盧溝橋という橋のそばで起きた、日中戦争の武力衝突のきっかけになった事件です。 ちなみに盧溝橋とは、北京西南部郊外の永定河に架かる橋で、元代にマルコ=ポーロがこの橋を渡ったことが『東方見聞録』にも書かれている名所です。 日中戦争は3つに分けることができる。(①満州事変期②全面対決期③太平洋戦争期)戦後・震災・金融恐慌のトリプルパンチを喰らい、世界恐慌でトドメを刺され、もはや中国を侵略するしかなくなってしまった。そこに中国のテロや抵抗が起こり陸軍が暴走する。 歴史 - 日中戦争の引き金 日中戦争の原因って満州事変と盧溝橋事件どちらですか? むしろこれらは、 満州事変→盧溝橋事件→日中戦争 と繋がってるんですかね? 質問No.6807395 日中戦争(1937年7月7日から1945年9月9日)の原因は? 日中戦争の内容と結果は? 1.満州の日本軍が、日本が経営していた南満州鉄道を爆破し、それを中国軍のせいにして、奉天と大連を制圧し、満州を占領した事件です。 外務省が外国人の入国制限を緩和したのが 今の感染爆発の原因。 ... 日露戦争 日中戦争 太平洋戦争 満州国建国 ... 事故や事件をしてはトンズラ 結局何処からも信用されてないのが朝鮮 さて、今回は『中国の内戦』でも触れた【盧溝橋事件】の詳細を見て行こう この盧溝橋事件が『支那事変(日中戦争)』の原因だとするのが中国の言い分な訳だけど、中国側の主張する盧溝橋事件の内容は、日本軍が一方的に共産党軍(八路軍)を攻撃して、中国人に多数の被害が出たと言う話だ 昭和史講義『§8.盧溝橋事件―塘沽停戦協定からトラウトマン工作失敗まで』(岩谷將先生) 最近、なぜか岩谷將先生の検索が増えているので疑問に思っていた。しかし、その原因はおそらく2019年10月18日に岩谷先生が北京国際空港で中国にスパイ容疑 (盧溝橋周辺の航空写真 出典:Wikipedia) 盧溝橋事件とは、1937年(昭和12年)中国の北京市近くにある盧溝橋という橋で起こった衝突事件のことです。 この事件をきっかけに日本と中国は本格的な戦争状態に突入しました。 ちなみに中国ではこの事件をこの事件が起きた日である7月7日から七七事件とも言われています。 通州事件が日中戦争の原因の一つ?あれを起こしたのは中華民国じゃないのになんでなん? 通州事件は、中国人民が、征服者であった日本に対して蜂起した事件です。 日中戦争の発端となった事件。1937年7月7日北京郊外の盧溝橋で演習中の日本軍が,兵1名の行方不明から中国軍を攻撃。 9日停戦協定成立,中国軍責任者の処罰を決定。しかし日本政府,軍部は〈中国側の計画的な武力抗日〉として11日以降派兵し,日中戦争に拡大。 1930年代、日本で軍部が政治に介入するまで力を付けていた。中国東北部での権益を得るため、清朝最後の皇帝を擁立し、満州国を建国する。日本の行動は、国際批判を呼び、国際連盟を脱退。1937年に日中全面戦争へ突入し、日本は長い戦争への歩みを始める事になる。 日中戦争のきっかけとなったのが、1937年7月の「盧溝橋(ろこうきょう)事件」です。 満州国事変が勃発して以来、協定によって戦闘行為は停止されていましたが、日本による満州占領を認めない中華民国と、日本の間は緊張状態にあったのです。 日中戦争の原因って満州事変と盧溝橋事件どちらですか?むしろこれらは、満州事変→盧溝橋事件→日中戦争と繋がってるんですかね?満州事変で勢力を付け始めた関東軍。南方の部隊を増強して壁を作りました。これ以上関東軍が南下出来ねーよ 1937年に盧溝橋(ろこうきょう)事件が何者かにより発生し日中戦争が起こる。宣戦布告 (戦争を始める旨の事前通告) をしないまま、日本軍は中国に侵攻し、特に首都の南京(なんきん)を占領した際に市民や捕虜(ほりょ)を殺傷し、多数の死者を出した。これを南京事件という。なおこの事件については、現在残されている資料では規模を完全に把握出来ないというのが実情である。中国はゲリラ戦などを駆使し激しく抵抗する。 満州事変以降、日本との関係が悪化し始めていたアメリカやイギリスなどが反発し、 … 猪木正道『軍国日本の興亡 : 日清戦争から日中戦争へ 〈中公新書 1232〉』中央公論社、1995年3月25日発行、isbn 4-12-101232-1。 