王を獲得。, CSファーストステージで3位の阪神と対戦。1勝2敗で球団初のファーストステージでの敗退となった。, 10月29日、筒香嘉智がポスティングシステムを利用しての米大リーグ挑戦を正式に発表した[86]。, 1月25日、筒香嘉智の米大リーグ・タンパベイ・レイズへの移籍に伴って空席となっていたキャプテンに佐野恵太が就任することが発表された[87]。, 春季キャンプでは、過去にMLBでゴールドグラブ賞を11度受賞した守備の名手であるオマー・ビスケルを特別コーチとして招聘し[88][89]、戦略的パートナーシップを締結しているアリゾナ・ダイヤモンドバックスよりバリー・エンライト[注 23] とブレイク・ラリー[注 24] がコーチ研修目的で参加し[90]、キャンベラ・キャバルリーよりジョッシュ・ワーナーとスティーブン・チェンバースが2月6日から2月14日の期間限定で練習参加することを受け入れた[91]。, 新型コロナウイルス感染症によるパンデミックにより、3月に開幕予定だった公式戦は3ヶ月遅れの6月19日に開幕した。プロ野球公式戦史上初の無観客での開幕だった。, 開幕後はエースの今永や新加入のタイラー・オースティンなどが故障で投打の主力の離脱が相次いだほか、ソトやロペスの不調があるも、佐野らの活躍でしばらくはAクラスに留まる。しかし9月の初旬に5.5ゲーム差で迎えた首位・巨人との3連戦で3連敗したのが響き、優勝戦線から脱落。その後は阪神、中日とAクラス争いになる。10月以降ナゴヤドームで6連敗を喫するなど(結果的に7月14日の勝利以降11連敗)負けが込んだことから、10月11日の阪神戦に敗れて4位に転落以降はBクラスから抜け出せず、11月5日の中日戦に敗れたことで2年ぶりのBクラスが確定。11月11日に広島が中日に負けた為、4位でシーズンを終えた。10月25日には、球団から5年間指揮を執ったラミレス監督の退任が発表された。シーズン最終戦そしてラミレス政権最後の試合で巨人を相手に逆転サヨナラ勝ちをして有終の美を飾った。この勝利によって巨人戦6連勝を記録し、リーグで唯一負け越しせず(12勝12敗)巨人の完全優勝を阻止した。また佐野がレギュラー1年目で首位打者を獲得するなど、明るい材料もあった。, 11月17日、ラミレス前監督の後任に三浦大輔二軍監督が昇格する形で就任することが発表された。背番号は81。, 1993年から2011年までの間、12球団では唯一の正式名称に企業名を冠しない球団であった。1949年末の2リーグ分裂以降では他に広島カープ(1950年 - 1967年、現・広島東洋カープ)[注 25]、東京オリオンズ(1964年 - 1968年、現・千葉ロッテマリーンズ)の事例が存在する。, 前身の大洋ホエールズと第二次世界大戦中に存在した大洋軍は名前が同じだけで、繋がりは全くない。以前の愛称「ホエールズ」は当時の親会社・大洋漁業が捕鯨を主要業務にしていたことに由来する。現在の愛称「ベイスターズ」は「横浜ベイブリッジ」と「星」とを組み合わせた造語である。日本人が発案した造語であるため、英語の母語話者には通じないらしく『ジャパンタイムズ』等の国内発行の英字新聞ではしばしば「'Stars」と略して表記される。アメリカのプロスポーツチームの本拠地ではタンパベイ(フロリダ州)やグリーンベイ(ウィスコンシン州)のように湾を意味する“ベイ”が入っている地名があるため、一部のアメリカメディアではチーム名が「ヨコハマ・ベイスターズ」ではなく「ヨコハマベイ・スターズ」として認識されることもしばしばある。, 大洋・洋松時代は略称をパ・リーグの大映スターズや後身の大毎オリオンズとの重複を避けるため「大」でなく「洋」とし、大毎が東京オリオンズとなって以降も1992年まで引き続き使用していた。2012年以降は通称が「横浜」から「DeNA」に変更される。略称については「D」では中日ドラゴンズのアルファベット略称と紛らわしくなるため、従来通り「横」を使用することが承認されたが[92]、NPBの公式サイトでは「横」でなく「ディ」あるいは「デ」との表記も使用されている[93]。また、共同通信社[94]、日刊スポーツ[95] では「D」と表記している(中日は「中」)。テレビ中継では球団名を変更した2012年時点ではNHKが「D」、地元tvkが「横」、サンテレビが「ディ」、CSで全試合中継するTBSが「De」、阪神の公式映像のTigers-aiが「デ」、J SPORTSの自社制作では「DB」などと混在していたが、2015年現在ではNHK、サンテレビ、Tigers-aiも「De」の表記を使用しており、ある程度統一されつつある。, 1993年シーズンに「ベイスターズ」へ改称した時点でアルファベットの略称が「B」で始まる球団が既にオリックス・ブルーウェーブ(略称・BW)と近鉄バファローズ(略称・Bu)の2球団存在していたため「Yokohama BayStars」の「YB」を略称としていた。なお2012年シーズンより「Yokohama DeNA BayStars」を略した「DB」へ変更された[92]。オリックスと近鉄は2005年シーズンより合併しオリックス・バファローズ(略称・Bs → B)となっているため、アルファベットの略称が「B」で始まる球団の重複状態は現在も続いている。, 球団マスコットは、「DB.スターマン」。チームの象徴である星(スター)と“ハマ(横浜)”と“スター”にちなんだハムスターがモチーフ。