江夏の現役生活18年のうち、背番号「26」で過ごしたのは、3分の1にあたる6年のみだが、「江夏の21球」、日本ハムでのリーグ優勝と濃密な6年間だったことは間違いない。, 2020年シーズンの着用率を見ても投手のイメージが強い背番号「26」。その中で長きにわたって野手がつけ続けてきたチームがDeNA(前身球団含む)だ。1950年に宮崎剛が背番号「26」をつけてから空白期間なく2000年まで野手がこの番号を背負ってきた。 2季連続出場。左腕・大江と今村の1年生バッテリーは健在. ほとんど、というより誰一人として指摘しないけど、 長期連載の野球 漫画で左腕投手がほとんど活躍しない、非常に珍しい作品 >>31 英二郎の先輩が、英二郎を英一郎と間違えて挨拶してぶっ飛ばされた際、 英一郎から言いつけられてイジメを行っていたと明かしている 小学6年生m君の投球フォームを ご覧いただきながら 参考にして欲しいポイントをまとめますここからがこの投手の真骨頂です。 トップを作る所からリリースの前まで 体の軸からボールが離れません。 巨人:髙橋優貴投手 それから時が経ち、2003年のドラフト自由獲得枠で内海五十雄の孫にあたる内海哲也が巨人に入団。祖父と同じく背番号「26」を背負った。 内野手:1球団 プロ野球選手にとって背番号とは…(第654回) 読売ジャイアンツが獲得を目指している、福岡ソフトバンクホークスからFAとなっている杉内俊哉投手に、背番号18を用意するという。 不在:1球団 残念ながら内海五十雄はすでに亡くなっており、孫の勇姿を見届けることはできなかったが、喜んだことだろう。内海哲也は2018年シーズンまでの15年間で133勝を挙げるなどエース級の活躍。2018年オフにFAで巨人入りした炭谷銀仁朗の人的補償で移籍した西武では「27」を背負っている。, 海を渡ったメジャーリーグにも背番号「26」の偉大な選手はいる。2005年にアメリカ野球殿堂入りを果たしたウェイド・ボッグスもその一人だ。 Copyright© SPAIA | スポーツデータAI予想解析メディア All Rights Reserved. 加藤拓也 ※13番で決定しました!! カープの投手陣は10番台を多くつけています。その中で唯一空いているのが前田健太が付けていた18番だ。この18番を加藤に!とは考えにくいですね。また黒田が引退するので15番が空きますがこれも荷が重いです。よって可能性としては野村が19→18。加藤が19番と … 2020年12月1日(火) 14:23:23取得 上昇 下降 新スレ ★ 0 Δ 5分. 捕手:0球団 読売ジャイアンツ歴代在籍選手の背番号変遷一覧です。チーム創立時の大日本東京野球倶楽部1934年からこれまでの登録選手の背番号を背番号順に掲載しています。 西武:粟津凱士投手 DeNA:濵口遥大投手 いよいよ、高校野球静岡県大会も佳境に入ってきました。今日はベスト8をかけ、8試合が行われます。 『静岡高校野球』編集部も連日、球場につめているのですが、ここにきて、みなさんからよく聞かれるのが、磐田東の背番号20、齋藤誠哉のことです。 オリックス:東明大貴投手 永久欠番:0球団 早稲田大野球部の2021年メンバー・スタメン・監督情報や、2021年の新入生(1年生)のメンバー・出身中学・卒業生の進路一覧。2021年の試合結果やオープン戦・公式戦の試合日程・試合予定や試合速報 … 中日:井領雅貴外野手 ロッテ:不在 日本ハム:淺間大基外野手 石井が2007年オフにfaで埼玉西武へ移籍すると、 翌2008年からは石井、高井と同じくドラフト1位左腕の加藤幹典に「16」が受け継がれますが、加藤はプロ入り5年で通算1勝しか挙げられず 。2012年に背番号を変更し、 現在は木谷良平が「16」を受け継いでいます 。 2015年夏の大会 第97回選手権宮城大会 2回戦 仙台育英vs仙台 仙台市民球場 「開幕戦を制した仙台が仙台育英と対戦」 1992年オフにFAとなってニューヨーク・ヤンキースへ移籍し、背番号は「12」になった。故障がありながらも高打率をキープし、1996年にはワールドシリーズで優勝した。晩年は創設間もないタンパベイ・デビルレイズでプレーし、通算3000本安打を達成、1999年に現役を引退している。 