秦郁彦『盧溝橋事件の研究』東京大学出版会、1996年12月16日 初版、isbn 4 … 日中戦争の経緯 1937年7月 盧溝橋事件を発端として日中戦争が始まる。 1937年12月 日本は首都、南京を攻撃目標としてこの地を占領 1937年11月 中国は首都を南京から重慶へと移す。 盧溝橋事件; 日中戦争と「支那事変」 なぜ宣戦布告をしなかったのか? 宣戦布告しないことを歓迎した意外な人たち; 上海での戦い~日中全面戦争へ; 共有: いいね: 当初、日中戦争に派遣された兵士は20代後半から30代にかけての「 おじさん 」が中心でした。陸軍中央は、考えました。「 ちょっと叩けば、すぐ降参するような弱小・中国に対して、十分に訓練を積んだ現役兵を使うのはもったいない。 日中戦争. 日本陸軍は、中国での担当地区を、万里の長城より北側および満州は関東軍が、長城の南側を「天津(てんしん)軍」(支那駐屯軍)が担当すると決めていました。 天津軍は2000名規模で駐留していましたが、1936(昭和11)年5月、5000名へ増強されることになりました。その理由は以下のとおりで … 盧溝橋という橋のそばで起きた、日中戦争の武力衝突のきっかけになった事件です。 ちなみに盧溝橋とは、北京西南部郊外の永定河に架かる橋で、元代にマルコ=ポーロがこの橋を渡ったことが『東方見聞録』にも書かれている名所です。 2005年7月7日(木)「しんぶん赤旗」 日中全面戦争のきっかけ 盧溝橋(ろこうきょう)事件から68年 歴史の真実はどこに── 盧溝橋事件は、日中戦争の原因となった事件なんだ。 1937年7月7日の夜中から8日の早朝にかけて、 夜間演習中の日本軍に対して何者かが発砲したことをきっかけに、 北京郊外盧溝橋付近で日本軍と中国軍が衝突した事件を盧溝橋事件と言うんだ。 1937年、盧溝橋事件を機に勃発した日本と中国の全面的な戦争。1941年12月には太平洋戦争に拡大し、第二次世界大戦の一部となった。1945年8月15日に日本軍の全面的な敗北で終わった。 盧溝橋事件を発端とした日中戦争は、日本と中国の間で熾烈な戦いになりました。そのなかで、一般的には南京大虐殺といわれることもある「南京事件」が起こります。この記事では、事件が起きた原因からその後まで分かりやすく解説するとともに、おすすめの関連本をご紹介していきます。 日中戦争の発端となった事件。1937年7月7日北京郊外の盧溝橋で演習中の日本軍が,兵1名の行方不明から中国軍を攻撃。 9日停戦協定成立,中国軍責任者の処罰を決定。しかし日本政府,軍部は〈中国側の計画的な武力抗日〉として11日以降派兵し,日中戦争に拡大。 2.26事件は1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて、 陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1.483名の下士官兵を率いて 起こしたクーデター未遂事件のことです。 悲劇に舞台となった太平洋戦争ですが、この太平洋戦争の導火線となったのが、この、2.26事件だといわれています。 1937年7月の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まりました。日本軍は、怒涛の進軍をしましたが、蒋介石は退却を繰り返しても、降参はしなかった。なぜ、開戦後、例えば1年くらいで、早期の停戦・和平協定が結べなかったのでしょうか?1 日中戦争とは1937年から1945年までの間、続いた日本と中国による戦争です。 1937年の盧溝橋事件をきっかけに戦争は起こってしまいます。 この戦争は徐々に泥沼化の状態となっていき、これをきっかけとして太平洋戦争を引き起こすなど日本と中国に多大な影響を及ぼしました。 盧溝橋事件70周年によせて ―日中戦争から世界戦争へ― 永井 和. 日中戦争の発生. 81.仕掛けられた「日中戦争」 ── 盧溝橋事件の真実(2000.11.7) 昭 和12(1937)年7月7日夜半、北京の南を流れる盧溝河に架かる橋 ── 盧溝橋 (右写真) を舞台に「日中戦争」 (支那事変・日華事変) が勃発しました。 日中戦争のきっかけとなったのが、1937年7月の「盧溝橋(ろこうきょう)事件」です。 