ずんぐりむっくり[注 26] としたユニホーム姿のゆるキャラ。元は1993年からマスコットとして活躍してきた前任者のホッシーファミリーに飼われていたペット。2012年3月18日のオープン戦・対ソフトバンクでファンにお披露目された。, また、「DeNAの勝利のために、そしてスタジアムの治安を保つために、あらゆる敵と戦う」ため、球場内のスタンドや横浜公園などでファンサービスやスタジアム観戦マナーの啓蒙(けいもう)活動を独自に行っていたヒーロー「DB.ライダー」。球団は、これらの活動に敬意を払い、球団のシンボルマークのついた新コスチュームを贈ったうえで、球団キャラクターとして公認。2012年の本拠地最終戦である9月28日の対巨人戦でファンにお披露目された。, 2015年以降、関東圏球団以外のマスコット交流はオールスター以外ではなくなっている。, 球団のマスコットではないが、TBSが親会社の頃は、横浜スタジアムと交流戦のビジター球場ではTBSのマスコットである「BooBo(ブーブ)」とTBSラジオ『エキサイトベースボール』のマスコットである「エキベ〜」が登場した。, また、カネシゲタカシがスポナビブログで連載している漫画『ベイスたん』[101] の主人公・ベイスたんは、球団の「公認“非公式”キャラクター」として位置づけられ、球団からコラボグッズも発売されている[102][103]。, 2014年より横浜を愛する人々を対象にプロ野球をきっかけとしたまちづくりを推進していくプロジェクトI☆YOKOHAMAを掲げ、シンボルキャラクターのBART &CHAPY(バート アンド チャピー)が誕生した。, トランペット・ドラム(太鼓)・選手別応援歌・ユニフォーム着用などは他球団の多くと同様だが、トランペットなどの楽器は応援には珍しい二重奏を用いている。応援メガホンの使用は他球団のファンと比較し非常に少なく、手拍子と声による応援が中心となっている。また、一部ファンにおいてゲートフラッグの掲揚が行われている。, また、2012年の親会社交代に伴い、新たな応援スタイル2種が球団側より提示された。一つは「Bibon(ビボン)」でタオルに代わり使用されるもので、専用の振りがある[注 27]。イベント時に随時配布される他、選手・監督名の入ったものも販売されている。もう1つは5回裏終了時やチームの勝利時「シャボン玉」を飛ばすことである。これは横浜スタジアムにおいて、当時ジェット風船の使用が禁止されていたため(理由は下記注を参照)、代替として編み出されたものであった。, 2001年11月16日、経営が悪化していた当時の親会社・マルハ(現:マルハニチロ)が球団株の第2位の株主だったニッポン放送への球団株譲渡(身売り)を発表し、NPBも一旦はこれを認めた。ところが10日以上も経ったところで読売ジャイアンツの渡邉恒雄オーナーが「ニッポン放送の持分法適用関連会社であるフジテレビがヤクルトスワローズの球団株を所有しており、横浜球団のニッポン放送への売却は野球協約に抵触する」と異議を申し立て、これをきっかけにニッポン放送への球団株売却は頓挫。最終的に第3位株主の東京放送に譲渡された。この際、東京放送がもともとベイスターズの株主企業のひとつだったことから「筆頭株主の交代」という判断が下された。この判断により当時の野球協約に規定されている球団譲渡を受ける際の加盟料30億円[注 38]の支払いは不要とされた。, それまでの球団の身売りは球団名からユニホームまで一新されるケースばかりだったが、マルハ→東京放送のケースは球団名もユニホームもそのまま残された。唯一変わったところは、ユニホームの袖についたTBSのロゴマークが入ったワッペンだけである。横浜ファンでもあるコラムニストの綱島理友は「ファンを悲しませない最もスマートなやり方。球団の身売りはこうあるべきだ」と高く評価している。, 2005年10月、楽天が東京放送の株式を大量購入して筆頭株主となった。しかし、楽天がすでに東北楽天ゴールデンイーグルスを運営していることから野球協約違反になる可能性が再浮上した。11月に楽天側は経営統合を撤回、資本・業務提携となったが、東京放送が認定放送持株会社東京放送ホールディングスに移行したことから楽天は買収を断念して反対株主の株式買取請求権を使い、東京放送ホールディングスに保有全株式の買取請求を行ったことで問題は収束した。, 東京放送ホールディングスが筆頭株主(事実上のオーナーと目される)であった時代も、傘下(子会社)の放送局であるTBSテレビ・TBSラジオでは、週末午後に行っていた対巨人戦以外の中継は、大洋漁業からマルハ保有時代よりも減少し、散発的に行われた程度だった。巨人戦以外は視聴率と聴取率が取れないことにも起因していた。テレビ中継は通常テレビ神奈川が単独放送し[注 39]、同局で放送しないデーゲーム分のみ、自社かテレビ東京系列(対中日戦はテレビ愛知、対阪神戦はテレビ大阪)の中継で補っていた。フジテレビもニッポン放送との資本関係上放映権は保有しているが、2006年以降自社での放送から撤退し、対戦相手の地元系列局(対阪神戦は関西テレビ、対ソフトバンク戦はテレビ西日本)制作中継のために使っていた。, CS放送については、2002年にマルハから東京放送ホールディングスに譲渡されてからも、しばらくは巨人戦のTBS系列全国中継実施時のみTBSニュースバードで放送するも、当時フジテレビ系のCSであったJ SPORTS(のちにスポーツ・アイ ESPNとの合併の際、東京放送も資本参加)で中継していたが、2008年以後TBSニュースバードに放送チャンネルが移行している。