そのマスコットを本格的に導入し、定着させたのは、 阪急ブレーブス (現オリックスバファローズ) であり、 プロ野球におけるマスコット・キャラクターの先駆け的存在となったのが、 ブレービー であった。 BBスタジアムでの最終戦は、合併相手でありこちらもこの試合が球団として最終試合となる対近鉄戦となったが、7-2で勝利している。, 6月13日、日本経済新聞により大阪近鉄バファローズとオリックスの球団合併が報じられ、球団合併を両球団が検討していることが判明した。以後、紆余曲折を経て12月1日、球団経営の抜本的立て直しを目的として、同じパ・リーグの近鉄と合併することとなり、オリックス・バファローズとなった[注 18]。なお、この時に選手分配ドラフトが開催され、選手の約半数(主には1軍戦力としては不要な選手)を新規参入球団東北楽天ゴールデンイーグルスに譲渡している。合併後の監督には、近鉄・オリックス両球団で監督経験のある仰木彬(1988年 - 1992年:近鉄、1994年 - 2001年:オリックス)が復帰。保護地域に関しては兵庫県を保護地域としてきた阪神タイガースとの兼ね合いもあり、2007年度までの3年間のみ暫定措置として、従来からのオリックスの保護地域である兵庫県と、近鉄の保護地域だった大阪府の両方を阪神タイガースとともに保護地域とするダブルフランチャイズの形が取り入れられ、神戸総合運動公園野球場と大阪ドームの両方を実質的な本拠地球場とした(専用球場の扱いについてはまとめて後述)。球団事務所については引き続き神戸市内に置くこととなった。, 合併により有力選手が加入したことに加え、仰木が監督に復帰したことから戦力は大幅に向上して臨んだシーズンとなった。肺がんに侵されながらも指揮を執る仰木の下でチームは最後までAクラス争いを続けたが4位でシーズンを終え、Aクラス入り・プレーオフ進出を逃がした。シーズン後に仰木は監督を退任し、代わって球団ゼネラルマネージャーだった中村勝広が監督に就任した。編成を司るGMより監督への就任は日本球界初となる。仰木は球団シニアアドバイザーに就任したが、12月15日に肺がんによる呼吸不全のため70歳で逝去した。オフには巨人を自由契約となった清原和博、ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結んでいた中村紀洋を獲得している。, 前述した清原や中村、広島を戦力外となったトム・デイビー、新外国人のジェイソン・グラボースキーなどを獲得し、シーズンに臨んだ。デイビーは開幕から好投を続け、開幕投手の川越も期待に応えたが清原と中村は故障に苦しみ、前年から在籍するクリフ・ブランボーは不振で、ガルシアは試合前の長電話で中村監督の怒りを買うトラブルを起こして成績も不調で、前年奮闘したリリーフ陣も菊地原毅と加藤大輔を除けばほとんど調子を落とし、低調な戦いが目立った。また、谷佳知も不振を脱却できず、規定打席に到達したのは村松、塩崎真、谷の3人だけと主軸を固定できなかった。8月27日の北海道日本ハムファイターズ戦で敗れて7年連続Bクラスが確定し、26年ぶりの5位に終わった。成績不振の責任を取って中村が監督辞任、後任はテリー・コリンズが就任。11月20日よりこれまで神戸市(スカイマークスタジアム内)にあった球団事務所を大阪市北区堂島に移転した(後に京セラドーム大阪内に再移転)。この結果、球団業務の大半(球団本部、大阪営業部、ファンサービス部等)は大阪に集約され、一方の神戸事務所は神戸営業部等一部の業務のみに規模を縮小するなど、球団の経営機能は大幅に大阪にシフトしていくことになった。一方で、選手の入団会見や契約更改は、現在でも主に神戸にて行われる[27][28]。また、専用球場の登録はこの年に限り暫定的に神戸に移したがこのシーズン終了と共にまた大阪に戻し、試合数を大幅に増やすことになる(後述)。, 1月6日に前川勝彦が大阪市内でひき逃げ事故を起こし、さらに無免許[注 19]だったことが発覚して、業務上過失傷害と道路交通法違反の疑いで逮捕された。これを重くみた球団は1月18日付で前川を懲戒処分として所属契約を解消、その騒動の最中だった1月17日に、大幅な減俸を提示されて契約交渉が決裂した中村紀洋も同様に契約を解消した。この他球団の編成も完了している時期の契約解消について、選手会が野球協約上、問題のある交渉ではないかと批判している。