満州国事変が勃発して以来、協定によって戦闘行為は停止されていましたが、日本による満州占領を認めない中華民国と、日本の間は緊張状態にあったのです。 大山大尉殺害事件によって日中間に漂う不穏な空気はさらに高まり、中国軍は続々と上海に集結し始めました。12日には、その数12万に達しています。 その頃、日本政府は揚子江沿岸に住む日本人に引き上げを訓令していたため、上海には3万人の日本人が集まっていました。 今回取り上げる事件の舞台となる「盧溝橋(ろこうきょう)」は、中華人民共和国北京市・豊台区(ほうたいく)を流れる盧溝河(ろこうが。 現在は永定河(えいていが)とよばれる)に建っているアーチ型の橋。 1192年に完成した北京最古の石造アーチ橋で、全長266.5m、11幅の楕円形アーチが11個ある造り。 両脇の欄干にはすべて形が異なる「石獅子」が501匹鎮座しており、中国では「数を数えられない」ことを表現する際 … 日中戦争の経緯 1937年7月 盧溝橋事件を発端として日中戦争が始まる。 1937年12月 日本は首都、南京を攻撃目標としてこの地を占領 1937年11月 中国は首都を南京から重慶へと移す。 1930年代、日本で軍部が政治に介入するまで力を付けていた。中国東北部での権益を得るため、清朝最後の皇帝を擁立し、満州国を建国する。日本の行動は、国際批判を呼び、国際連盟を脱退。1937年に日中全面戦争へ突入し、日本は長い戦争への歩みを始める事になる。 日中戦争は3つに分けることができる。(①満州事変期②全面対決期③太平洋戦争期)戦後・震災・金融恐慌のトリプルパンチを喰らい、世界恐慌でトドメを刺され、もはや中国を侵略するしかなくなってしまった。そこに中国のテロや抵抗が起こり陸軍が暴走する。 【ホンシェルジュ】 日本が第二次世界大戦に本格的に参加したのは、欧米列強が占領していた中国に手を出してからでした。現代の日中間の政治問題にも繋がるこの歴史問題は国同士の見解が異なり、結論が出ていません。今回はその日中戦争について見ていきましょう。 【ホンシェルジュ】 日本が第二次世界大戦に本格的に参加したのは、欧米列強が占領していた中国に手を出してからでした。現代の日中間の政治問題にも繋がるこの歴史問題は国同士の見解が異なり、結論が出ていません。今回はその日中戦争について見ていきましょう。 日中韓150年史の真実(10) 「福沢諭吉はなぜ「脱亜論」に一転したか」⑩『日清戦争の引き金の1つとなった防穀令事件 <1889年(明治22)>とは』ー防穀令を布いて穀物の輸出をストップし、朝鮮地方官がワイロを貪ったのが原因』②. 日中戦争の引き金になった盧溝橋事件。 そもそものきっかけは何だったのでしょう。 一発の発砲音からはじまったこの事件。 最初に発砲したのは・・・? もしかして日本の自作自演だったの・・・? など … 15年戦争というのはまったく史実に合っていない。8年戦争が正しいだろう。 だが、日中関係がにわかに緊張しだしたのは、満州事変が起こってからであり、日中戦争の原因をここから探るのは一理ある。 本論文は,日中戦争(1937~1945年)について,その原因を,当時の中国をめぐる国際関係に注目し,そこに内在する現 実的な利害関係の構造分析をとおして解明せんとしたものである。 一般に戦争に関する歴史的研究にはいくつかの困難がともなう。 日本陸軍は、中国での担当地区を、万里の長城より北側および満州は関東軍が、長城の南側を「天津(てんしん)軍」(支那駐屯軍)が担当すると決めていました。 天津軍は2000名規模で駐留していましたが、1936(昭和11)年5月、5000名へ増強されることになりました。その理由は以下のとおりで … 注:本稿は、2007年12月15、16日に北京大学でおこなわれた国際シンポジウム「第2回 北京と京都──中日をつなぐ知の架橋」での報告 である。 日中戦争 戦争:日中戦争(1941年12月12日より大東亜戦争の一部となる) : 年月日:1937年7月7日から1945年9月9日 : 場所:中華民国(内蒙古・華北・華中・華南)、イギリス領ビルマ: 結果:中華民国 と連合国の勝利: 交戦勢力 大日本帝国 タイ 蒙古聯合自治政府(1939-) 日中戦争の勃発 1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で日本軍と中国軍が衝突し、日中戦争の始まりとなった事件。 