2014年シーズンよりTBSチャンネル2に移行された[注 40][110]。, ラジオ中継はTBSラジオが基幹局を務めるJRN系列、ニッポン放送が基幹局を務めるNRN系列で裏送りも含めて中継していた。主に対巨人戦が雨天中止になった時の予備カードや、対巨人戦がないときに放送された[注 41]。東京放送ホールディングスは親会社でなくなった2012年以降もベイスターズの株を保有しており、TBSテレビ・TBSラジオでの中継を継続してきた。しかし、TBSラジオの中継は2017年シーズン限りで撤退し(JRN系列局向け裏送りのみ継続)、現在はTBSテレビのみ中継している。, DeNAが親会社となった2012年以降は、上記放送のほか、各ライブ配信サービスでの主催試合生中継も展開している。展開状況は以下の通り。, 1950年 - 1951年のホームユニフォーム 2019年に球団創設70周年を記念して復刻された。, 2020年 - ビジターユニフォームを一新。コンセプトは、「より青く、より強く。」。カラーは、球団のメインカラーである「横浜ブルー」を中心に、港町・横浜の海のように鮮やかな4種類の青色を使い、全て青色で構成。さらに、上部へ大きく拡がる「ストライプ」の動きを加えることで、選手の力強さを引き立て、無限に広がる可能性を表現した[123]。, 2004年から毎年原則で、夏季限定ユニフォームを採用しており、いずれも8月の主催ゲームで行われるのみである。交流戦・夏季限定ともに、2年ごとにデザインが変更されている[注 46]。, 親会社がDeNAに変更されてからは、毎年夏に『YOKOHAMA STAR☆NIGHT(ヨコハマスターナイト)』というイベントが行われており、2013年からはその期間中に選手および監督・コーチはスペシャルユニフォームを着用。, なお、2020年は東京オリンピック/東京パラリンピックの開催により、横浜スタジアムは、硬式野球(男子)とソフトボール(女子)の試合会場として使われ、その準備などの都合により、6-9月の一部試合の開催ができないため、東京ドームで6試合、新潟県立野球場や、千葉ロッテマリーンズの本拠地千葉マリンスタジアムでの代替開催も予定していたが[131]、オリンピックの開催延期に伴い、全て横浜スタジアムに変更となった[132]。, 2021年は延期になった東京オリンピック/東京パラリンピックの開催により、横浜スタジアムは、硬式野球(男子)とソフトボール(女子)の試合会場として使われ、その準備などの都合により、6-8月の一部試合の開催ができないため、東京ドームで6試合、新潟県立野球場で2試合、東京ヤクルトスワローズの本拠地明治神宮野球場で5試合の代替開催を予定している。, DeNA球団では、球団在籍時に日本プロ野球名球会の入会条件である通算2000本安打・通算200勝・通算250セーブのいずれかを達成した選手を、球団の貢献者として顕彰している。2020年現在では7人が顕彰されており、その功績を讃えるレリーフが横浜スタジアムの右翼外野席最上段の手すり(2012年以降。それ以前は現在リボンビジョンが設置されている右翼フェンス上部)に設置されている。, 1974年から1977年のシーズンに使われたユニフォームのこと。ホーム用は橙色、帽子とビジター用は緑色を使っていたため、湘南電車を髣髴とさせる配色から「湘南電車カラー(湘南カラー)」と言われた。, このユニフォームが採用される契機になったのは山下大輔の入団である。当時の大洋は静岡県草薙総合運動場硬式野球場でキャンプを行うなど、静岡県とのつながりがあった。そこに静岡県出身の山下がドラフト1位で入団したため、ヘッドコーチの秋山登が「(静岡名産の)ミカンとお茶を題材にしたユニフォームは出来ないものか」とオーナーの中部謙吉に提案したところ、中部も「食品会社としてイメージアップにつながる」と了承。その結果、橙色と緑を使ったユニフォームが完成した。具体的なデザインは、オークランド・アスレチックスの当時のユニフォームを参考にしている。, セ・リーグでは2000年以前まで勝率順で順位を決定していたが[注 58]、2001年は勝利数順で順位を決定する方法が採用された[注 59]。, 2001年、横浜は69勝67敗4分け、広島は68勝65敗7分けでそれぞれシーズンを終えた。勝率は横浜.507、広島.511であり、前年までの順位決定方式なら広島が上位になっていたところだが、上述の通りこの年は「勝利数順」で順位を決めていたため、勝利数で広島を上回った横浜が3位となり、5年連続のAクラス入りを果たした。, しかし、この順位決定方式は、シーズン途中では試合を早く消化したチームが上位になりやすく、実態が分かりづらいという理由から、わずか1年で順位決定方式が「勝利数順」から「勝率順」に戻された[注 60]。, 2005年にも勝率順位と勝利数順位が異なる事態が起こったが、今度は勝率順で順位を決定する規定になっていたため、ヤクルトよりも勝利数の少ない横浜が(横浜69勝70敗7分け、ヤクルト71勝73敗2分け)、勝率でヤクルトを上回り(横浜の勝率は.496、ヤクルトの勝率は.493)、最終順位は横浜が3位、ヤクルトが4位となった。, 大洋時代は初代本拠地の下関のほか、春季キャンプを行っていた草薙球場を始め、北海道、東北地方などで、1980年代後半からは神奈川県内の平塚球場(バッティングパレス相石スタジアムひらつか)や相模原球場(サーティーフォー相模原球場)や北関東の宇都宮清原球場、ひたちなか市民球場でも開催したことがある。