低迷期より主戦打者だった谷佳知を、鴨志田貴司・長田昌浩とのトレードで巨人に放出し、ダン・セラフィニなどを補強。シーズン開幕前にタフィ・ローズを獲得して臨んだシーズンだったが、選手起用などで混迷は続いた。4月下旬から5月半ばにかけて17試合で1勝16敗と大きく負け越すと、優勝争いはおろかAクラス争いにすら加わることなく、パ・リーグ他5球団に負け越し、3年ぶりの最下位となった。オフにはかつてオリックスに在籍していた前巨人のジェレミー・パウエルの獲得を発表したが、1月29日になって福岡ソフトバンクホークスとの間で二重契約問題が発生し、パウエルはソフトバンクに入団している(詳しくはジェレミー・パウエル#二重契約問題参照)。, この年より協約上での保護地域を大阪府に統合。3月1日にこれまで共同出資を行っており、袖のユニフォームスポンサー契約を結んでいた近畿日本鉄道とのスポンサー契約を更新しないことが発表された(出資も引き揚げ)。これにより近鉄は1949年の近鉄パールス創設以来関わって来たプロ野球事業から完全に撤退した。シーズン開幕から4月までに12勝19敗とシーズン序盤は低迷が続き、借金生活に。結局5月21日にコリンズが辞任を発表した。この辞任を受け、大石大二郎ヘッド兼内野守備走塁コーチが監督代行に就任し、8月2日に監督に昇格した。, 大石の監督代行就任後、6月3日の巨人戦に勝利し、阪急時代も含めて通算4500勝を達成[注 20]するなどチームは持ち直していった。9月24日の対ソフトバンク戦に勝利して2001年シーズン以来7年ぶり、オリックス・バファローズとしては初のシーズン勝ち越しを決め、9月29日の対西武戦に勝利して、初のクライマックスシリーズ進出を決めた。2位で終わり、クライマックスシリーズでは第1ステージで3位日本ハムと対戦。2連敗で敗れ日本シリーズ出場はならなかったものの、15勝を挙げて新人王を獲得した小松聖を筆頭に、山本省吾・金子千尋・近藤一樹が先発10勝、加藤大輔が最多セーブ、坂口智隆はゴールデングラブ賞、タフィ・ローズは打点王を獲得するなど、チームの戦力は大幅に充実した。清原が現役引退した。, 1月19日にファームとネーミングライツを契約していた穴吹工務店との契約満了に伴い、10年ぶりにファームのチーム名が「サーパス」から一軍と同じ「オリックス・バファローズ」に変更された。2月23日、ビジター用ユニフォームと球団旗のデザイン変更が発表される(後述)。3月28日、関西プロ野球球団初の球団公式チアリーリングチームがデビューし、4月10日にチーム名「Bs Dreams(ビーズ・ドリームズ)」が発表された。この年は、楽天を退団したホセ・フェルナンデスを加えローズ・アレックス・カブレラ・グレッグ・ラロッカの4人でビッグボーイズを結成するなどし、開幕前の野球解説者の予想でも上位にあげられていたが、これら4人の外国人選手全員が死球などで全員が骨折するなど、極度の不運に見舞われ、主力選手の多くが怪我で離脱した。先発投手陣も、前年大活躍をした小松が開幕から大不振に陥ったのをはじめ、近藤が5月から不調に陥り、復帰した平野佳寿も開幕直後に体調不良で戦線離脱、開幕から金子と共に好調を維持していた岸田護も故障で離脱した。さらに、抑えの加藤を擁するリリーフ陣も不安定な投球が目立ち、9月以降は先発要員の金子が抑えに起用された。チームは5月に9連敗、6月に7連敗と大型連敗を繰り返し、6月は4勝14敗と大きく負け越して低迷。6月10日から1軍投手コーチ(ベンチ)の赤堀元之をブルペン、1軍投手コーチ(ブルペン)の清川栄治をベンチに配置転換した。6月18日からは1軍チーフ投手コーチの佐々木修を2軍投手コーチに降格、先日1軍投手コーチとなった清川栄治を1軍チーフ投手コーチに昇格する人事を発表している。しかし、これでも好調の兆しは最後まで見られず、優勝した日本ハムに8勝16敗、2位楽天には4勝19敗1分と大きく負け越すなど苦戦を強いられ、9月にはシーズン3度目の6連敗を喫した。9月9日の対楽天戦で敗戦を喫して2年ぶりにシーズン負け越しが決定。9月27日の対ロッテ戦で引き分けになり、勝率差でロッテに及ばなくなったため、2年ぶりに最下位となった。その責任を受けてGMの中村と監督の大石を解任、後任監督には岡田彰布が就任した。, 2月5日にキャンプ地の宮古島市のホテルで、小瀬浩之が転落死[29]する事態が起きた。