[138]。, 総督府は朝鮮半島の行政・司法・立法をすべて総攬し、朝鮮半島駐留の日本軍の統率・防備権限を付与されていた(朝鮮総督府官制3条)。総督府は鉄道や通信事業を経営し朝鮮銀行の監督権を有した(1924年まで)。また林野事業(営林廠)や専売事業(タバコ・塩・朝鮮人参)などを経営していた。朝鮮十三道には道長官(1919年から知事)が任命されそれぞれの支所で行政任務に従事した。総督府令により1年以下の懲役もしくは禁錮、拘留、200円以下の罰金または科料の罰を課すことが認められていた(4条)が、それ以上の罪過あるいは総督府令によらない法令については日本内地の制定法による必要があった。政務のすべては内閣総理大臣を経て天皇に直接上奏すれば良い(3条)とされたが、実際の実務は拓務省や内務省など内地行政機関の依命通牒[注釈 20]に従うことが多かった。 て合法的に日本帝国の版図に編入された竹島/独島は,10年以降の植民地支配下に おいて,まず鬱陵島在住の日本人の,続いて朝鮮人の漁場ともなっていった.その 傾向は,日本人の減少に伴ってますます進行し,植民地末期には事実上朝鮮人の 第二次世界大戦。日本が中国並の領土を持つ大国だった場合でもアメリカには負けてましたか?不利な停戦条約で終わったでしょう。占領ができないからです。 U・S Army Forces, Summation of U・S Army Military Government Activities in Korea Vol.2. 呼称「大東亜戦争」は閣議決定されたもので、当時の日本政府、現日本政府共通の公式名称である。 大本営政府連絡会議は1941(昭和16)年12月10日に「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ 」を協議し、12日に以下を閣議決定した。. 大日本帝国総図: 備 考: 台湾が日本領として描かれた日本地図。 明治38年(1905年)にポーツマス条約にて、南樺太と遼東半島南部を獲得したことにより、地図に反映している。 水間政憲 『朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実 - 韓国が主張する「七奪」は日本の「七恩」だった』 徳間書店、2010年。p188. [144] [46]が、議会選挙などの政治参加は戦争体制のため事実上凍結された[114]。, 朝鮮人も帝国臣民の地位が付与されたため、内地に居住していれば国政選挙への参政権・被参政権とも認められており(→1925年普通選挙法)衆議院選挙に参加することは可能であった。唯一朝鮮人として朴春琴が衆議院議員に選出されている。それまでは内地の選挙区からしか出馬できなかったが、1945年(昭和20年)4月1日に改正された衆議院議員選挙法によって台湾と朝鮮にも帝国議会の議席が与えられ、選挙によって外地からも衆議院に議員を送ることが出来るようになった。ただし有権者は1年以上直接国税15円以上の納税という制限が課されており普通選挙ではなかった。また議席数は、衆議院の定数466に対し台湾5名、朝鮮22名とされた。また1943年(昭和18年)に内地に編入された樺太でも同時に3名の議席が認められた。しかし敗戦のため実施されずに終わった。また貴族院でも台湾と朝鮮から勅選議員を選出することが決められ、両地域から合わせて10名の議員が選出された。そのほか日本内地の地方議会の議員を務めたり、中央官庁や地方公共団体に勤務する者もいた[115]。その外にも多数のロビイストが「朝鮮通」として朝鮮統治に関するあらゆる法案や議案について提言をおこなっていた[116]。, 朝鮮半島での鉄道は、李氏朝鮮から日本が「日韓暫定合同条款」に基き鉄道敷設権を1894年8月20日に得て、鷺梁津(漢江西岸)〜済物浦間の鉄道を1899年に開通させたことに始まる。これは後に京仁線となった。, 1905年には京釜線が全通、翌1906年には日露戦争の軍事輸送を目的として京義線を日本が全通させた。