, 2016年以降は地方開催を新潟県立鳥屋野潟公園野球場(HARD OFF ECOスタジアム新潟)での1試合のみに縮小し、沖縄や平塚・相模原など保護地域の神奈川県内での地方開催も中断している。2020年は新潟の他に前述の通り、東京オリンピック/パラリンピックで横浜スタジアムが使用できない都合による兼ね合いで、東京ドーム、ZOZOマリンスタジアムでも開催が予定されていた[143]。, 横浜時代の2010年6月29日・6月30日の2日間、同年全面改築が竣工した那覇市営奥武山野球場(沖縄セルラースタジアム那覇)で対東京ヤクルトスワローズ2連戦を主催開催した。大洋ホエールズ時代の1975年5月17日・5月18日に改築前の県営奥武山野球場(当時)で対広島東洋カープ2連戦を主催開催したが、沖縄県ではこの試合以来35年ぶりのプロ野球公式戦となった。また、この2試合は沖縄県でのプロ野球一軍公式戦[注 61] としては史上初のナイター(19時開始)となった。それ以降も同球場では2011年、2012年、2014年、2015年に横浜/横浜DeNA主催による公式戦が毎年2試合組まれ、最低でも年1試合は開催された。, 2013年は阪神タイガースが同球場で公式戦を開催したため沖縄遠征は行わなかったが、2014年は巨人を帯同し、2年ぶりに沖縄遠征を実施した。ただ、7月8日と7月9日の2連戦(平年より30分早い18時30分試合開始)での開催を予定していた。しかし、7月8日の試合については平成26年台風第8号が最大級の勢力を保ったまま沖縄に直撃する恐れがあり試合の開催が困難であることと、観客の来場時の安全を考慮して、前日(7日)午後の段階で開催取りやめを発表した[144]。またこの影響で、当初沖縄遠征に参加する予定だったユリエスキ・グリエルは、台風による飛行機の揺れへの不安から参加を辞退したことも判明した。グリエルは飛行機恐怖症との診断を受け、球団と協議したうえで沖縄遠征への参加を見送ったとしている[145]。, なお、ベイスターズ主催試合から撤退した2016年以降の沖縄での公式戦はパ・リーグの球団が持ち回りで主催試合を行っている。, HARD OFF ECOスタジアム新潟では開業した2009年から毎シーズン主催試合を開催している。DeNAへ親会社が代わった後は南場オーナーが新潟出身という事もあり、一時は、集客の見込める土曜・日曜の開催や対巨人戦の開催を行ったり、2016年には日本ハムを帯同して、同球場初となるセ・パ交流戦を1試合行うなど、新潟への配慮は大きい。, 先述の通り2016年以降は地方開催を縮小しており、上記沖縄、並びに神奈川県内の平塚、相模原などでの一軍公式戦開催からは撤退したものの、新潟での開催は毎年平日1試合のみであるが唯一継続している。ただし、2020年は上述の理由で、新潟では土日を含む3連戦を予定していたが[143]、いずれも横浜スタジアムでの開催に変更となった[132]。, 初代本拠地である下関市にある下関球場(現・オーヴィジョンスタジアム)においては2007年を最後として公式戦開催が途絶えており、将来的な公式戦の復活開催実現へ向けて同市が中心となって「下関プロ野球招致実行委員会」[149] を設立し、その手始めとして2019年、当球団創設70周年を迎えるにあたっての記念試合として、広島東洋カープとのオープン戦を誘致、球団最初の試合日に合わせて同年3月10日にデーゲームで開催することを決めた。, しかし、試合開始直前の降雨によりこのオープン戦の開催は中止となり、下関での記念試合は幻に終わった。この試合では1950年3月10日に行われた国鉄スワローズ戦で着用した初代ユニフォームを復刻して選手が着用する予定でもあった(この復刻版ユニフォームは3月21日に横浜スタジアムで行われた北海道日本ハムファイターズ戦で改めて着用された)。将来的には公式戦開催を目指して取り組んでいる[150] が、2020年は公式戦開幕が東京オリンピックの関係により通常より早まるため、オープン戦は2019年12月の発表段階[151] では予定されていない。, 2012年5月1日から6日までの5戦で「全額返金! 2021年の横浜DeNAベイスターズでは、2021年シーズンの横浜DeNAベイスターズの動向についてまとめる。 このシーズンの横浜DeNAベイスターズは、 三浦大輔 監督の1年目のシーズンである。 !(2017年3月17日), 祝!プロ野球開幕!今年もみなとみらい線に乗って横浜DeNAベイスターズを応援しよう!, http://www.ohbsn.com/contents/b-spirit-niigata/index.php, https://www.baystars.co.jp/news/2016/03/0310_01.php, http://www.baystars.co.jp/news/2016/07/0706_01.php, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/05/08/kiji/K20120508003206980.html, クライマックスシリーズ主催試合観戦権付きチケットなど、9/28(金)〜10/3(水)対象の企画チケットを8/25(土)に発売, 2012年発売『〜感謝、そして夢〜新・熱いぜ!