DeNAは3日、昨季広島に所属したマイク・ザガースキー投手と2016シーズンの選手契約を結ぶことで合意したと発表した。背番号は後日発表される。 外野手:2球団 巨人の内海五十雄、内海哲也が祖父と孫として同じ球団の同じ番号を背負ったことで知られる「26」。2020年は投手が多く、半分は左腕が背負っている。これまで背番号「26」を背負った歴代の名選手を紹介していく。 今中 慎二(いまなか しんじ、1971年3月6日 - )は、大阪府門真市出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)・コーチ等の野球指導者、野球解説者。愛称は「チュー」または「イマチュー」。, 現役時代は中日ドラゴンズに所属し、最多勝利や沢村栄治賞を獲得するなど、1990年代のNPBを代表する左腕として活躍した[1]。, 大阪府門真市の古川橋駅周辺で生まれ[2]、3歳年上の兄の影響で浜町小学校2年生の時に野球を始めた[3]。本来は右利きだが、この時に近所の中年女性から左利き用のグラブをもらって使い始めたことがきっかけで、左投げになった[3]。3年生になると兄と同じ軟式野球チームに入り、4年生からは投手になった[3]。門真第一中学に進むと同年設立されたリトルシニアチームである門真シニアに入団し、1年目からエースとなっている[3]。当時から球速があったが、チームの守備力が高くない事などから大会ではなかなか勝てず、野球を辞めようかとも考えたという[3]。, 大阪産大高校大東校舎に進学後、入学当初は目立った存在ではなかったが、すぐに見違えるような速球を投げるようになり、同校を訪れた田丸仁(当時、阪神スカウト)からも高評価を受けたという[3]。1年夏の大阪府大会からベンチ入りを果たし、秋の府大会では準々決勝の対PL学園戦に登板した。この試合は0対1で敗れたものの、立浪和義や野村弘を擁して翌年に春夏連覇を果たす強豪をよく抑え、NPBのスカウトらから注目を集めるようになった[3]。2年の冬にはクモ膜下出血で母を亡くし、精神的に大きく落ち込んだが[4]、3年時になると精神的に立ち直り、将来のプロ入りを明確に目指すようになった。, 3年生に進級した1988年度より大東校舎は大阪桐蔭高校として独立する。3年夏の大阪府大会では15個の三振を奪いながら延長戦の末に初戦で敗退し[5]、甲子園に出場することはなかった。漫然と大学への進学を予定していたが、145km/hの速球[6]などによって全球団のスカウトが来校[5]するほど高い注目を集めており、1988年度ドラフト会議で中日ドラゴンズから1位指名を受けた。担当スカウトは法元英明で、契約金と年俸それぞれ6000万円、480万円(いずれも推定)で入団契約を結んでいる[7]。同期には、バッテリーを組んでいた桐山明佳(1988年に日本ハムファイターズにドラフト外で入団)がいる。, プロ1年目の1989年は近藤真一や上原晃の例に倣い、キャンプからオープン戦の期間は二軍でランニングなど体力の強化や守備練習に明け暮れた[6]。新宅洋志や稲葉光雄の指導を受けてフォーム修正や体力向上に取り組み[6]、早くも5月26日にはナゴヤ球場での対巨人戦で一軍初登板を果たした[5]。9月17日の広島での対広島戦では先発して北別府学と投げ合い、2回にマメを潰しながらもアロンアルフアで固めて5回を投げ[5]プロ初勝利を挙げた。オフの秋季キャンプにはロサンゼルス・ドジャースから臨時コーチが来ており、当時MLBで流行していたスプリット・フィンガード・ファストボール系のフォークボールを習得した[8]。, 1990年、キャンプで投手コーチの池田英俊にフォロースルーなどを指導されてストレートの伸びや変化球のキレが改善した[9]。また、シンカーの習得にも挑戦した[10]。3月4日に守備練習でノックの球をヒザに当ててノースローの調整が続いたが、3月24日に豊橋で行われたダイエーとのオープン戦では村田勝喜と投げ合って、5回で61球を投げ2安打無四球で無失点の好投を見せた[9]。開幕後は将来の左のエースとしての期待をかけられ、主に先発として起用された[11]。当時はまだ漫然と投げるようなところがあった[12]ものの、先発ローテーションに定着し、6完投など規定投球回に達して10勝を記録している。, 1991年、オールスターゲームに初めて出場し、第2戦の7回から2イニングを投げ1安打無失点に抑えている。