直後に阿部真宏とのトレードで西武から赤田将吾を獲得している。3月20日から3月26日まで、1989年以来のパ・リーグ開幕4連勝を果たす。4月2日から4月7日まで5連敗・合計37失点と大量失点されたこともあり、4月8日に1軍バッテリーコーチの三輪隆が2軍バッテリーコーチに降格、2軍バッテリーコーチの吉原孝介を1軍バッテリーコーチに昇格する人事を発表した。交流戦に入ると、16勝8敗の好成績を残し、6月13日の対横浜ベイスターズ戦を7-2で勝利し、交流戦6年目で初優勝した。交流戦後の後半戦に入ると一時は3位に浮上したものの主力選手の不振等で連敗を繰り返し、その後もCS出場圏内にとどまっていたが9月26日、日本ハムが勝ち、勝率差で日本ハムに及ばなくなったため、2年連続のBクラスが、9月28日には4年ぶりの5位が決定した。T-岡田が本塁打王、金子千尋が最多勝を獲得している。, 「オリックス・バファローズ改造計画」と称し、球団旗・ユニフォーム・ペットマーク・ロゴマークを全部一新、新マスコット(バファローブル、バファローベル)を導入した。交流戦は2位。チーム防御率リーグワーストと投手陣が低迷していたため8月3日付で一軍投手チーフコーチの福間納を育成担当へ降格、育成担当の赤堀元之は一軍投手コーチ(ブルペン)に昇格し、ブルペン担当だった小林宏はベンチへ昇格した。4年連続でシーズン中に投手コーチが交代することになった[30]。その後、8月28日の対ロッテ戦から9月7日の対楽天戦まで1997年以来14年ぶりの9連勝を達成した[31]。9月は18勝6敗1分という好成績で3位となり、調子を落とした2位の日本ハムと一時は1.5ゲーム差にまで縮めるが、10月は3勝9敗1分と調子を落とし、最後は西武との3位争いの末、18日のシーズン最終戦において[注 21]オリックスがソフトバンクに敗れ、同じくこの日最終戦だった西武が勝ったため、わずか勝率1毛差(.0001差)で4位となり3年ぶりのAクラス入りとクライマックスシリーズ出場を逃した。オフには李承燁、朴賛浩、加藤大輔が退団。一方で、西武から許銘傑を、韓国のロッテ・ジャイアンツから李大浩を獲得した。, 開幕序盤の4月19日に勝率5割とした以外はすべて勝率5割を切った。月間別勝率でも7月と10月に勝ち越した以外はすべて負け越し、6、8、9月は勝率3割台で、9月には12連敗で球団記録を更新するなど、タイ記録となった9月24日の対ロッテ戦で最下位が確定[33]。翌25日にはシーズンの最後まで指揮を執ることになっていた[34]監督の岡田彰布とヘッドコーチの高代延博の休養が発表され、チーフ野手兼内野守備・走塁コーチの森脇浩司が監督代行に就任するが[35]、この日の対ソフトバンク戦にも敗れ連敗の球団新記録となった[36]。翌26日に対ソフトバンク戦に勝利して連敗を止め、代行就任以降の成績を7勝2敗とする。10月8日、シーズン最終戦で小久保裕紀の引退試合となった、対ソフトバンク戦では西勇輝がノーヒットノーランを達成し[37]、試合後、森脇が来季の監督に正式に就任すると発表した[38]。チーム打率、防御率は共にリーグ最低で、最下位チームからは史上6人目の打点王となった李大浩が打点を挙げた試合では30勝27敗2分と勝ち越すが、打点0の試合では27勝50敗8分と大きく負け越した。, 木佐貫洋、大引啓次、赤田将吾と日本ハムの糸井嘉男、八木智哉との3対2のトレードが成立。その糸井は3番ライトを担い、4番でこの年も24本塁打を記録した李大浩、5番のバルディリスと共に強力なクリーンアップを築いた[39]。エース金子千尋はケガのため、オープン戦に登板できなかったものの、ぶっつけ本番で開幕投手を任され好投した。また、西も先発ローテーションに入り、2人とも成績を残した。交流戦は13勝10敗で、巨人・日本ハム・ロッテと同率の3位とした[40]。金子千尋は24勝無敗の偉業を成し遂げた楽天の田中将大に沢村賞は譲ったが、田中もできなかった沢村賞の選考基準全項目を満たし、奪三振王のタイトルを獲得した。また、糸井嘉男も移籍一年目にもか関わらず共に5年連続となる打率3割・ゴールデングラブ賞を達成し、自己最多の安打、本塁打、盗塁を記録するなど投打の柱は共に活躍した。しかし、チームとしては10月1日の対ソフトバンク戦に2対9で敗れて5年連続のBクラスが確定、クライマックスシリーズ進出を逃し[41]、10月6日の対ロッテ戦に3対1で勝利して3年ぶりの5位を確定させた[42]。