チケット』での「2016年度 クライマックスシリーズ・セ」ご観戦について, http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20140620-1320640.html, http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/149712, 『YOKOHAMA STAR☆NIGHT 2014』第1弾情報 3年目の今年、地域に根差した横浜銀行がイベントパートナーに決定, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=横浜DeNAベイスターズ&oldid=80749946, 連続Bクラス最長記録 10年(1950年 - 1959年、2006年 - 2015年), クジラに乗った少年 - 川崎を本拠地にしていた時のペットマーク。グッズの他、ジャンパーやユニフォームの袖にワッペンが縫い付けられていた。, ホッシーファミリー(1993 - 2011) - 球団名を「横浜ベイスターズ」と一新したことに伴い誕生。以降約20年にわたり、ベイスターズのマスコットとして活躍してきたが、2012年「横浜DeNAベイスターズ」の誕生に伴いホッシーファミリーが故郷の星に帰ることになり、ペットとして飼われていたスターマンに後を託すことで表舞台から姿を消すことになった。2012年3月18日のオープン戦・対ソフトバンクでホッシーファミリーの「卒業セレモニー」が行われた。, 語尾に「YO!!」(あるいは本人の名前に引っ掛けて「ZO! 投手成績. トレードなどによる移籍・新外国人選手の獲得・NPB球団外(MLBなど)からの復帰選手: 別リーグへの移籍および(海外FA権行使・ポスティングなどでの)NPB球団外への転出: 来季の新監督・新コーチ、または退団する監督・コーチ: 新監督・新コーチ全員が役職・背番号まで含めて, 宮崎剛(1966・1972)※1966年は三原の病気療養(健康診断による入院)に、1972年は代行・青田の退任に伴う。. 投手成績. 二軍監督: 奈良・高田商高-大洋-横浜-DeNA: 70: 下園 辰哉: 二軍打撃コーチ: 宮崎日大高-九州国際大-横浜-DeNA: 71: 小池 正晃: 二軍外野守備走塁コーチ: 横浜高(甲)-横浜-中日-DeNA: 72: 川村 丈夫: 投手コーチ: 厚木高-立大-日本石油-横浜-DeNA: 73 !」)を付けた言葉を多用する, ブラックホッシー - 黒いユニフォームの背中に「マスコット命」、サングラスの下に充血した目という謎のキャラクター。TBSの野球番組『好プレー珍プレー』の番組内企画で生まれたジョークマスコット。中の人(, ニューホッシー - 正式名称は「2001年ニューホッシー」。文字どおり2001年シーズンに登場。視線が常に本人から見て左側を向いているが、これは球団公式イラストのホッシーとデザインを合わせたため。以前からのホッシーと比較して、顔が着ぐるみでない(同時に登場した湘南シーレックスのマスコット・レックの人形と同じ材質)うえに大きさも小さいため、体型がシャープで、既存ホッシーに比べると多少アクロバティックな動きもこなせる。2001年から2004年頃にかけて度々登場していたが、既存ホッシーほどの支持を得られなかったため、数年で姿を消すことになった。背番号2001。, 代打登場時には1回だけ「代打のテーマ」が演奏される。応援歌前のファンファーレが存在する選手(かつて在籍した, 以前はプロの作詞家・作曲家により製作され、ポップス調やロック調の編曲で収録された選手別応援歌CDが発売されており、球場でのトランペット演奏でもこれらの応援歌を用いていた。しかし、2000年頃以降に新規製作された楽曲は諸々の事情により、実際に球場で使用されることは少なくなった, ただしこの以前にも他球場において、例外的に横浜ファンが大々的にジェット風船飛ばしを行った事例がある。2006年5月27日の, 2007年より試合時、初回先頭打者に対して「勝利の輝き ファンファーレ」が演奏されるようになった(初期はビジターのみ)。, ヒットでの出塁の際はファンファーレ(三三七拍子)の後に、ヒットを打った選手の名前をスリーコールする。, 2017年終了時点で日本シリーズ出場は3回。現存するセ・リーグ6球団の中では最少だが、2016年まで敗退がなく(2005年発足で敗退のない楽天を除けば)現存11球団で最も日本シリーズの敗退が遅かった。また試合勝率.625は出場全球団のうち最高の記録である。, 現存するセ・リーグ6球団の中で唯一、球団OB(選手としての在籍経験者)監督の下でのリーグ優勝・日本シリーズ制覇を一度も達成していない, 現存するセ・リーグ5球団全てに対して通算対戦成績が負け越している。現存するセ・リーグ6球団の中ではAクラス入り回数が最少(2019年終了時点で18回)。3シーズン連続90敗を唯一記録している球団であり(2008年 - 2010年)、他に2シーズン連続90敗を記録している(1954年 - 1955年)。2シーズン連続90敗は現存する12球団では唯一の記録である(解散球団では過去に, 打者有利な横浜スタジアムをホームにしているため、伝統的に打線は98年のマシンガン打線に代表されるようにバントや盗塁等の小技が苦手でヒットやホームランで打ちまくり、投手は先発勝ち投手の権利を得ると5 - 7回で降板し中継ぎに託す大味な戦いが得意なチームだったが、親会社がDeNAになってからはチームカラーを一新し、GMに, 最後にリーグ優勝した年は1998年で、12球団ではオリックスに次いで2番目に遠ざかっており、セ・リーグでは最も遠ざかっている。