同年は佐々岡真司との最優秀防御率を争い、シーズン最終戦のダブルヘッダーに連続して先発したものの防御率0.08の差でタイトルを逃した。, 1992年は4月19日の対巨人戦でゴロの打球が左手首に当たって骨折し、3ヶ月後の夏場に復帰している[13]。骨折が直って間もない頃はなかなか握力が戻らず、軽くキャッチボールをしても手首に鋭い痛みが走った。しかし、なぜかカーブだけは痛みがなく投げられたため、リハビリとしてカーブだけを用いた遠投キャッチボールを続けた。最初のうちはコントロールがつかなかったが次第にコツを掴み、これが今中の決め球ともいえるスローカーブを習得したきっかけだという[14][13]、また前腕の筋肉を鍛える中で左ひじの遊離軟骨が偶然くっついたとも述べている[15]。同年は11試合の登板に終わったものの8勝2敗で防御率1.77の成績を残している。, 1993年、自身初の開幕投手を務め、開幕4連勝の後で5連敗を喫したがそこから大きく巻き返し[12]、7月6日の対ヤクルトでは当時のセ・リーグ最多タイ記録となる1試合16奪三振を記録した。2年ぶりに出場したオールスターゲームでは第1戦に2番手として登板し、2回を投げ4安打2失点だった。同年は先発で週に1、2回は登板し[12]、249イニングを投げている。また、9月2日のナゴヤ球場での対ヤクルト戦では9回2死から池山隆寛に同点本塁打を打たれ、延長まで投げ続けたものの15回引き分けに終わって首位浮上のチャンスを逃した。この試合は翌年の10.8決戦と並んで、現役時代で最も印象に残っているという[16]。同年の最終的な成績は17勝7敗、防御率2.20、247奪三振で最多勝利、最多奪三振などに輝き、審査項目を全て満たして沢村賞を受賞した。ちなみに、1990年代で審査項目を全て満たしたのは、今中以外には1991年の佐々岡真司のみである。また、ベストナインとゴールデングラブ賞にも選出されている。, 1994年、オールスターゲームで第2戦の9回に登板し、イチローらを三者凡退に打ち取っている。同年はチームがシーズン最終戦まで巨人と激しく優勝を争い、中2日や中3日の先発が続いたが痛みなどを訴える事はなかった。10.8決戦では試合に先立って中村武志ら選手会の面々に「勝っても負けてもいいから先発して欲しい」と頼み込まれるほど信頼を集めており、4回5失点で降板して敗戦投手となったものの他の選手達に悔いはなかったという[17]。同年の夏頃から左肩の状態が徐々に悪化していったと、今中自身は後に語っている[18]。, 1995年、疲労などでカーブなど球のキレが悪くなっていた[17]が、チーム内で唯一規定投球回に到達してリーグ2位の15完投を挙げた。同年のオールスターゲームでは第1戦に2番手として登板し、2イニングをパーフェクトに抑えている。また、MLBのスカウトからは同年に渡米した野茂英雄より高い評価を受けており、シンシナティ・レッズ監督のデーブ・ジョンソンからシーズン中にトレードによる獲得の打診があったという[19]。, 1996年、4年連続で開幕投手を務め、6月27日のナゴヤ球場での対広島戦では球団史上最速の186試合で1000奪三振を達成する[20]などの活躍で、7月までに9勝を挙げている。しかし、7月16日の東京ドームでの対巨人戦でプロ入り最短の1/3回で降板し、左肩の痛みを訴えた。翌日の検査で左肩関節周囲炎のため2週間の安静が必要という診断を受けて一軍登録を抹消され、直後のオールスターゲームは出場を辞退し、代わりに斎藤隆が出場している[20]。この故障の半月前にも腰痛で登板を回避していたが、優勝争いをしているチーム事情もあって1週間後には投球練習を再開し、7月29日に一軍に復帰、8月4日のナゴヤ球場での対巨人戦では1失点完投で勝利を挙げた。その後も左肩の違和感が残ったまま登板を重ねて[20]更に4勝し、4年連続2ケタ勝利となる14勝を記録している。, 1997年、キャンプ前に再び左肩を故障して従来とは明らかに異なる痛みを感じ[21]、精密検査により奥の筋肉に損傷が確認された[22]。このため肩の状態を確かめながら負担を抑えるスローペースな調整をしたものの、オープン戦初登板となった3月20日の対ロッテ戦では球速が最高124km/hにとどまっている[22]。