, 京釜線・京義線は日露戦争後に日本が得た南満州鉄道(満鉄)への接続を図り、大陸進出の足がかりとしての役目を担うようになっていき、1910年の韓国併合で日本が朝鮮の統治権を得ると、京元線や中央線・湖南線などを敷設した。, 路線数が少なかった1925年(大正14年)までは、朝鮮での鉄道経営を一体化する目的で南満州鉄道に委託したこともあったが、その後は朝鮮総督府の直轄の朝鮮総督府鉄道となって、地域経済の発展や住民の足を確保するために多くの路線が建設されていった。, 朝鮮総督府鉄道は朝鮮への観光客の誘致にも力を入れ、朝鮮ホテルなどの近代的な西洋風ホテルの建築も行った。また、朝鮮王朝末期には大部分で道路の舗装などが行われていなかった京城は区画整理が行われ、路面電車が敷設された。, 日本の統治下に入った後にフォード・モーターやジェネラル・モーターズの販売代理店が営業を開始し、初めて導入された乗合自動車やタクシーが走っていた。, 自転車が普及していた。アモーレパシフィックの徐成煥は学生時代に母親の手伝いで原料の仕入れや商品輸送に使っていた[117]。, 日本内地と朝鮮の間には、関釜連絡船(釜山・下関間)を始めとする多くの航路が運航されていた。, 日本のフラッグ・キャリアの日本航空輸送(とそれを引き継いだ大日本航空)が日本内地から釜山、蔚山、京城などの間を結んだほか、満州国の満州航空が乗り入れていた。朝鮮独自の航空会社は存在しなかった。, 李氏朝鮮時代から貧しかった南朝鮮から、職を求める多くの朝鮮人が日本に移入した[6][7]。日本への渡航には渡航証明書が必要だったが[118]、多くの朝鮮人が日本内地へ密航した[119]。多くの密航業者が密航を斡旋し、巨万の富を築いた[118][120]。2,000人を密航させた密航業者は一万数千円を荒稼ぎして妾を10人抱えるほどであった[120]。密航は1930年代に入ると激増し、毎日のように摘発されるようになった[119]。このため、1934年には岡田内閣は朝鮮人の密航の取り締まりを強化するために「朝鮮人移住対策ノ件」を閣議決定したがその後も密航は増加していった[6][7][119][121]。余りの密航の多さに日本政府は渡航制限を緩和したが[122][123]、渡航条件を満たさないものたちによる密航は止まらなかった[123]。第二次世界大戦中にも密航が行われており、密航朝鮮人が検挙されている[124]。, 朝日新聞の取材によって遠賀工業所で雇われていた朝鮮人鉱夫が高待遇で雇用されていたことが明らかにされている[125][126]。一方で旅費負担や高賃金などを謳った甘言募集に乗せられ、低賃金の中で宿代や食費など様々な名目で天引きされ、実際に自由に使える金額はほとんど無かったとする主張もある。[127][128]。, 1944年9月から1945年3月にかけては国民徴用令により徴用された朝鮮人が渡航した[129]。, 1951年に講和条約が締結され連合軍による占領が終了すると日本に在留していた朝鮮人は朝鮮籍となり、1948年に建国された韓国の国籍を取得する者もいた。朝鮮から渡航した人々の多くが九州、中国、近畿地方に在留していたため、戦後に韓国から密航した朝鮮人もこれらの地方に住む場合が多かった。これらの朝鮮人は在日韓国・朝鮮人となった。, 在日1世2世の中には朝鮮総督府による土地調査事業や日本軍などによる食料の収奪(徴用・供出)などにより生活に困窮し、日本に来たのだと主張する者もいる[130]。, 義兵闘争[注釈 18]などに見られるように、併合以前から日本の朝鮮支配計画に反抗する朝鮮人の運動は存在していたが、第一次世界大戦終結後にはアメリカ系キリスト教会の宣教師によりアメリカ大統領ウィルソンの提唱する民族自決理念が伝わり、更に高宗の死によって独立を求める朝鮮人による運動は高まった。, 1919年には三・一独立運動が起こって大規模な暴動にまで発展し、朝鮮中を巻き込んだ。この独立運動は約一年間続き、暴動と総督府側による取締りによって多くの死傷者がでた。暴徒と化した民衆によって警察署や村役場のみならず、小学校や病院なども襲撃され、放火や投石、破壊、暴行、殺人などの犯罪行為が多数行われている[132]。