この年のオフ、4番の李大浩が退団しソフトバンクに移籍。また、後藤光尊が鉄平とのトレードで東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍。これにより、ブルーウェーブ時代から一貫してオリックスに在籍し続けた選手は姿を消した。, この年は各選手がキャリアハイレベルの成績を同時に達成し、充実した戦力となったことで6年ぶりAクラスとなる快進撃を見せた。打撃陣では3番や4番を務めた糸井嘉男が、前半戦終了時点で打率、安打、盗塁、出塁率、長打率でトップに立ち、最終的に19本塁打と81打点、31盗塁に加え首位打者と最高出塁率のタイトルを手にする大活躍を見せると、ソフトバンクから移籍したウィリー・モー・ペーニャも32本塁打、91打点の活躍で退団した李大浩の穴を埋め、T- 岡田も24本塁打を放ちチームとして長打力が大幅にアップ。また西武から移籍したエステバン・ヘルマンが30盗塁、安達了一が29盗塁と課題の機動力も大きく向上した。投手陣では最多勝、最優秀防御率、最高勝率の投手三冠に輝き球団史上初の沢村賞を獲得した[43]エース金子千尋に、開幕8戦全勝の球団記録を樹立した西勇輝、さらに9勝を挙げたディクソンら先発陣に、48ホールドポイントを挙げ2年連続ホールド王に輝いた佐藤達也、当時パ・リーグ新記録の40セーブを挙げ初のセーブ王を獲得した平野佳寿に加え、32ホールドの馬原孝浩、パ・リーグ記録の34試合連続無失点を記録した比嘉幹貴、55試合に登板した岸田護ら強力なリリーフ陣の活躍で、リードした試合は落とさない安定した戦いを見せた。4月を首位で終え、ソフトバンクとの熾烈な首位争いを繰り広げ、19年ぶりに前半戦を首位で終える。9月17日には6年ぶりのクライマックスシリーズ進出が決定[44]。ソフトバンクとの優勝争いは続き、9月終盤には残り試合数の関係で一時は2位ながらも優勝マジックが点灯した。10月2日のソフトバンク戦(ヤフオクドーム)、オリックスはこの試合に勝てば残りシーズン2試合を2連敗さえしなければ18年ぶりのリーグ優勝、この試合がシーズン最終戦となるソフトバンクはこの試合に勝てばリーグ優勝という事実上の優勝決定戦を迎える。試合は9回では決着がつかず延長に突入するが、10回裏にサヨナラ負けしたことで優勝を逃し、1位との勝率僅か2厘の差で2位に終わった[45][46](チームでは1989年の1厘差以来で優勝を逃し、厘差で優勝を二度逃したのはNPBではオリックスが初である)。日本ハムとのCSファーストステージでは1勝2敗で敗退した[47]。, しかし、チームが好成績を残したことでオフにフロントも大きな補強を敢行。日本ハムからFA権を行使した小谷野栄一、メジャーリーグに挑戦していた中島裕之、DeNAからトニ・ブランコ、広島からブライアン・バリントンを獲得。戦力流出の阻止としては、まず12月9日に守護神でFA権を行使しての国内移籍の意向を示していた守護神の平野を球団のリリーフ投手史上最高の年俸3億円の3年総額9億円契約を締結[48]。さらに12月15日には日本ハム時代からポスティングシステムを利用してのメジャーリーグ挑戦を切望していた主砲の糸井には日本人外野手最高の年俸3億5,000万円の単年契約で残留にこぎつける[49]。そして12月24日にはFA権を行使し、国内・海外への移籍への交渉を行っていたエースの金子を球団の投手史上最高の年俸5億円の4年総額20億円という超大型契約[50][51]で投打の柱の3選手の流出を阻止した。合計50億円超(推定)の大型増強を行った。, 前年オフに大型補強を行ったが、開幕から打撃陣が総じて不振に陥り、故障者も続出。投手陣もエースの金子や昨年活躍したリリーフ陣の出遅れなどが響いて大きく負け越した。チーム打率.232はリーグ5位と低迷、それを受けて4月19日の埼玉戦終了後に佐藤真一一軍打撃コーチと下山真二二軍打撃コーチの配置転換を発表した[52]。しかし、チームは浮上することなく5月31日には早くも自力優勝が消滅[53]。6月2日には森脇監督がチーム低迷の責任をとり休養し、併せてヘッドコーチだった福良淳一が監督代行として指揮を執ることを発表[54]した。, 前年まで二軍打撃コーチを務めていたフロント業務未経験の北川博敏を、事業本部企画事業部のプロジェクトマネジャー(PM)に異動。