更に試合後には肩関節周囲炎の再発が判明して投球練習ができなくなり、5年連続の開幕投手を断念した。6月に一軍登録され、6月8日のナゴヤドームでの対巨人戦でリリーフとしてシーズン初登板を果たしたものの、球威やキレが戻らず二軍に戻って再調整を続けた[23]。8月に一軍に復帰して8月15日のナゴヤドームでの対ヤクルト戦でシーズン初先発し、最速143km/hの速球と90km/h台のスローカーブで6回を3安打1失点に抑えて初勝利を挙げた[24]が、同年は2勝に終わっている。例年ノースローだった秋季キャンプでは、投手コーチの宮田征典が止めたにもかかわらず積極的に投球練習を行い、感覚が回復してきたと周囲に語っていた[23]。12月6日に結婚式を挙げ、鈴木宗男夫妻が媒酌人を務めている[25]。, 1998年、肩の状態が回復し、キャンプから筋力強化や遠投などを重ねた。5月16日の横浜戦(ナゴヤドーム)では、先発した1回に1点を失ったものの、その後は直球で押し、5回1失点の成績でシーズン2勝目を挙げたが[26][27]、結果的にこの勝利が、現役生活最後の勝ち星となった。6月5日のナゴヤドームでの対巨人戦では最速140km/hを記録して90km/hのスローカーブも戻り、8回131球を投げ2安打1失点の内容で勝利を挙げて復活の兆しを見せている[28]。しかし好調が持続せず、自身4連敗で迎えた7月9日の対ヤクルト戦に先発して2/3回で5安打4失点とKOされて2勝8敗となると、監督の星野仙一に改めて軟投派への転向を命じられて一軍登録を抹消された[28]。秋からはそれまで強く拒否していたウエイトトレーニングにも進んで取り組み、ランニングや坂路走で下半身を強化し、自身初となる12月の自主トレも行っている[23]。, 1999年、2月11日には投球練習を始めるなど早めの調整を行っていたが、一方でブルペンに入るのが怖くなるほど状態が悪化していた[29]。7月15日のナゴヤドームでの対広島戦に先発したものの2回6失点に終わり、福岡市の病院で改めて検査を受けた[18]。当初はリハビリによる治療を考えていたが、良い肩の状態が数日しか続かない状況にケジメをつけるため、炎症の原因だった左肩の滑液包を除去して突起骨を3箇所切除する手術を8月20日に受けている[29]。執刀医が驚くほど患部は悪化していたが5時間かかった手術は成功し、そのまま福岡で数ヶ月間リハビリを続けた。同年は入団後初めてチームがリーグ制覇を果たしたものの、9月30日の神宮での対ヤクルト戦で優勝が決まった時も福岡市内で医師と共に夜釣りをしていたという[5]。結局、このシーズンはプロ入り初の未勝利に終わり、自身プロ入団後初のリーグ優勝には貢献できなかった。ダイエーとの日本シリーズの際には経過報告を兼ねて福岡の宿舎を訪ね、チームメイトに激励の言葉をかけて静かに去っている[29]。, 2000年、11年ぶりに二軍キャンプでのスタートとなり、初めて一軍登板のないままシーズンを終えた。オフの契約更改は大幅な減俸となって翌年2月までかかり、星野監督からは「契約するだけでも感謝するように」という最後通告を受けている[29]。一方、2001年は1月の伊良湖岬での合同自主トレで積極的にランニングに取り組む姿勢が投手コーチの山田久志に評価され、2年ぶりに一軍キャンプでのスタートとなった[29]。キャンプ直前の1月30日には読谷球場のブルペンで100球を投げ込み、キャンプ中も投球練習の球数をこなしたが制球に問題があった。オープン戦では球速が最高131km/hにとどまったものの、フォークやシュートを駆使して3月3日の対ロッテ戦では4回を1失点に抑えている。しかし野手の状態が上がるに連れて打たれる場面が増え、3月23日の教育リーグでの対阪神戦では5回106球を投げて8安打5四球3失点の内容で、開幕一軍入りを諦めた[30]。同年は7試合に登板したものの、気力の限界などから10月に引退を決意。山田は中継ぎとしての再生を考え[31]、他球団からも獲得の打診があったという[18]。11月10日に引退の記者会見を開いた[18]。, 2002年3月23日にナゴヤドームでのオリックス・ブルーウェーブとのオープン戦の際に引退セレモニーが行なわれ、谷佳知と対戦した後に長男から花束が贈呈された[32]。中日の選手の引退セレモニーがオープン戦で開かれるのは1997年の郭源治以来であり、今中の次は2010年の立浪和義であった。