こうした中で20余名の朝鮮人が軍隊によって殺害された「堤岩里事件」が発生した。事件直後に行われた調査結果を記した資料によれば、8,437人が逮捕された。しかし逮捕者への刑罰は主犯でも最高で懲役3年以下という軽いものであった。死者数は553人(運動家に殺されたものも含む)、負傷数は1,409人である。当時上海に亡命中の朴殷植は『韓国独立運動之血史』に46,948人が逮捕され、7,509人が死亡し、15,961人が負傷したと記している[注釈 19]。女学生・柳寛順(ユ・ガンスン)は三・一独立運動を扇動した罪で投獄・拷問され16才で殺された[135]とされ、しばしば日本の蛮行についての象徴的物語として扱われることがある。なお「柳寛順の物語には誇張が多く史実の裏づけに乏しい」との批判が、現在の韓国国内からもある[136], 三・一独立運動は、独立運動組織の大韓民国臨時政府樹立のきっかけとなり、また満州や沿海州を拠点とし、中朝国境では抗日ゲリラ組織の活性化にもつながり1920年の尼港事件のように、規模に劣る日本軍の部隊を全滅させることもあった。一方総督府も、過酷な統治だけでは植民地体制を持続させることはできないとして、「文治政治」と呼ばれる一連の懐柔策を打ち出した。内地でもなかったこととして朝鮮における憲兵警察制度は廃止され、限定的ながら言論や結社の自由が与えられた。, 三・一独立運動後に活発となった満州や沿海州における朝鮮独立を掲げた抗日ゲリラは国境地帯で、良民や官公吏への襲撃・殺害といったゲリラ行為を繰り返すようになり、ついには1920年10月に満州の琿春で、馬賊の襲撃により、領事館警察署長を含む日本人13人が殺害される事件(間島事件)が発生した。これにより総督府は中華民国側と折衝して吉林省都督から作戦の許可を取り付け、ゲリラ掃討を開始した(青山里戦闘)。彼らが潜んでいるとされた村に対する焼き討ちや村民処刑なども含む態度で臨み、キリスト教の宣教師などからの抗議を受けたこともあるが、徹底的な討伐戦の結果、抗日ゲリラのほとんどはソ連領内へと逃げ込み中朝国境からは一時姿を消した[137]。朝鮮人武装勢力は1921年6月28日にはスヴォボードヌイにいたが、ロシアの赤軍と衝突しほとんどが壊滅した(自由市惨変)。その後、1937年に普天堡が襲撃される事件も起きている。, 大韓民国政府は建国から現在に至るまで「第二次世界大戦において大韓民国臨時政府、1941年12月9日に連合国側に立ちドイツと日本に対して宣戦布告を行い、軍事部門である朝鮮解放軍は東南アジアの一部や中国等で中国国民党や中国共産党の軍隊に加わり、日本軍との戦闘に参加した」と主張している[要出典]。, しかしこの主張には根拠がなく、実際に具体的にどのようにして宣戦布告を行ったかも不明であり、宣戦布告も戦争相手国の日本とドイツには伝わっていないばかりか、中華民国やイギリス、アメリカやオランダなどの連合国側も確認しておらず、さらに1945年8月に至る大戦期間中に、大韓民国臨時政府が組織的に日本軍と戦闘した記録は日本と連合国のどちらからも全く見つかっていない。そのため戦後に韓国が連合国により「戦勝国」として国際的には認められることはなかった https://www.petitmonte.com/contents/rekishi/nihon/taisyou_zidai.html 伊勢は大日本帝国海軍の戦艦。伊勢型戦艦の1番艦。後に海上自衛隊の護衛艦「いせ」に引き継がれた。 当初は扶桑型戦艦の3番艦として建造が予定されていたが、扶桑型に砲力や防御力、運用面等で問題点が生じたため再設計が行われ、準同型艦の伊勢型の一番艦として建造された。 1910年、大日本帝国は大韓帝国との間に結ばれた「韓国併合ニ関スル条約」(日韓併合条約)の締結によって大韓帝国を併合し(韓国併合)朝鮮総督府の統治下に置いた 。 日本の有史以来の最大版図(最大の領土・領域)の地図を作ってみました。東南アジアや太平洋で仕事や旅行をする方などは覚えておくと良いと思います。日本の戦後賠償、東・東南アジアにおけるodaについても簡単に解説します。 