, レフト側外野指定席の一部を対戦カード別年間指定席として発売している。2007年は三塁側内野指定席の一部についても「ビジターシート」として対戦カード別年間指定席が発売された。, 試合前や試合中に行われるイベントの種類と回数がかなり多く、試合以外のイベントも楽しめることができる。, スピードガンコンテスト(試合ごとに異なる募集形式で選ばれた10名がマウンドから投げる、ホーム最終戦はマスコミ記者対抗戦が行われるのが恒例。, BAYスマイルショット(オーロラビジョンを使用した写真撮影、試合前と試合中に数回ずつ), ベイスターズスーパーバズーカ(客席に子供向けのシャツやカラーボールを発射、試合中に2回), ドッカーン!FLY CATCH(試合によって異なるが1名か2名がフライキャッチに挑戦、成功すればホットドッグのトッピング量2倍などの特典), ハッピースターダンスコンテスト(5回裏終了後。オーロラビジョンを使用したダンスコンテスト、一番多く映った人に賞品が送られる。賞品は2006年がグローブ、2007年が, 横浜スタジアムでは交流戦と相手チームのマスコットが来場している時、そして(本球場での)同一カードシーズン最終戦に限り、7回にビジターの応援歌が流れる。, 東京放送時代まで横浜スタジアム側から、選手強化費用として毎年3億円を球団に還元していた, 株式会社煙草屋安兵衛が展開する食料品店チェーン「ベイスターズマート(旧名:ホエールズマート)」が神奈川県内に40店ほど存在する。, 1951年 ロゴが筆記体の「W」に変更される。同時にビジター用の定番となる「TAIYO」の印が初登場。, 左袖のマークはK・N・G・Wの4文字がAを取り囲む形となっている。この年に新しい本拠地に定めた, 帽子の色は黒にオレンジ色のW。アンダーシャツ・ストッキング・スパイクシューズの色は黒。(スパイクシューズはラインなし)ユニフォームはホーム用の地色が白でビジター用がライトグレー。ホーム用の筆記体のWhalesロゴとビジター用のTAIYOロゴ、胸背番号、背番号の上のネームがオレンジを黒で囲んだものとなり襟袖ズボンラインもオレンジを黒で囲んだものとなる。帽子のWマークはそれまでの筆記体から斜体がかったデザインに変更。左袖に○はマーク。, 帽子はグリーン地にツバ・天ボタン・空気穴がオレンジ。マークはオレンジに白で囲われた「W」。, ホーム用は、白地でないものを採用。オレンジ色地に緑の「Whales」ロゴ(白い縁取り入り)が入ったユニフォームを使用。, ホーム用は、白地にマリンブルー(紺色)のライン。胸に本拠地名のロゴ「YOKOHAMA」(紺色)、左袖に「TAIYO」(同)。, ビジター用は、上着が紺色に白(ホーム用と逆)で「TAIYO」、左袖に「WHALES」。「TAIYO」、「WHALES」のロゴはこれが最後。パンツはグレー, ビジター用は上着が青、パンツが白で、袖とパンツに2本線(上着は白、パンツは青)が入る。胸ゴロは白ので「YOKOHAMA」の文字と, ホーム用はピンストライプがなくなり、左胸に「β」の印、右腹部に背番号。両肩に銀色の星マークが入る。「BAYSTARS」の大文字ロゴがパンツの左側線に入る。背ネームは幅狭。, ビジター用はグレー地、白のピンストライプ、前面に筆記体の「Yokohama」の文字、左腹部に背番号。ビジター用のみ帽子のツバの色が青色。背ネームはホームに比べて幅広。, ホーム用は「継承と革新」をコンセプトに1993年から2008年まで使われたデザインを踏襲、4季ぶりに縦じまが採用され、1998年に日本一に輝いた当時のユニホームを彷彿とさせるデザインとなった。白を基調にライトブルーの縦線で、上下縦じまを採用。胸には新球団のロゴを据えられたほか、脇下には濃紺、袖口・首回りにはライトブルーのラインがそえられた。帽子は濃紺を地色にチームのシンボルマークの「B」。, ビジター用の上は濃紺がベースとした単一カラーで袖口や首回り、ラケットラインには薄い青。ズボンは白と濃紺の二種類を用意、上下とも濃紺のユニホームを着用することもある。背番号・胸番号と胸の「BAYSTARS」の文字は「横浜の海」をイメージし、白と水色のグラデーションがかかったデザインとなった。帽子には濃紺を地色にチームの象徴でもある「星」をあしらった。, 7月3日から5日の対巨人戦では、本拠地の横浜スタジアムでビジター用ユニフォームを着用するイベントを開催。ただし、ソックスはイベント用に作られたもの(紺色地にブルーの二本線)を使用。, デザインは1993年から2008年まで使用していたビジターユニフォームを彷彿とさせる「ベイスターズブルー」をメインカラーに採用、首回りと袖口に水色が据えられた。左袖にチームロゴ、胸に「, 2014年 - 前年使用したサードユニフォームの勝率が.575のハイアベレージを記録したことで、このサードユニフォームを新ビジターユニフォームとして導入。デザインは、胸ロゴが「, デザインは前年まで使用したホームユニフォームと同じで、メインカラーを「海と港の街」横浜をイメージした鮮やかな「横浜ブルー」に変更。また、ユニフォームの首元の裏に選手自身が大事にしているスローガンや目標を言葉にした「Personal slogan」が記される。