選手時代からの知名度や人気の高さを生かして、ファンの開拓に向けたPR業務に携わるかたわら、球団主管試合のテレビ中継での解説、球団情報番組『オリックス日和』(TwellV)のMC、球団情報発信サイト「PEI's TIME」の運営、京セラドーム大阪でのスタジアムツアーのガイドなど幅広く活動していた。なお、北川は2016年シーズンから、一軍打撃コーチとして現場に復帰する。, 交流戦はパ・リーグ球団では唯一負け越しの8勝10敗の9位に終わった。6月22日に独立リーグからヨヘルミン・チャベスを獲得、また東京ヤクルトスワローズ、読売ジャイアンツの4番として活躍したアレックス・ラミレスの巡回アドバイザーの就任を発表した[55]。しかし、交流戦以降もチームの低迷を歯止めをかけることができず、前半戦を首位・ソフトバンクと18.5ゲーム差の最下位でターンした。後半戦になっても浮上できず、8月16日の対ロッテ戦に敗れて、自力でのクライマックスシリーズの進出の可能性が消滅[56]。8月25日の対楽天戦に勝ち最下位から脱出するも[57]その後、3連敗を喫し最下位に逆戻りした[58]。, 8月27日に休養していた森脇監督が31日付けで退任することと、球団シニアアドバイザーへの就任を発表した[59]。福良ヘッドコーチは、監督代行のまま指揮を執る。9月15日のソフトバンク戦(京セラドーム大阪)に6-1で勝利し、前身の阪急時代から数えてリーグ戦通算5000勝を達成した。なお、NPB所属の球団では、巨人・阪神・中日に次いで4球団目で、パシフィック・リーグ所属球団としては初であった[60]。9月23日に中村勝広元GM・監督が66歳で急逝した。終盤は楽天との5位・6位争いとなり、10月3日の対ソフトバンク戦に勝利し5位が確定した[61]。大型補強を行い優勝候補と謳われながら、首位・福岡ソフトバンクと30ゲーム差のBクラスに終わった[62]。10月1日付で、監督代行扱いであった福良が来シーズンより正式に監督に昇格して引き続き指揮を執ることが決定した。また、二軍監督に球団OBの田口壮の就任も同じく決定している[63]。, しかしオフに谷佳知、平野恵一の両ベテランが引退し、またエステバン・ヘルマン、鉄平、榊原諒、井川慶、坂口智隆(ヤクルトへ移籍)、馬原孝浩らといった移籍組が戦力外となり、相次いでビックネームが退団した。ドラフトでは10位選手まで指名し、大幅な「血の入れ替え」となった[64]。, シーズン終盤に日本ハムに所属していた中嶋聡が引退したことによって、阪急ブレーブスおよびオリックス・ブレーブスに所属経験のある選手がNPBから姿を消した。, 新外国人としてキャンプ前にブレント・モレル、ブライアン・ボグセビック、エリック・コーディエの3選手を獲得した。だが、キャンプ直前に昨年まで正遊撃手を担っていた安達了一が潰瘍性大腸炎を発症し離脱、キャンプ中には4人目の新外国人である左腕投手パット・ミッシュを獲得した。オープン戦を中日、横浜と同率の最下位(10位)で終えると、シーズンに入っても投打ともに低調な状態が続いた。とくに先発の一角を担うべき西、金子といった先発陣だけでなく、新守護神として期待されていたコーディエら救援陣も大量失点する試合が目立った。打線もリーグ制となってからワーストとなる「チームとして開幕から13試合連続無本塁打」の記録を樹立してしまった[65]。その後も貧打は続き、球団は5月17日、元中日のマット・クラークの獲得を発表した[66]。 【阪急クラシカルニットユニフォーム 阪急ブレーブス 税込9,800円】 【阪急レプリカキャップ 阪急ブレーブス 税込3,500円】 今後いつ復刻されるかわからない商品ですので 少しでも気になった方はこの機会 … オリックス・バファローズの前身である阪急ブレーブスと近鉄バファローズ。この両チーム、今考えると共に変わった形の帽子をかぶっていた。 1978年の後期(当時のパ・リーグは前後期制)から、近鉄は6パネルの色違い帽子を採用。 以前、阪急ブレーブスの略称記号は、Bで、近鉄バファローズが、Buでした。近鉄は「パールズ」から「バファローズ」に変わったので、早いもの勝ちで、阪急がBをとるのは当然です。阪急が身売りして、オリックスになったあと、チーム名を募 西本幸雄、上田利治&仰木彬「阪急ブレーブス、近鉄バファローズ、そしてオリックス・ブルーウェーブ。