日本人学者とその朝鮮人の弟子達によって歴史・語学・文学などの韓国学研究の基礎が作られた[62]。, 日中戦争の長期化による物資欠乏への対策や情報統制の必要から日本内地では1938年4月に国家総動員法が制定され、8月からの新聞用紙制限令による用紙制限や新聞の整理統合を通じ、739紙あった新聞を最終的に54紙にまで削減するなど、新聞紙法や出版法を厳しく適用しながら新聞・出版・言論統制を強めた。朝鮮においても、1940年には「朝鮮日報」「東亜日報」が総督府命令により廃刊となり、朝鮮語新聞は総督府が発行する毎日新報と官報だけとなったが、硫黄島の戦いにおける日本軍の玉砕は朝鮮語でも報じられた。, 創氏は、朝鮮の宗族による管理システム(本貫と姓)に新たに家族名である「氏」を加え、日本及び欧米で一般的な家族単位の管理システム下に組み入れるものである。この過程で中国式の夫婦別姓を名乗っていた妻も夫と同じ一つの家族名の下で管理されることになった。改名とは姓名を届け出する際に名を日本風に変更することを可能にする制度である。それまでは日本内地に見られる姓名は許可しないこととして厳しく制限されていた。1940年に取られたこれらの措置を創氏改名と呼ぶ。, 前者は制度上必須であり、全ての朝鮮人に適用された。後者は任意であり、当初南次郎総督自身もそのように言明していた。水野直樹によれば、1940年2月11日の届出開始以降全戸数の中で姓名を届け出た人々の割合が4%程度と著しく低かったことから、朝鮮総督府は方針を転換し、下部機関を中心に朝鮮人に日本的な名字を名乗るよう推奨するキャンペーンを開始し、結果として80%以上の朝鮮人は日本的な氏の届出をしたとしている[63]。一方、残りの2割(日本内地では約85%)は法定創氏により朝鮮式姓がそのまま氏として設定された。朴春琴や洪思翊など、法的創氏により朝鮮式の姓名を氏名として使い続けた事例もあった。また、朝鮮に居住している朝鮮人では改名者の割合は9.6%だった。, 創氏改名の第一目標であった朝鮮人の名字を日本式に改めることに関しては、朝鮮に日本風の家制度を導入することが主眼とされていた[注釈 8]。, 植民地支配時、朝鮮固有の地名を日本式に強制的に変更したとして中央日報が2009年10月の記事で指摘した事例[65]。例として慶北青松郡盈徳郡(キョンブク・チョンソングン・ヨンドククン)の周王山(チュワンサン)の竜湫(ヨンチュ)滝、中竜湫、竜淵(ヨンヨン)滝(あるいは上竜湫)を3つの滝について、第一の滝を仙女湯に変更した。これは名前に竜が入っており、植民地民の気が強くなる懸念が高いという口実で改名した[66]とする。慶尚北道慶山郡竜城面(キョンサンプクト・キョンサングン・ヨンソンミョン:現在の慶尚北道慶山市)にある争光里(ジェングァンリ)を「日光里」(イルグァンリ)に変更したが、「景色が良くて美しい日本の“日光”とまったく同じだ」として名前を変更[67]したとする。大田(テジョン)の鶏足山(ケジョクサン)の地名はもと鳳凰山(ポンファンサン)だったが、鳳凰を鶏(ニワトリ)に「格下げ」し鶏足山にしたとする(上記中央日報報道では、北漢山ももともと「三角山」という名前で、日本統治期に改名されたと主張しているが、「北漢山」の名前自体は李氏朝鮮時代からあり、粛宗が1711年に北漢山城(朝鮮語版)を築城している。それと、上記周王山(朝鮮語版)の「仙女湯」は第二の「臼滝(절구폭포)」の下の甌穴の名称であり、滝の名前を変えた結果ではない[14]。)。, 李朝では崇儒抑仏政策により仏教が抑圧され、民衆は風水、巫覡、祭祀などの民間宗教や、儒教・仏教・道教の流れを汲む新興宗教に傾斜していた[68]。その代表的な教義に「後天開闢」があり、天が直接光臨する時代が到来し、理想郷の地上天国が実現されるとする思想である。東学は後天思想に基づく新しい宗教の代表格であった[69]。江華島事件から19世紀末頃の情勢はこのようなものであり、キリスト教はすでに朝鮮半島に渡来していたが李朝はあへんと同じようなもの[70]と警戒しており[注釈 9]、本格的な宣教が始まるのは1884年に長老派の医師Allenの朝鮮入国以降とされる[71]。