帽子は「横浜ブルー」にチームのシンボルマークの「B」。, 「海と港の街、横浜」をコンセプトに、これまで、ビジターユニフォームの胸に配していた「DeNA」のロゴを「横浜に根づき、横浜と共に歩む」という想いから「YOKOHAMA」に変更。球団のメインカラー「横浜ブルー」をベースに、青色の濃淡のストライプを使って、横浜の澄み渡る青い空と海を表現したデザイン, 2000年 - 2010年 二軍の独立採算化と一軍との差別化を目的に、二軍の球団名を「, ホーム用:シャツは白地にエメラルドグリーンの首元から胸にかけてのラケットラインと袖口のラインが入り、胸にエメラルドグリーンで筆記体の「Searex」ロゴ、胸番号・背ネーム・背番号は黒、パンツは白地に横に青緑色のライン、アンダーシャツは青緑色。, ビジター用:シャツはエメラルドグリーン(ラインなし)、胸に白で筆記体の「Shonan」ロゴ、胸番号・背ネーム・背番号は白、パンツは白地に横にエメラルドグリーンのライン、アンダーシャツは青。, 日本のプロ野球球団のユニフォームの多くは、背番号・背ネーム部分をユニフォームの生地に直付け(刺繍もしくはプリント)しているが、湘南のユニフォームの背ネーム部分は、アーチ状の生地にネームをプリントしたものをユニフォームの生地に縫い付けている。これは「シーレックスに定着されては困る」という励ましの意味で、2012年現在、日本のプロ野球球団に於いては唯一のケースである。, 2005年 - 2006年 ホーム用はピンストライプがなくなって左胸には「β」の印、右袖に背番号。左袖にTBSのロゴのワッペン。ビジター用は灰色の下地に前面に筆記体で「Yokohama」の文字、ホーム用と同じく右袖にも背番号。, 2007年 - 2008年 ホーム用のみとなり、チームカラーの青を一切使わない紺基本のユニフォーム。左胸には「β」の印、右胸に背番号が紺に金の縁取り。両脇には, 2004年 - 2005年は白の下地の前面に「BayStars」のロゴが入り、脇下が青で当時の, 2006年 - 2007年は白地の前面にブロック体で「BAYSTARS」の刺繍、その左上の方に背番号、左肩に「yokohama」、背中には背番号のみで首周りは青色で肩付近にかけてマリンブルーにし、帽子はマリンブルー地に「B」のみ。「ベータ・キャップ」と称される。, 2010年は3年ぶりに夏季限定ユニフォームが登場した(2011年も同デザイン)。デザインは通常ホーム用をベースに、ラグランスリーブ部はグラデーション入りの青として背番号にも金の縁取りが入る。キャップは通常ビジター用をベースに、マーク部が金文字となる。, 2013年8月2日からの対中日3連戦にて、選手プロデュースのスペシャルユニフォームを着用, 2014年8月8日からの対ヤクルト3連戦にて、夜空を彩る流れ星をイメージしたデザインのユニフォームを着用。プロ野球で一番輝く星になりたいという選手・ファンの思いを表現して青を基調にチームカラーの青や勝利の白星を意味する白で描かれた星をデザインし、キャップはビジター仕様のものを用いた。, 2015年8月18日からの対ヤクルト3連戦にて、「海と港の街・横浜」を象徴する港の光きらめく水面をモチーフとしたデザインで、水色、青、濃紺の爽やかな迷彩柄で、小さく12選手のシルエットも描かれている。キャップには、この3試合限定で勝利を意味する「白星」が刺繍されたものを用いた。, 2016年8月5日からの対中日3連戦にて、夜の横浜に輝く星空をモチーフとしたデザインで、横浜ブルーの夜空に煌めく星を幾何学模様のグラデーションで表現したものとなった。キャップには通常のホームゲームで着用するものの左つばにDeNAへの球団移管5周年に合わせ「5th ANNIVERSARY」と刺繍されたものを用いた。, 2017年8月1日からの対中日3連戦にて、「“星空の煌めき”ד横浜の街並み”」をテーマとしたユニフォームを着用。夜の横浜を空から見下ろした、きらめく街明かりをモチーフとし、横浜ブルーをメインカラーに星空の煌めきをドット表現による幾何学デザインで表した。「横浜スタジアム」や2017年3月にオープンした球団の複合施設「, 2018年7月31日からの対巨人3連戦では、「スパンコールのように輝く横浜の星空」をテーマとしたユニフォームを着用。きらきらとスパンコールのように輝く横浜の星空を、“横浜ブルー”を基調に濃淡をつけた青色で表した。また、レプリカユニフォームにはより輝きを表現するために、光沢感と凹凸のある素材を球団として初めて採用し凹凸を活かしたテクスチャーにこだわり、本物のスパンコールがついているような立体感のあるデザインとなった。キャップは通常のビジターゲーム時の物を使用。, 2019年7月30日からの対ヤクルト3連戦にて、「宇宙への航海」をテーマとしたユニフォームを着用。左胸を中心に球団ロゴに含まれる様々な青色を同心円状の楕円にあしらったデザインで宇宙を表し袖は紺色とし、STAR☆NIGHTシリーズで初めてテーマデザインに合わせたマークとして楕円形のデザインを取り入れたYのマークを左胸の楕円中心部とキャップにあしらい宇宙の中心である横浜を表した。, 2020年9月8日からの対阪神3連戦では、イベントテーマである「“Supernova”」をテーマとしたユニフォームを着用。昨年度からのスピーシー感を踏襲し、横浜を中心に広がる宇宙を“横浜ブルー”をはじめ、球団ロゴマークに含まれる様々な青色で表現した。