栄光へと導いた名将の記憶」/プロ野球20世紀の男たち, [コラム] 中西太がイチローへ贈る言葉「活躍を喜んでいたのは、間違いなく、仰木君だと思う」, 【勇者の物語〜「虎番疾風録」番外編〜田所龍一】(121)西本と上田 師弟対決1年目 阪急に軍配, ソフトバンク4連覇 1965〜73年巨人の「V9」以来…工藤監督 日本S勝率歴代断トツ.833, 【もめた日本シリーズ】なぜ「巨人はロッテより弱い」発言が?/仰木彬「10分間抗議してくるから…」. 近鉄バファローズの血脈は風前の灯火だ。 関西のパ・リーグで覇を競った阪急ブレーブス、南海ホークスは、いずれもグループの商業施設に球団の歴史を顕彰するささやかなミュージアムを設けているが、近鉄バファローズにはそうした施設もない。 プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。. 故人。阪急ブレーブス時代からのオリックス・バファローズファン。 藤子・f・不二雄: 漫画家: 故人。近鉄バファローズファンだった。 藤原丈一郎: アイドル(なにわ男子) ファンクラブ会員のポイント順位が1000位以内であることを公言している。 古田敦也 オリックスは近鉄バファローズどころか阪急ブレーブスの歴史の系譜を幕引きした戦犯。なので、「大阪オリックスバファローズ」は阪急や近鉄の後継球団では全くなく、楽天と同じ新球団と考えた方がい … 昨シーズンご好評をいただいた、オリックス・バファローズのルーツを辿る『legend of bs』。今シーズンは、“劇的、激動の80’s”と銘打ち、80年代の阪急ブレーブスと近鉄バファローズのユニフォームを復刻 … 近鉄バファローズ 近鉄パールス(1950年-1958年)~近鉄バファロー(1959年-1961年)~近鉄バファローズ(1962年-1998年)~大阪近鉄バファローズ(1999年-2004年) <オリックス・バファローズ(オリックス・ブルーウェーブに吸収合併:2005年)~現在> リーグ優勝:4回(1979年、1980年… 交流戦は5勝13敗で最下位に終わった。7月17日、八木亮祐との交換トレードで近藤一樹が東京ヤクルトスワローズに移籍、このトレードによって大阪近鉄への在籍経験がある現役選手がオリックスから姿を消した[67]。, 後半戦に至っても低迷から抜け出すことはできず、本拠地最終戦となった9月29日の楽天戦に敗戦し、4年ぶりの最下位が確定した[68]。同一シーズンでオープン戦・交流戦・公式戦・2軍のすべてが最下位となるのは史上初で[69]、さらに公式戦では全球団に負け越し、交流戦でもヤクルトを除く全球団に負け越す結果となった[70]。しかしながら、シーズンのチーム捕逸数が「0」という日本プロ野球史上初の記録を達成した[71]。また、チーム打率・得点・安打・チーム防御率リーグ最下位、本塁打・失点は5位に低迷した[72]。この年のセ・リーグでは広島東洋カープが25年ぶりの優勝を果たしたため、オリックスは12球団の中で最も優勝から遠ざっているチームとなった。この年のセ・リーグのクライマックスシリーズでは最後の初出場球団の横浜DeNAベイスターズが初出場でファイナルステージには初進出をした為、オリックスは12球団で唯一のファイナルステージ未進出の球団となった。オフには糸井嘉男がFA権を行使して阪神に移籍した。, この年より、二軍の本拠地が舞洲サブ球場へと移転。練習場と合宿所も含めて神戸から大阪へ移る形となった(詳細は後述)。首位楽天と2ゲーム差の2位で4月を終えるが、5月は4連敗、6連敗、そして2003年以来の球団ワーストタイ記録の9連敗、9カード連続負け越しを喫し[73]、5月下旬の交流戦前に一時順位は5位まで下がった。5月22日、奥浪鏡が運転免許停止中に自家用車を運転して交通事故を起こし、8月3日に退団[74]。5月28日のロッテ戦で山岡が初勝利して交流戦に入り、6月4日の巨人戦まで7連勝し、交流戦を単独首位でスタートするが、6月11日の中日戦から17日のDeNA戦まで6連敗を喫する。19日のDeNA戦で逆転勝ちし、交流戦再編後初の勝ち越し、交流戦で6位に入った。なお、広島には3年連続で3連敗した[75]。長打不足解消のため、5月30日にクリス・マレーロの入団を発表した。, 交流戦初戦から単独4位に浮上するがその後は順位の変動がなく、3位楽天と15ゲーム差の4位でシーズンを終えた。