朝鮮におけるキリスト信者の成長率は世界のキリスト教宣教史上類まれなものであり、1895年に公称1590人の信徒が1910年には22万6791名に達した[72]。神道は日本人居留民によりわずかに保持されているのみであり、明治初期に朝鮮宣教に乗り出したのは真宗大谷派などの仏教会である[73][注釈 10]。朝鮮神社が設置されたのは併合から遅れること15年後の1925年であり、それ以前には朝鮮半島に社格をもつ神社はなかった。朝鮮総督府が神社・神祠制度を確立するために法令を整備したのは1938年8月であり、神社参拝を公然と求めはじめたのは1937年以降である。総督府による「宗教への介入」は直接的には合理的な利害を目的とした、朝鮮統治の警察権にもとづいた介入と懐柔融和策であった。, 宗教団体は抗日活動における特異な位置を占めた。キリスト教や仏教は朝鮮軍内の同調者により保護され、しばしば治外法権的地位を占め抗日活動家を保護した。キリスト教教会はアメリカなど海外の所有施設であるとみなされ東学党の乱や日清戦争のさいに民衆の保護所となった。日本軍の中にも篤実なキリスト教信者がおり教会員や財産の保護を約束した[75]。仏教寺院は李朝の政策により抑圧されていた影響から人里離れた山奥に点在していたが、真宗大谷派など布教の成果もあって朝鮮の仏教寺院の多くは日本の仏教教団の末寺となっており保護を受けていた。これらの末寺は1907年の大韓帝国国軍の解体以降の義兵運動の根拠地として格好の隠れ家となった[76]。朝鮮総督府は抗日活動を取り締まるためキリスト教や仏教などを統制する必要があり、一方で帝国憲法に規定された信教の自由の制約から介入と懐柔を繰り返さざるを得ない状況にあった。, 1911年に起きた105人事件を口実とした宗教弾圧においてはアメリカ人宣教師により世界に報道され国際世論が日本の司法制度を厳しく批判した[77]。キリスト教教会は朝鮮人知識層を大量に受け入れ、民衆を動員した三・一運動のような大規模な抗日・独立運動を展開した。当時の朝鮮総督斎藤実は、当初は三・一運動を鎮めるべく騒擾中に宣教師たちと会合を持ち、彼らを懐柔しようとしていた[78]が、1920年に入って方針を転換し[注釈 11]、キリスト教会が三・一運動の主要な組織者であったとして、47の教会が破壊された。朝鮮京畿道水原の提岩里教会では、放火などの破壊活動や日本人への凌辱行為を含む大量殺戮をおこなった暴動の首謀者である天道教、キリスト教の信者を教会に集めて殺害し、教会ごと焼き払うという事件が起きた(提岩里教会事件)。当時、朝鮮のキリスト教徒は人口比で1.3%であったが、三・一運動で検挙された者のうちキリスト教徒は17.3%であった[80]。, 神道の朝鮮半島への普及は進まず、1925年にようやく朝鮮神宮が設置された。この時、朝鮮神宮にいかなる祭神を祭るかで論争(朝鮮神宮御祭神論争)が発生し、小笠原省三は「朝鮮神宮と内鮮融和」を取り上げて檀君の合祀を主唱した。しかし総督府としては非公認宗教団体の中には檀君信仰をもつ教団もあり、民族運動勢力と結び付いたものと理解していた檀君信仰を認めることは不可能であり、鎮座祭直前の9月28日に京城本町警察署長から「一部学生」が「不逞計画」を立てているとの風説ありとの報告を上げ、総督府は神社界の主張を抑えて祭神論争に終止符を打った[81]。1937年盧溝橋事件を期に日中戦争は全面化し、朝鮮における皇民化教育の一環として皇国臣民ノ誓詞が発布され、日韓合邦の実を挙げ帝国臣民化を図る目的として国家神道が利用され、神道非宗教説をもとにキリスト教会や仏教会は神社参拝が強要された[注釈 12][注釈 13]。1938年前後から朝鮮各地に官幣神社が増設されてゆき「皇国臣民化」「内鮮一体」の重要な役割を担うようになる[83]。キリスト教は一神教であり、キリスト教徒にとっては他の神のために祈ることは、今まで築いた神との信頼関係を失うことであり受け入れがたいことであった[注釈 14]。