また、同年よりNHKの野球解説者となり、名古屋の民放局でもゲスト解説を行っているほか中日スポーツ野球評論家も務めている。2009年のパ・リーグ順位予想では日本ハムのリーグ優勝を的中させた。2010年も、中日とソフトバンクの優勝を予想し的中させた。また、プロ野球マスターズリーグでは名古屋80D'sersに所属している。, 2012年シーズンより古巣・中日の二軍投手コーチに就任。同シーズン後に権藤博一軍投手コーチが退団したことに伴い、一軍投手コーチに就任した。2013年当初はブルペン担当だったが、チームの不振により6月12日の対西武戦から近藤真市投手コーチと入れ替わりでベンチ担当となった。10月15日、球団より来季の契約を結ばない事が発表された[33]。2014年からは再びNHKの野球解説者(主に総合テレビ東海ローカルの中日主管試合、BSのメジャーリーグ中継に出演)として活動する。, 細身の体型から全盛期には最速150km/近い[34]キレの良い速球と100km/h前後のスローカーブにフォークボールや70-80km/hの超スローカーブ[35]を混ぜた投球をしていた。さらに1996年頃からはチェンジアップも使っていた[35]。これらの変化球を意識的に全く同じフォームで投げ分けて打者を翻弄し、捕手の中村武志がリリース直前までサイン間違いかと不安になることも少なくなかったという[35]。特にカーブの方がストレートよりも力強く腕を振るように見えるフォームだったため、打者はストレートに差し込まれたりカーブに体が突っ込んだりしやすくなった[17]。, 先発の時はいかに完投するかを常に考え、5回まではストレートとカーブで投球を組み立て、打者が3巡目から4巡目に入って慣れてくる6回頃からフォークボールを混ぜていった[36]。フォークは多くても10球程度しか投げなかったが、終盤から球種を増やすことで狙いを絞りにくくさせて主導権を握り、さらに球種の少ない中盤までに攻略しようとして相手が焦る効果もあったという[36]。味方の得点に関わらず3点以内で完投するようなスタイルで、8点取ったら7点までは許すような山本昌とは対照的だったと中村武志は評している[17]。このため、重要な試合では点を取られない所を評価されて先発を任されることが多かった[17]。, 外角低めの球をベースにしながら、それを活かすためにも内角を有効に使う事を重視していた。内角への投球はコースが甘くなると長打になりやすいため勇気とコントロールが必要だが、外角だけでは踏み込んで打たれるか四球による自滅に繋がると考えていた[37]。, スローカーブは1992年に骨折からのリハビリを機に習得している。復帰直後の対阪神戦で和田豊に対してフルカウントからカーブを投げて珍しく和田から見逃し三振を奪い、手応えを掴んだという[38]。人差し指と中指をボールの中心からずらして縫い目にかけ、非常にゆるく握って親指は添える程度にしていた。この状態から手首をひねらず、人差し指と親指の間からすっぽ抜けるような感じで顔の前でリリースして投げたという[39]。ベース上に真上から落とすようなイメージで投げ、内外角の投げ分けも出来ていた[17]。, 打者からはストライクゾーンを外れるほど高い軌道から落ちてくるように見える上、ミットに入る前に空回りして止まりそうになるように感じられたという[13]。このためバッターは腰砕けになる事が多く、トーマス・オマリーをはじめ外国人バッターに特に嫌がられた[17]。原辰徳に対して8-9球連続でカーブだけを投げた時には全てファウルになっており[17]、ファウルを打たせるのにもカウントを取るにも有効なボールだった。また反発力がないため打たれても飛ばず[35]、球速が遅いため打者が必ず反応する[14]など使い勝手が良い球だったという。, 指が短く開きも狭いため、しっかりボールを挟むフォークボールの習得は諦めていた。しかし1989年の秋季キャンプで握りの浅いスプリット・フィンガード・ファストボール系のフォークを習得し、1991年頃から使うようになった。落差にはバラつきがあったが、1試合の中でハッキリ落ちるのは1球程度と基本的に変化は小さかった[36]。高めに入ると絶好球となるが制球を重視しすぎると腕の振りから見破られるため、低めを意識しながらも腕を強く振ることを重視していたという[8]。