この年のセ・リーグではDeNAがクライマックスシリーズで優勝し1998年以来の日本シリーズに進出したため、オリックスは12球団唯一のCS優勝未経験チームとなり、かつ21世紀に入ってから近鉄を含む13球団で唯一の日本シリーズ未出場チームとなった。オフに日本ハムの増井浩俊をFAで獲得。平野佳寿がFAでアリゾナ・ダイヤモンドバックスに移籍した。, シーズン開幕からロメロ、T-岡田ら中軸は打撃不振に陥ったものの、田嶋大樹、アンドリュー・アルバース、増井ら新入団の投手の奮闘で、一時はAクラスに立った。しかしながらオールスター明けには8連敗を喫し[76]、最終的には4位に終わり4年連続のBクラスとなり[77]、12球団で唯一2007年から2018年までの平成のクライマックスシリーズを1度も優勝しなかった。入団3年目の吉田正尚がシーズン中盤から4番打者に定着。シーズン終了後に福良監督が辞任し、西村徳文ヘッドコーチが昇格することが発表された[78]。小谷野栄一が現役引退。オフには自由契約となっていた中島宏之が巨人に[79]、同じく自由契約となっていた金子千尋が日本ハムにそれぞれ移籍[80]、西勇輝が阪神へFA移籍した[81]。, この年から、英字略称および帽子やヘルメットのロゴマークが「Bs」から「B」に改められ、開幕前の3月21日にMLB・マリナーズのイチローが現役引退を表明した。これにより、オリックス・ブルーウェーブに所属経験のある選手が全員引退することとなった。この年は最下位でシーズンを終了し、2010年代では全12球団で唯一リーグ優勝かクライマックスシリーズのどちらかを優勝せずに2010年代を終えた。山岡泰輔が最高勝率、山本由伸が最優秀防御率を受賞。また、今シーズンを持って岸田護が現役引退。一方、セ・リーグのクライマックスシリーズでは阪神タイガースがファイナルステージを初めて敗退をした為、オリックスは12球団で唯一ファイナルステージ未進出ながらファイナルステージを敗退していない球団となった。, 6月23日から始まったZOZOマリンスタジアムでのロッテとの6連戦では、最終日の同月28日まで勝利を飾ることができず、日本プロ野球史上初となる同一球場同一カード6連敗を喫したが、同日先発した昨年最高勝率の山岡泰輔がこの試合で緊急降板し戦線離脱した。, 一時は5位に何とか持ち直すも、その後 福岡ソフトバンクホークスに連敗し再び最下位に転落。, 8月20日の試合後に行われた会見で、成績不振を理由に西村監督の辞任が発表され、事実上の解任となった。中嶋聡二軍監督が監督代行となり、コーチ陣も一・二軍間の入れ替えなど大幅なテコ入れを図った[82]。, 8月21日の就任初戦、対西武ライオンズ戦、先発の山﨑福也が好投し2安打1失点。打線はジョーンズがホームランなど3打点叩き出し、初陣勝利となった[83][84]。また9月9日、代打でT-岡田が5球団目となる球団8500号となるホームランを放ったが、低迷したチームを立て直すことができずに借金が膨らんでいき、9月14日の試合に敗れてシーズンワーストの借金23にまで達した[85]。, 10月29日の対北海道日本ハムファイターズ(札幌ドーム)に敗れて、球団合併後初の2年連続最下位、そして6年連続のBクラスが確定した。また、この年は中日ドラゴンズが8年ぶりにAクラス入りを果たしたため、12球団で最もAクラスから遠ざかったチームとなった(ただし、この年のセ・リーグは変則日程によりクライマックスシリーズが行われないため、中日が12球団で同シリーズ出場から最も遠ざかっているままである)。最下位決定後は高卒ルーキーの紅林弘太郎をプロ初出場から5試合連続でスタメン起用するなど来季に向けて若手を起用した。11月6日対北海道日本ハム戦勝利で現在のオリックス・バファローズとして通算1000勝を達成。, 2020年現在、12球団で一番優勝から遠ざかっているチームで、唯一クライマックスシリーズのファイナルステージに進出したことがない。, 2005年より球団合併に伴う暫定処置として3年間限定で「ダブルフランチャイズ制」が認められ、合併前に両球団が本拠としていた2球場をともに本拠地球場扱いとした[注 24]。ただし、野球協約における正式な本拠地球場である専用球場については規定通り1つとされ、大阪ドームが登録された。この年は大阪で34試合、神戸で32試合(他東京ドーム遠征2試合)が開催されている。