, 1910年当時の朝鮮全体の山林面積は1585万ヘクタールで、全面積の71%に達していたが、木材資源を示す林木蓄積量は1ヘクタールあたり17立方メートルであり、2009年の韓国の16.5%水準に過ぎず、特に南部の海抜の低い低地帯では若い木と禿げ山が大部分だった[85][注釈 15]。, 朝鮮半島の造林事業は当初は河川保持などの砂防目的が主眼であり、地形調査の結果、朝鮮半島は花崗岩台地の山岳地帯で、緑が育ちにくいことが判明したことが始まりとされている。, 森林が無ければ、降雨で土砂が流れ込み、農林業に影響を及ぼす。1924年の京城日報によれば、造林事業は1911年には約4千町、1152万本だったが1922年までの累計は個人の造林事業などを含めると約36万町、10億本に至ったと報告されている[87]。造林方法は植林・接木や普通播種などもおこなわれたが、国有林制の導入などによる自然復元によるところが多い。朝鮮半島北部では軍部が木材伐採事業を直接経営しており、ここでは当時の山林経営の常識として自然収奪(伐出)的側面のつよいものであった。一方で保安林の確保や林道整備など評価される点も多いが戦争末期には朝鮮半島の造林事業は放置される傾向が強くなった。, 「朝鮮は日本の脇腹に突きつけられた匕首だ」と云われ日本本土防衛の為の重要な要であり、また日本の中でも最も遅れている地域の一つであると政府は捉え、富国強兵政策に従い多額の国家予算を朝鮮半島に投じた。, これまで朝鮮半島にほとんど存在しなかった鉄道、道路、上水道、下水道、電気インフラ、病院、学校、工場などのインフラ整備を行い、近代教育制度や近代医療制度の整備を進め、朝鮮半島を近代化していった。, 鉄道路線の路線は幹線ばかりでなく生活用の支線も多くが敷設され地方経済を活性化させた。三菱製鉄(兼二浦製鉄所)や日本製鐵(清津製鉄所)による製鉄所の建設、日本窒素肥料(現:チッソ)の進出による水力発電所建設などが行われ、朝鮮総督府からの補助金による1,527件の農業用ダムと410件の水路の建設、5億9千万本以上の植林や砂防ダム建設などの水利事業も行われた。これは、それまでの欧米諸国による収奪的植民地政策には見られないものであった[88]。1920から30年代の朝鮮半島の経済成長率は年間約4%で、同じ期間の欧州(1%台)や日本・アメリカ(3%)に比べて、より高い成長をしており、朝鮮半島1人当りの生産成長率も約2.4%と高い成長率を記録していた結果が出ている[89]。他方、これらの開発工事において、主な労働力は当然ながら朝鮮人の中に求められた。統治の前期においては賦役(無償労働)による工事なども行われており、過酷な負担であるとして3・1独立運動の原因の一つともなった[90]。賦役の廃止後も、労働者の人権という概念の未発達と植民地人であるという要因などが重なり、朝鮮人労働者は多くの場合劣悪な環境に置かれた[注釈 16]。, 李朝末期時点では大部分で道路の舗装などが行われていなかった京城は、区画整理が行われ路面電車(ソウル市電)が走る都市となった。衛生面では、生活面における衛生指導や集団予防接種が行われ、当時朝鮮半島で流行していたコレラ、天然痘、ペストなどの伝染病による乳児死亡率が減少し、平均寿命は24歳から56歳まで伸びた。また農地の開発や農業技術の指導により食糧生産量も激増したことで、人口は併合時(1910年)の調査では13,128,780人[注釈 17]、1944年の調査では25,120,174人となり、平均寿命も併合時(1910年)24歳だったものが、1942年には45歳まで伸びた[92][93]。, 総督府は土地所有者の調査を実施し、所有者のいない土地は接収して東洋拓殖に買い取らせ、日本人移住者や朝鮮人有力者に分配した。総督府が接収した農地は全耕作地の3.26%ほどである[94]。李朝末期の朝鮮は道路、農地、山、河川、港湾などが荒廃しており、民衆は官吏・地主・両班に高利貸(トンノリ)による収奪を受けていた。そのため日本が朝鮮の農地にて、水防工事や水利工事をし、金融組合もつくったことで、農民は安い金利で融資を受けることができるようになり、朝鮮人農民に多大な利益をもたらすようになった。