, 握りが浅くなるためフォークは改良がしにくく、練習ではほとんど投げなかった。フォーク自体は痛打されることが多く、首脳陣から試合で投げるなと言われたりもしたが[35]、ストレートやカーブを活かすためにも投げ続けた[21]。1994年から対戦するようになった落合博満にも、フォークの存在が非常に大きいと評されている[21]。, 自身の通算記録では74完投を挙げたことが誇りだったという[12]。与死球が少なく1994年と1995年には与死球0の成績を残しているが、「死球の恐怖心がなければ打者は4割打てる」とも語っており[40]、ある程度は死球も止むを得ないと考えていた。また、同時に敬遠も少なくある年では先発としてフルシーズンを投げて敬遠0の記録も持っている。対巨人戦で多く登板する先発ローテーションを組まれたこともあってこのカードで通算25勝を挙げた巨人キラーであるが[12]、金田正一や江夏豊の3年連続対巨人戦5勝以上の記録には一歩及ばなかった。, また、左投げながら通算被打率は対左打者で.263(1301打数342安打)、対右打者で.244(3528打数860安打)と対左打者の方が相性が悪い[41]。これについては、「昔の左打者は外角へ逃げる球を苦手としていたが現代の左打者は左投手のスライダーなどにもうまく対応しており、左対左は投手有利という一般論が必ずしも成り立たない時代になった」、と引退後の2002年に語っている[41]。, 25歳までに通算85勝をあげながら、その後の故障で100勝に届くことなくユニフォームを脱いだ選手生活は、同時期に売り出し50歳まで現役を貫き最終的に219勝をマークした僚友・山本昌の息の長さと対照的となったが、中日ファンへ残した印象は山本に劣らず強いものがあり、磐石の二枚エースぶりとともに長く語り伝えられている。, 落合博満と前田智徳には簡単に安打を打たれるというイメージがあり、走者のいる場面などでは周囲に伝わるほど気合を入れて対決した[16]。この二人が打者として最も印象に残っており、また自身の調子のバロメーターでもあったという[16]。投手では桑田真澄が最も印象に残り、投球に全くバットが当たらなかった事に加え、投げ合って勝った記憶がないというほど相性の悪さを感じていた[16]。, 正捕手を務めていた中村武志への信頼は厚く、中村からの餞別ビデオを見た際に涙を流す一面を見せた。, 「惜別球人 6回 今中慎二『いいときも、悪いときもあった。でも気持ちよくできた13年間でした』」『週刊ベースボール』、2001年12月10日号、P.116, 「天才サウスポーの原動力は打倒・巨人の心意気!」『週刊ベースボール』、1993年8月30日号、P.29, 「期待のドラフト1位クンの中間報告 今中慎二」『週刊ベースボール』、1989年4月10日号、P.73, 「オレに訊くな! ストレートとカーブの本格派左腕・今中慎二(元中日)に訊く フォークの使い方を教えて下さい」『野球小僧』、2010年2月号、P.123, 「人物ショートシヨート 開幕一軍て、本当に楽しいですネ! もはや左腕エースの扱い。星野監督は西本とあわせて30勝の皮算用」『週刊ベースボール』、1990年4月23日号、P.25, 「テクニカル・ポイント 中日・今中慎二 制球を気にしすぎて上体だけの投げ方に」『週刊ベースボール』、1990年7月9日号、P.68, 「魔球伝説 『今中慎二のカーブを捕った』中村武志」『Sportiva』、2007年8月号、P.74, 「魔球伝説2008 本人が解説! カーブ 今中慎二 わざと不安定に握ることがコツ」『Sportiva』、2008年7月号、P.48, 「にんげんドキュメント 野球浪漫 2回 今中慎二 天才サウスポーの孤独な闘い」『週刊ベースボール』、2001年4月16日号、P.42, 「遅すぎたエース復活 今中(中日)」『週刊ベースボール』、1997年9月1日号、P.18, 「こんなハズじゃなかった… 今中慎二 速球派か?軟投派か?今が勝負どころの元エース」『週刊ベースボール』、1998年10月5日号、P.54, 「残留か?退団か?その去就が注目される人たち」『週刊ベースボール』、2001年10月1日号、P.126, 「今中慎二(復活かけて-背水の男たち)」『週刊ベースボール』、1999年3月8日号、P.129, 「レフティーの不思議 左対左の虚と実 左ピッチャーの秘密 左打者との対戦で何を考える? 