日本軍への発砲をきっかけに交戦状態となったが、誰が発砲したかについては現在も定説はない。 盧溝橋事件を発端とした日中戦争は、日本と中国の間で熾烈な戦いになりました。そのなかで、一般的には南京大虐殺といわれることもある「南京事件」が起こります。この記事では、事件が起きた原因からその後まで分かりやすく解説するとともに、おすすめの関連本をご紹介していきます。, 盧溝橋事件を発端とした日中戦争中、旧日本軍が南京を占領した際に十数万人以上の南京住民を虐殺、暴行、強姦したとされる事件で「南京大虐殺」とも呼ばれています。なかには野田少尉、向井少尉ら下士官による「百人斬り競争」という凄惨な出来事もあったようです。, ですが、虐殺の規模や有無については多数の意見があり、その真実がどのようなものだったのか、いまだはっきりとはしていません。写真は合成と疑われるものしか残っておらず、旧日本軍がおこなったとされる決定的証拠が出ていないのが現状なのです。, 実は蔣介石が虐殺をしたとされる説や、中国側が事実を捻じ曲げて誇大化している説など、さまざまな主張があります。, すべては、旧日本軍が南京を占領したことから始まります。当時の中国の首都であった南京を攻撃することになり、この戦いで旧日本軍に多くの死傷者がでました。戦友を失って殺気立っていたのでしょうか、南京に対する兵士の目の色が変わっていきました。, しかし、南京攻防戦の最中、中国軍守備隊の司令官・唐生智が敵前逃亡し、中国軍の指揮系統が混乱しはじめます。旧日本軍陸軍大将・松井石根の発案で降伏勧告をしますが、守備隊は応答しませんでした。そんな南京守備隊を見た旧日本軍は「守備隊は降伏しない」と判断し、攻城戦から城内に入って殲滅戦に切り替えて、南京へ入ります。, この時松井大将が懸念していたのは、便衣兵と呼ばれる民間人に偽装したゲリラ兵の存在でした。日本軍は彼らにたびたび悩まされていたのです。この便衣兵に対する日本軍の対処が虐殺ではないかともいわれています。中国側は丸腰の民間人であったと主張しているのに対し、南京大虐殺否定派は便衣兵の処刑であるとし、軍事行動としては当然の行為だったとみなしています。, 南京戦の直前に、南京住民の20万人ほどが安全地帯へと脱出していました。当時南京に住んでいた住民の9割に近い数字です。つまりこの段階で30万人〜40万人が虐殺されていた、という中国側の主張には疑問がもたれることがわかります。, 日本軍は、虐殺どころか捕虜へタバコや食料を渡したり、暴行や難民収容所への関係者以外の立ち入りを厳しく禁じたりと、捕虜に対する配慮が行き届いている部隊もあったとする説もあります。これから虐殺する人に対してこういった行為は見られるでしょうか?, 便衣兵の逮捕、処刑がいわゆる南京事件の引き金になったといわれていますが、彼らが武装解除できているかどうか分からなかったから止むを得ず処刑した可能性もあるでしょう。また、証拠写真の検証から、虐殺者が日本軍ではなく蔣介石が率いた国民党軍によるものだったという可能性も浮かびあがってきています。, 死者の人数については、南京事件における虐殺の有無や規模などの論争のなかでも、大きなウェイトを占める論点です。, その幅は0人から30万人以上と諸説あり、「虐殺」の定義や統計のとり方などで相違が出ています。, 中国側は、1946年に蒋介石が率いている中国国民党政府によって開かれた「南京軍事法廷」での判決にもとづき、30万人以上だと主張。中国共産党政府や国軍歴史文物館なども同様の見解を持っています。, 南京事件は、太平洋戦争が終結し、東條英機ら太平洋戦争の主導者が裁かれた極東国際軍事裁判で発覚し、追及されたといわれます。南京を占領したときの旧日本軍司令官、松井石根はこのことを東京裁判で追及され、B級戦犯として処刑されます。それによって事件の処理は完了したかのように見えました。, しかし、南京事件に関するある新聞社のスクープによって蒸し返され、中国がこのネタに飛びつきます。まず中国では、南京において虐殺があったことを示す博物館が建設されます。