また、水利組合の設立により安心して農耕ができるようになった[95]。大地主である朝鮮人は、生産性が上がり日本へ米を輸出できるようになったことで多額の利益を得ていた。その代表的な人物がサムスングループの創始者である李秉喆である。彼は慶尚南道の大地主の次男として生まれ、米の輸出で得た多額の資金を元手に1938年に大邱にて三星商事を設立し、これがのちのサムスングループに発展していった[96]。, 水田は併合前の84万町歩が1920年は155万町歩になり、1928年には162万町歩となり、1942年には177万町歩となるとともに、面積あたりの収穫量も1910年の1反あたり0.796石から1937年には1.635石へと倍増した。このように農地が新たに開墾され、水利事業によって生産能率が向上したことにより、食糧生産は年々増加し、併合前の1909年には746万石であった収穫高は、1918年には1529万石と2倍以上に、更に1942年には2489万石なった、米の多くが日本(内地)に輸出されたため朝鮮人1人当たりの米の消費量は1919年〜1921年の平均0.68石(米1石は約150kg)に対して、1932年から1936年にかけては0.40石まで減少した[97]。この状況を指して、「飢餓輸出」と呼ぶ研究者もいる[98]が、逆に全相仁らの研究によると日本時代の米の消費量は平均0.58石の水準を保ち、後半期にはむしろ消費量が若干増加している。また朝鮮経済全体で見た場合、米以外の雑穀が大量に輸入されており、高価な米を売った代金で安い雑穀をより多く購入することで増加する人口を養っていたと考えられている。ソウル大学の李栄薫教授は韓国の「日帝による土地収奪論」は神話であるとし「私たちが植民地時代について知っている韓国人の集団的記憶は多くの場合、作られたもので、教育されたものだ」としており「食糧を日本に搬出したのも市場を通じた商行為に基づくもの」と述べている[99][100]。加えて、朝鮮人の身長が伸びていることから、少なくとも1920年代中頃までは「朝鮮人の生活水準が着実に向上していたのは明らか」である[101]。, 一方で増え続ける労働人口を農村では吸収できず、京城などの大都市で労働者として生活の糧を求める人が出たが、都市でも産業が未発達で人口を十分に吸収することができず、職を求めて日本や満州に渡航した者が数多く出た。京城等における農村出身の労働者層の中には都市周辺部に粗末な小屋を建てたスラム街を形成し、「土幕民」と呼ばれるものも存在した[102]。, 植民地近代化という性質上、この時期の朝鮮における経済発展の成果は多くが資本を出した在朝日本人や日本企業に分配され、朝鮮人(とりわけ農村部)への分配度は低く、日本人と現地人たる朝鮮人の間の所得格差も非常に大きなものがあったとされる[103]。一方では、市場を通じた商行為であるという指摘もある[100]。利益を得ていた朝鮮人も存在し、統治時代後期には多くの朝鮮人資本家が存在した。, 朝鮮では株式会社にほとんど馴染みがなく、朝鮮総督府は詐欺行為が多発するのを警戒して1910年に会社令を公布し株式会社を届出制でなく許可制とした。産業振興のための貿易輸出策となる朝鮮貿易協会を京城に設置、奉天・大連・哈爾浜など大陸各地で官民による朝鮮物産の宣伝と販売促進を行った。これらにより従業員5人以上の工場数は、1910年には朝鮮人経営39社に対して日本人経営は112社であったが、1939年には朝鮮人経営4,185社に対して日本人経営2,768社となり、稼働工場数の増加とともに現地経営者の急激な増加が認められる。ただし、1939年においても規模が大きくなるほど日本人による経営が多かった[104]。, 2004年にソウル大学は、1911年から1937年にかけての朝鮮における各産業の従事者割合が、第1次産業で75%から45%、第2次産業で7%から22%、第3次産業で18%から33%にそれぞれ変化しし、資本経済化が急速に進んだこと、1912年から1937年にかけての年平均実質GDPが4.10%、実質GDEが4.24%の成長(同時代の日本内地やアメリカは3%台、欧州は1%台)をなしており、世界恐慌下においても飛躍的な成長を遂げていたとの調査結果を発表した[105]。