今中慎二氏に聞く」『週刊ベースボール』、2002年7月15日号、P.13, 「プロが公開『特上の握り』 変化球大図鑑 テクニカル・ポイント カーブ編 今中慎二」『週刊ベースボール』、2004年6月7日号、P.14, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=今中慎二&oldid=79990698, 初セーブ:1990年8月25日、対読売ジャイアンツ19回戦(ナゴヤ球場)、7回表1死に2番手で救援登板・完了、2回2/3無失点, 1000投球回数:1995年7月6日、対読売ジャイアンツ15回戦(ナゴヤ球場) ※史上261人目, 1000奪三振:1996年6月27日、対広島東洋カープ14回戦(ナゴヤ球場)、5回表に. 背番号20番台は投手、野手ともに背負う番号だが、「26」は投手の着用率が高くなっている。2020年における各球団の背番号「26」は下記の通り。 ファンクラブ【2021 Swallows CREW】TOP ソフトバンク:吉住晴斗投手 日本野球機構(npb)オフィシャルサイト。プロ野球12球団の試合日程・結果や予告先発、ドラフト会議をはじめ、事業・振興に関する情報を掲載。また、オールスター・ゲームや日本シリーズなど主催試合のチケット情報もご覧いただけます。 前 位 ☆ タイトル 総数 増分 時速 作成日時 (1) 1: ☆: 近畿の高校野球746 ヤクルト:坂本光士郎投手 今中 慎二(いまなか しんじ、1971年 3月6日 - )は、大阪府 門真市出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)・コーチ等の野球指導者、野球解説者。 愛称は「チュー」または「イマチュー」。. 例外はロッテの背番号「26」だ。ロッテはファンの番号と制定しており、準永久欠番扱いとなっている。これはベンチ入り選手25人に次ぐ26番目の選手はファン、という思いが込められており、ベンチにユニフォームが飾られている。, 401奪三振というシーズン最多奪三振記録保持者の江夏豊。阪神、南海、広島、日本ハム、西武と渡り歩き1967年から1984年まで現役生活を送った中で、広島、日本ハムの2球団において背番号「26」を着用した。 日本野球機構(npb)オフィシャルサイト。プロ野球12球団の試合日程・結果や予告先発、ドラフト会議をはじめ、事業・振興に関する情報を掲載。また、オールスター・ゲームや日本シリーズなど主催試合のチケット情報もご覧いただけます。 しかし、2016年ドラフト1位で入団した濵口遙大にこの番号が与えられ、球団史上16年ぶり2人目となる背番号「26」の投手が誕生した。今後、投手の番号となるのか、野手の番号に戻るのかは、濵口の活躍にかかっているかも知れない。, 「打撃の神様」こと川上哲治が東京巨人軍に入団した1938年(昭和13年)。この年に川上とともに入団した内海五十雄は、同期入団の吉原正喜、千葉茂、岩本章、三田政夫、野村高義らとともに「花の昭和13年組」と呼ばれた。内海は背番号「26」を背負って2年間プレーしたが、通算20試合の出場に終わっている。 2013年09月16日 00:39; ID:Fono.BJY0 ※22 左腕で二年連続最多勝・左腕で日本シリーズMVP?・巨人立て直しだから、巨人ファンからすれば他球団から分からない以上に貢献度高いからだろ。 一桁じゃないし、本人も永久欠番にするって言ってるからご褒美的な感じよ。 ウェイド・ボッグスは通算118本塁打と長距離打者ではなかったが、6年連続リーグ最多敬遠を記録するなど相手チームからは恐れられていた。引退後の2005年に野球殿堂入りを果たし、2015年には背番号「26」がレッドソックスの永久欠番として制定されている。, ISMS認証登録番号:ISO/IEC 27001認証取得 No.ISA IS 0311. 公式ファンクラブ Swallows CREW【スワローズクルー】 マイページログイン. その中には「天秤打法」で首位打者争いを演じた近藤和彦、「オバQ」の愛称で親しまれた長距離砲の田代富雄(現DeNAチーフ打撃コーチ)、「メカゴジラ」と呼ばれた佐伯貴弘らがいる。 