さらに「ザ・レイプ・オブ・南京」というタイトルで、旧日本軍がおこなったとされる悪行を世に知らしめるための書籍が発表されています。, なかには偏りすぎていると感じられる論説もあるため、南京事件について深く知るためには、さまざまな情報を得て、多面的に考えていく必要があるでしょう。, この書籍では、事件があったかどうかを検証するのではなく、事件に対してどのような認識が持たれるようになったのかについて論じられています。, そして、著者も肯定派と否定派の真んなかに立ってさまざまな史料を見ながら、史料批判をおこなっていくのです。史料批判とは、史料が正しいか正しくないか、という研究法で、歴史学では一般的な方法とされています。, 本書の特徴は、「南京事件があったかなかった」ではなく、事件の肯定派と否定派の意見がどのようなものなのか考えてみよう、という視点で書かれていることです。, 南京事件が中国側の捏造であることを前提に、それらがなぜ捏造だったのかを丁寧に論じている一冊です。, 著者は、ここまで泥沼化しているのは、ある日本の新聞社がわざとミスリードをしたためだと論じています。, 15もの論拠をあげて中国側の捏造を証明しようとしています。非常に細かく書かれており、それらの論拠を知ると、読者も「確かにあれは嘘かも」と思うでしょう。, 当時南京にいた新聞記者、南京攻防戦に参加した高級軍人、外交官など48人の証言を収録した「生の声」が聞ける一冊です。, 著者は南京事件のそもそもの実態は日本軍の中国兵の処断であると断っていますが、そのうえで、戦場だったためそのような悲惨な場面はいくらでもあったとしています。, 作中に登場する軍人やジャーナリストは、南京では虐殺行為があったことは聞いたことがないようでした。, また、南京事件で問題になっている「百人斬り競争」や、南京攻防戦の将兵の行動を関係者からのインタビュー形式で表しています。, なかには、満州事変にすら否定的で中国寄りだった高級将校が、あの事件で中国が降伏勧告を無視したことだけはダメだ、という証言もみられます。, 作者は「南京事件がそもそも中国側の捏造によるもの」として切り捨てています。事件の証拠写真とされているものを検証し、中国側の主張の矛盾点を追及した一冊です。, 中国側や、当時南京に滞在していたとされるマギー牧師より提供された「マギーフィルム」のなかから、捏造説を検証しています。, 証拠写真とされているもののなかには、日中戦争の戦闘に介入しているはずのない白人が映っていたり、「日本軍が虐殺を実行している」と説明がありながら日本軍であることを示す腕章がなかったりする点を指摘しており、徹底的な検証がなされていることが本書の魅力でしょう。, そして最後に「証拠写真として通用する写真は一枚もなかった」と痛烈なひと言で終わります。, 戦後におこなわれた南京事件の検証の真相に迫る一冊です。ここでは、一見関係ないように見えるアメリカも登場します。, アメリカは中国側の主張に対して何ひとつ反論していません。アメリカが黙っているのは、東京大空襲こそが虐殺と変わりない行為だと暴露されるのを恐れているからだと著者は考えています。, 当時の写真や新聞記事も掲載しながら検証を進めているので、非常に読みやすい内容です。, また、当時の南京市民は旧日本軍を歓迎していた節があったようです。旧日本軍の医療班が南京市民を救済していたり、旧日本軍に感謝状が送られたりしていたとする証言や写真をまじえて、南京大虐殺否定の根拠を具体的に教えてくれています。, 本書では、旧日本軍が罠にはまったことを前提に、事件の黒幕が誰だったのかを考察しています。, 敵勢力である蔣介石が、日本の同盟関係にあったはずのドイツに対して支援を求めていました。蔣介石が中国の勢力掌握のためには手段を選ばなかったことから、彼が黒幕であるという疑惑を中心に取りあげています。, また戦後のプロパガンダにおいては、かつて中国において活動していた宣教師が普及にひと役買っていたとし、それに関して資料をまじえながら検証しています。, 南京事件の黒幕が国民党軍のトップの蔣介石であったと考え、事件の1番の証拠となるマギーフィルムを偽物と切り捨てるなど、中国側の主張にきわめて批判的な文章が目立ちます。, 南京事件は日中関係において大きな影を落としていますが、日本政府はこれに対し、太平洋戦争では中国に申し訳ないことをしたとしています。