, 韓国や北朝鮮では、現在も朝鮮の資本主義の萌芽を李氏朝鮮時代に求め、「芽生えた朝鮮の資本主義は成長する前に日韓併合による植民地化によって1945年まで大きく抑制されていた」という説が通説となっている。これに対し、ハーバード大学教授で朝鮮史が専門のカーター・J・エッカートは、研究の結果、李氏朝鮮時代の経済規模は同時代の日本や中国と比べて小さく、当時の商人と後の時代の資本家とのつながりがほとんど無いため、資本主義の萌芽が李氏朝鮮時代には存在せず、日韓併合による日本の政策によって生まれ、特に戦後の韓国の資本主義や工業化は、上記のような日本の朝鮮半島での近代化政策を模したものであると発表している[106]。, 日韓併合以前から、日本の国立銀行である第一銀行韓国総支店が、朝鮮での通貨として1902年から第一銀行券を流通させていた。大韓帝国時代の1909年には第一銀行にかわって中央銀行の韓国銀行が設立され、のち1911年に朝鮮銀行となった[107]。世界恐慌後の各国は、自国の経済を保護するためにブロック経済を進めており、朝鮮は日本円を中心とする日満支経済ブロックに含まれた。朝鮮には日本円を導入する案もあったが、経済的な混乱が日本に波及するとの理由で採用はされなかった[108]。朝鮮銀行では、日本円と等価の朝鮮圓(円)が発行されていた。この通貨は内地(日本本土)では使用できなかったが、日本銀行の円、そして金、銀との等価交換が保証されていた。, 戦費を調達するために、朝鮮銀行は中華民国臨時政府の中国連合準備銀行と預け合い契約を交わした。この契約は相互に預金口座に記帳することで、戦費に用いる通貨の発行を目的としていた。預け合い契約によって日本本土へのインフレーションは避けられたが、同時に中国で通貨を濫発することになり、インフレーションによる経済混乱と日本統治下の通貨制度に対する信用低下を招いた[109]。, 1905年までは李氏朝鮮による調査。李氏朝鮮による調査は徴税を目的としているため申告式であり、身分と収穫率にしたがって軍役と無関係な一部の女子、賎・奴などの疎外層は申告から除外されたり漏らされたりしていた、また以降の調査で人口が急増しているので実際は李氏朝鮮に1000万人前後の人口があった可能性はある。1905年第二次日韓協約によって大韓帝国は日本の保護国になる。これ以降は日本(韓国統監府および朝鮮総督府)による調査。1910年に韓国併合。, 1910年の大韓帝国の併合により大韓帝国の統治権は天皇に譲与され、大韓帝国により編纂されていた戸籍は日本政府が担任することとなった。朝鮮は併合の経緯から大韓帝国の統治権を天皇が譲与され統治することとなったため、「併合」(併合条約2条)とはしたものの、選挙法など統治関連法は内地のものは直接適用されなかった。併合条約締結の直後である1910年8月29日には韓国ノ国号ヲ改メ朝鮮ト称スルノ件(明治43年勅令第318号)が発せられ即日施行されている。, 朝鮮人は「帝国臣民」に編入され、日本人の朝鮮移住も進んでおり1910年12月末時点で朝鮮在留日本人は50,992戸(171,543人)に上っていた。併合後の朝鮮統治は朝鮮総督府が直裁しており、朝鮮在住の「協力的朝鮮人」はむろん、在朝日本人さえ朝鮮半島における政治への参政権をもっていない状況にあった。1913年には日本人社会の居留民団が解体され、事実的な自治権は剥奪された。1920年代以降の協力的朝鮮人を含む植民地朝鮮での参政権問題は政治的課題となり、ひとつの方法として日本国内の縁故地で衆議院議員として選出をめざし「植民地政策決定過程」に介入する手段を目指した[113]。朝鮮半島では1931年に制限選挙による地方議会が開設され、1933年5月11日の朝鮮朝日(朝日新聞の外地版)によれば、13の道(内地の府県に相当)議会の当選議員のうち、約80%が朝鮮人だった。
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