キャップは通常のビジターゲームの時の物を使用。, 2016年、DeNA球団5周年記念の一環として5月10日 - 12日の中日戦、6月15日・20日, 2019年3月10日にオーヴィジョンスタジアム下関で開催される予定だった「球団創設70周年記念試合」の広島東洋カープとのオープン戦では、1950年のホーム用ユニフォームを復刻したものを着用, 2019年4月12・13日の対広島戦、6月22・23日の対楽天戦、8月10・11日の対中日戦を対象に球団創設70周年を記念した「70th ANNIVERSARY GAME」にて、横浜ベイスターズ時代の初代ビジターユニフォームを踏襲した青色とロゴ配置、大洋ホエールズ時代の初代「W」マークを横にしたBマーク、袖とパンツ横に1959年の二本線を踏襲した上で1974年からの湘南電車カラーのオレンジと緑、右胸と背の「YOKOHAMA」を初代大洋ユニフォームをイメージしたフォント、横浜大洋時代を踏襲した背番号ロゴタイプとショルダーデザインといった歴代のユニフォームデザインをモチーフとした「70th ANNIVERSARY UNIFORM」を着用。, 1954年:球団名が洋松ロビンスに変更され、紫地に赤字で大洋漁業のまるはマークと松竹の社章を合体。, 1955年 - 1963年:球団名が大洋ホエールズに戻り、合併前のデザインに大洋の社名が入る。「大(は)洋」, 1964年 - 1977年:漢字を「TAIYOWHALES」とアルファベットに変更。「TAIYO(は)WHALES」, 初期にはKAWASAKI(川崎)という文字が入るバージョンも存在した。「KAWA(は)SAKI」, 1978年 - 1992年:紺色地に白文字で「W」。その下に同じく白文字で小さく「YOKOHAMA TAIYO」, 1993年 - 2011年:中央に「YOKOHAMA BayStars」ロゴ、その下に小さく「REACH FOR THE STARS」(慣用句で“トップを目指せ”)。ホーム用は白地に青文字、ビジター用は青地に白文字。文字の後ろには☆のグラデーション。, 2012年 - :上下に青・青緑色のツートンカラーのライン、白地に青の横ストライプ、青いリボンが巻きついた星マークに文字が入った(☆の中央に「BAYSTARS」、巻きついたリボンの上に「DeNA」、下に「YOKOHAMA」)プライマリーマークを使用。, 2000年 - 2010年:湘南シーレックス時代のもの。白地に渦潮を模したグラデーション、中央に「SHONAN Searex」ロゴ、その下に一軍のものと同様に「REACH FOR THE STARS」のスローガンが入る。, 教えて!EA(2005年 シーズン(4月上旬 - 9月下旬)中にのみ毎週日曜日の17時25分にTBS地上波で放送されていた。同年就任の, お願い!EA(2006年 シーズン(4月上旬 - 9月下旬)中にのみ毎週日曜日の17時25分にTBS地上波で放送されていた。), move on ベイスターズ!(2007年 イッツ・コミュニケーションズと横浜ケーブルビジョンで、横浜スタジアムでのナイター試合開始直前の平日17:30 - 17:45に生放送された番組). 投手コーチ 72 ... バッテリーコーチ 89 藤田和男: ブルペン担当バッテリーコーチ 76 田代富雄: 巡回打撃コーチ 二軍 ... チーム情報 - 横浜DeNAベイスターズ; 横浜DeNAベイスターズ 2020年度 選手一覧 - … 前のページに戻る ... ホ | ル ド 打 者 投 球 回 数 被 安 打 被 本 打 四 球 死 球 奪 三 振 失 点 自 責 点 防 御 率; 横浜DeNAベイスターズ: 126: 1: 8: 3: 66: 57: 33: 0: 4825: 1112 … 2012年シーズンは右肩痛が治らず、一軍・二軍を通じて登板機会が無いまま6月25日に任意引退選手として公示され、現役を引退した 。同年11月15日に任意引退選手公示を抹消し、自由契約選手として公示された 。 詳細情報 年度別投手成績 選手登場曲 メディア出演情報 出場選手登録 公示 2020春季キャンプ情報 前のページに戻る ... ホ | ル ド 打 者 投 球 回 数 被 安 打 被 本 打 四 球 死 球 奪 三 振 失 点 自 責 点 防 御 率; 横浜DeNAベイスターズ: 76: 1: 6: 0: 42: 32: 28: 0: 2946: … 二軍. 監督・コーチ 投手 捕手 内野手 外野手 スタッフ. 投手そのものはなかなかの好成績。 ただし故障者続出で改めて見えてきたように その成績を支えている投手の層はかなり薄い。 二軍の先発は 一軍では結果を出せなかった阪口以外ボロボロの状態。 リリーフは奪三振率こそ高いが 11月15日の12球団合同トライアウト(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)に参加し、対戦打者4人全員を三振に抑える 。
キラ メイジャー 19話 感想, ラーメン 食べた あと バナナ, Doctors 最強の名医 2013 キャスト, 三浦知良 ブラジル 知名度, 日本 から ブエノスアイレス 距離, 今夜 ロマンス劇場で 主題歌 歌手, 藤川球児 登場曲 2020, 競馬 必ず儲かる 買い方, 韓国 野球選手 メジャー, Netflix アカウント情報 出ない,