それが日中戦争を指すのか、南京で起こった事件のことを指すのかはわかりません。しかし、事件が陰謀だという説がある限りは、これを鵜呑みにせず、自分で根拠となる資料を見つけて意見をもち、違う者に対しては「違う」と声をあげるべきでしょう。, ホンシェルジュはamazon.co.jpを宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイト宣伝プログラムである、Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。, 成田凌の人気の理由を出演作品から紐解く!実写化した映画、テレビドラマの原作の魅力も紹介. 通州事件が日中戦争の原因の一つ?あれを起こしたのは中華民国じゃないのになんでなん? 通州事件は、中国人民が、征服者であった日本に対して蜂起した事件です。 1937年7月の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まりました。日本軍は、怒涛の進軍をしましたが、蒋介石は退却を繰り返しても、降参はしなかった。なぜ、開戦後、例えば1年くらいで、早期の停戦・和平協定が結べなかったのでしょうか?1 日中戦争の勃発 1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で日本軍と中国軍が衝突し、日中戦争の始まりとなった事件。 日本軍への発砲をきっかけに交戦状態となったが、誰が発砲したかについては現在も定説はない。 日中戦争の原因って満州事変と盧溝橋事件どちらですか?むしろこれらは、満州事変→盧溝橋事件→日中戦争と繋がってるんですかね?満州事変で勢力を付け始めた関東軍。南方の部隊を増強して壁を作りました。これ以上関東軍が南下出来ねーよ 81.仕掛けられた「日中戦争」 ── 盧溝橋事件の真実(2000.11.7) 昭 和12(1937)年7月7日夜半、北京の南を流れる盧溝河に架かる橋 ── 盧溝橋 (右写真) を舞台に「日中戦争」 (支那事変・日華事変) が勃発しました。 当初、日中戦争に派遣された兵士は20代後半から30代にかけての「 おじさん 」が中心でした。陸軍中央は、考えました。「 ちょっと叩けば、すぐ降参するような弱小・中国に対して、十分に訓練を積んだ現役兵を使うのはもったいない。 大山大尉殺害事件によって日中間に漂う不穏な空気はさらに高まり、中国軍は続々と上海に集結し始めました。12日には、その数12万に達しています。 その頃、日本政府は揚子江沿岸に住む日本人に引き上げを訓令していたため、上海には3万人の日本人が集まっていました。 2005年7月7日(木)「しんぶん赤旗」 日中全面戦争のきっかけ 盧溝橋(ろこうきょう)事件から68年 歴史の真実はどこに── 現代の日本と中国の政治関係にいまだに影響を及ぼし続けている戦争、日中戦争についてその原因や勝敗、死者数をわかりやすく解説します。, この戦争はいまだに立場によって見解が異なり、名称、開始時期や犠牲者数にはいろいろな説があります。, 関東軍は、1931年に柳条湖にある南満州鉄道の線路を爆破し、中国軍の仕業と見せかけて軍事行動を開始します。, 当時の中国は国民党や共産党、軍閥などが入り乱れての混乱状態でしたが、ナショナリズムの高揚から満州の権益を回収しようという国民党の動きがあり、早急に行動を起こす必要があると関東軍は考えていました。, その後、満州鉄道沿線を中心に進軍、満州全土を占領すると、清朝最期の皇帝・溥儀を担ぎ出して満州国を建設しました。, 世界恐慌の影響で日本でも恐慌が起こり、大手企業が相次いで倒産し、都市部には失業者があふれました。, さらに追い打ちをかけるように東北地方では凶作も起こり、欠食児童や女子の身売りが続出しました。, こうした背景があり、地下に鉱物資源が豊富にあり、農民の移住先として最適だと目されていた満州の権益を守りたかったのです。, 中国が「日本の満州国建国は侵略だ」と国際連盟に抗議すると、事実確認のためにリットン調査団が派遣されました。, 結果として国際連盟から日本に対して、中国からの撤兵が求められますが、日本はこれに反発。国際連盟から離脱し、国際的に孤立状態となります。