高校野球@5chアクティブスレッドランキング. 佐伯が「10」に変更した2001年に杉山賢人が初めて投手として背番号「26」を背負ったが、1年限りで引退となり、翌年から捕手の小田嶋正邦が着用。その後、佐伯貴弘が再び背負い、井手正太郎が受け継いだ。 1991年まで9年連続で打率3割を記録するなど、安打製造機としてメジャーリーグの歴史にその名を残している。 2019年横浜denaベイスターズの背番号変更情報・空き番号・新規加入選手の背番号を更新します。 空き番号 6、13、20、32、55、56、69、70、81、86、90、93、95、96、97、98 赤字は永久欠番。 青字は準永久欠番(管理人の主観)。 新規加入・変更【監督・コーチ】 番号 選手名 役職 備考 76 田代 富雄 … プロ野球選手の2020年の年俸について調べて一覧にしてみました。[菅野 智之年俸:6億5000万円][柳田 悠岐年俸:6億5000万円] 出場回数:11年ぶり5回目 打率:.339 チームデータ:(1)私立(2)1948年(3)1958年(4)1回(5)4勝4敗 ※ 打率は公式戦チーム打率。 ※(1)公・私立(2)学校創立年(3)野球部創部年(4)夏の選手権出場回数(5)センバツ通算成績 西武、ダイエー、巨人の3球団で日本シリーズに出場。現在4球団目で活躍中の現役最年長左腕投手。 【答え】 工藤公康: 背番号34は巨人の永久欠番。プロ入り2年目から14年連続20勝。通算400勝、奪三振4490はプロ野球記録。 【答え】 金田正一 2年連続日本一を達成した1980年オフに江夏は日本ハムへ移籍。1981年から3年間、所属した日本ハムでも背番号「26」だった。移籍初年度から最優秀救援投手に輝くなどリーグ優勝に貢献。日本一にはなれなかったものの、江夏は3年連続でリーグ優勝を果たした。 プロ野球でもエースナンバーは1にしてほしい 5: 風吹けば名無し :2013/07/31(水) 13:18:56.03 ID:cVxXfdaZ 17すき 7: 風吹けば名無し :2013/07/31(水) 13:19:15.29 ID:1E+ywfB5 一の位は尖った数字がいい 1とか7とか 第86回選抜高校野球大会 2014年(平成26年)の成績。龍谷大平安硬式野球部を応援する私的サイトです。全国制覇を目指して日々頑張っている平安球児をall平安で応援しています。 2020年はロッテを除く11球団のうち8球団で投手が着用している。巨人は左腕エース・内海哲也が西武へ移籍したため、2020年から同じ左腕の髙橋優貴が背負っている。 投手:8球団 投手8人のうち高橋、濵口遥大(DeNA)、呂彦青(阪神)、坂本光士郎(ヤクルト)と4人が左腕。左腕のイメージが定着しつつあるのかもしれない。 サイト内の記事・写真・アーカイブ・ドキュメントなど、すべてのコンテンツの無断複写・転載を禁じます。. 楽天:渡辺直人内野手兼打撃コーチ 楽天は、田中将大投手がつけていた背番号「18」を永久欠番にするという。エースナンバーを背負って、昨年は24連勝を挙げるなど球界のエースとして君臨。男は、間もなく海を渡る。今年のオフにもポスティングシステムでmlbへの移籍を目指す広島のエース・前田健太も背番号は「18」。 DeNAが元広島の左腕ザガースキー獲得に合意 昨季は19試合登板で防御率2.40. 現役時代は中日ドラゴンズに所属し、最多勝利や沢村栄治賞を獲得するなど、1990年代のnpbを代表 … 1978年に南海から広島へ移籍すると、抑えとして1979年、1980年の2年連続日本一に貢献。特に1979年の日本シリーズ第7戦では、9回裏無死満塁のピンチを招きながら無失点に抑え、胴上げ投手となった。この場面はノンフィクション作家の山際淳司が「江夏の21球」として描き、多くのファンの脳裏に刻まれている。 広島:中田廉投手 1976年ドラフト7巡目でボストン・レッドソックスに入団。1982年にメジャーデビューを果たした際の背番号が「26」だった。2年目の1983年に打率.361(582打数210安打)で首位打者を獲得。さらに1985年から1988年まで4年連続で首位打者に輝いた。 阪神:呂彥青投手
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