, 関東軍の起こした満州事変は関東軍独断で行われたのですが、処罰されず、むしろ後押ししていくかたちでなし崩し的に戦争へ突入していきました。, 日本では1930年から1932年にかけてテロとクーデターが頻繁に起こり、次第に軍部の影響力が強まっていきます。, 特に1932年に起きた一一五事件では、首相・犬養毅が海軍将校に暗殺され、元海軍の斎藤実が首相になります。, 1936年2月26日、日本陸軍の一部の青年将校がクーデターを起こし、複数の政府要人を殺害しました。, 彼らは政党内閣に不満を持ち、政党や財閥を排除し天皇親政の国家を再建して、軍が政治の実権を握ることを目指していました。, 天皇の指示で反乱軍は4日で制圧されましたが、この事件以後は軍部大臣現役武官制になります。, 内閣のメンバーに必ず現役の軍人を入れなければならなくなり、軍部の意見を無視できなくなりました。, 北京郊外盧溝橋付近で1937年7月7日の夜中から8日の早朝にかけて、日本軍(支那駐屯軍)が夜間演習をしていたとき、何者かが実弾を発砲。, すると日本軍は中国軍から攻撃を仕掛けられたと思い込み、日本軍と中国軍が武力衝突します。, 銃撃戦は2時間で終わり、11日には協定を取り交わして停戦となり、盧溝橋事件は比較的速やかに終息しました。, しかし、中国全土が混乱状態であったために情報が伝わらず、各地で次々と軍事衝突が起こり、戦争状態になります。, 1937年12月、関東軍は当時の中国の首都・南京を占領すると、非戦闘員である女子供を大量に虐殺するという南京事件を起こしました。, 日本は、南京占領で中国が戦意を喪失して早期解決ができると考えていましたが、中国から徹底抗戦にあい、泥沼化しました。, 中国側は国民政府と共産党が連携し一体となって抵抗し、アメリカ、イギリス、ソ連が中国への援助を行ったのです。, 実は日本は国民政府と和平交渉を進めていたのですが、和平が難しくなると、「国民政府を相手にせず」とみずらから和平の道を断ち切ってしまいました。, 日本は戦争の早期終結のために、アメリカとイギリスの中国への補給路を断とうと考え、フランス領インドシナに侵攻します。, 制裁としてアメリカは、アメリカ国内の日本資産を凍結し、航空機用のガソリン・屑鉄の補給輸出を禁止しました。, 石油をアメリカからの輸入に頼っていた日本は、この状況を打開するには「宣戦布告しかない」と考え、真珠湾攻撃を仕掛けて、アメリカに宣戦布告します。, 日本軍の死者数は70万人とも言われています。ソ連から宣戦布告されて、降伏した後の関東軍は60万人がソ連に抑留されますが、うち6万人が死亡しました。, 「全日本の無条件降伏」を含むアメリカ・イギリス・中国のポツダム宣言がだされると、日本は黙殺します。, アメリカが原子爆弾を広島と長崎に投下し、ソ連からも宣戦布告されると、1945年8月15日、ようやく日本はポツダム宣言を受託し、日本の敗戦となりました。. 日中戦争の直接原因は、1931年に関東軍が起こした満州事変だと言われています。 関東軍は、1931年に柳条湖にある南満州鉄道の線路を爆破し、中国軍の仕業と見せかけて軍事行動を開始します。 関東軍の目的は、日露戦争でロシアから獲得した、満州の権益を守ることでした。 当時の中国は国民党や共産党、軍閥などが入り乱れての混乱状態でしたが、ナショナリズムの高揚から満州の権益を回収しようという国民党の動きがあり、早急に行動を起こす必要があると関東軍は考えていました。 その後、満州 … 日中戦争における戦闘は、たいていの場合、日本軍が攻めると中国軍が撤退し敗走する、という形で進みました。 ですから、激戦地を除けば、中国側が宣伝するほど日本軍に殺された中国兵の死者は多くはありませんでした。 home→著作一覧→このページ. (盧溝橋周辺の航空写真 出典:Wikipedia) 盧溝橋事件とは、1937年(昭和12年)中国の北京市近くにある盧溝橋という橋で起こった衝突事件のことです。 この事件をきっかけに日本と中国は本格的な戦争状態に突入しました。 ちなみに中国ではこの事件をこの事件が起きた日である7月7日から七七事件とも言われています。
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