球団は最終的には神戸での試合数を削減した上で大阪ドームに本拠地を一本化する方針であった(大阪ドームでの主催公式戦、当初案は2006年:42試合→2007年:54試合→2008年:60試合)。, ところが2005年10月、大阪ドームを運営する第三セクター「大阪シティドーム」が会社更生法を申請し、その後のドームの運営体制が不確定な事態となった影響から、オリックスは同年、専用球場の登録をスカイマークスタジアムに変更し、主催公式戦を半数ずつ[注 25]開催する措置を執った。同年4月、オリックスが大阪ドームの買収に乗り出し、同年6月にシティドーム社を100%減資した上で施設とともにオリックス子会社のオリックス・リアルエステート(現:オリックス不動産)が買収した(詳細は大阪シティドーム参照)。これを受けてオリックスは2007年、再び大阪ドームを専用球場として登録。同年も予定を変更して主催公式戦のうち48試合が大阪で開催された。, 2008年以降はダブルフランチャイズ制が終了、専用球場の選択は保護地域の大阪府内にある京セラドーム大阪(大阪ドーム)に限られることになった。ただし神戸総合運動公園野球場(ほっともっとフィールド神戸)の準本拠地としての使用も継続とし、年間20試合程度を開催していった。2011年度からは大阪ドームでの試合数を増やし、近鉄との合併後初めて20試合をきった。これまで必ず行われ特別料金が設定されていた神戸での対巨人戦と対阪神戦もなくなった。神戸で中止になった試合が発生した場合は、あらかじめ組み込まれている予備日を除いて大阪で振り替えられるようになっている。また、2017年は神戸での試合数は従来通り15試合を確保しているものの、うち週末の開催は土曜日の2試合のみ(いずれもデーゲーム)と、週末の開催が前年より大幅に削減された(2016年は週末の開催が8試合あった)。2018年は前年比で週末の開催が増やされたがトータルでは13試合とされ、うち2試合が雨天中止・大阪ドームへの振り替えとなったため実際は11試合に留まった。2019年も当初予定として11試合、2020年は1991年の神戸移転後では初めて1桁の3試合(予定 当初は8試合だったが、新型コロナウィルス感染拡大による防疫の観点からさらに縮小)となり、減少が続いている(但し神戸での予備日の設定がある)。, 正式な本拠地球場は1つであるが、選手名鑑などでは両球場を併記している場合もある(1999年までの近鉄も本拠地と準本拠地が併記されていたことがあった)[86]。, 大阪・神戸以外のいわゆる「地方球場」開催における主催は、合併後2005・2007-09年の東京ドーム以来行われなかったが、2015年に阪急時代の準本拠地・わかさスタジアム京都で1試合を主催、以後2017年(当初から地方開催予定なし)を除き、毎年地方開催を復活させている(なお2019年と2020年はわかさスタジアムでそれぞれ2試合予定されながら、2019年は雨天により、2020年は新型コロナウィルスの感染拡大による防疫の観点からそれぞれ全て中止となり、結局地方開催自体が消滅した)。, 球団合併以後の大阪ドーム、神戸総合運動公園野球場の試合数(中止分を反映した実勢試合数)は以下の通りである。, オリックス球団は、ブレーブスとしての初年度(1989年度)から、ファームチーム(二軍)の本拠地を神戸市に設定。1991年に初代「青濤館」(選手寮)を神戸総合運動公園の近くに設ける一方で、公園内のサブ球場(グリーンスタジアム神戸サブ球場)を本拠地として使用した。サーパス神戸時代の2000年からは、「青濤館」を残したまま、本拠地を北神戸田園スポーツ公園野球場(あじさいスタジアム北神戸)に移転。その一方で、2010年からは、神戸サブ球場の使用も再開した。, しかし、オリックスでは2007年以降、大阪ドーム(京セラドーム大阪)を一軍の本拠地として本格的に使用。「青濤館」の老朽化が進んでいることもあって、2010年代の前半からは、二軍の本拠地を一軍と同じ大阪市内へ移転することを検討してきた。2015年には、舞洲ベースボールスタジアムがある舞洲(大阪市此花区)が、移転の候補地として浮上。同年12月7日には、大阪ドームを運営する球団関連会社の大阪シティドームが、大阪市所有の舞洲ベースボールスタジアムおよび近隣の未利用地(舞洲野球場北西用地)の運営委託に関する一般競争入札に応募した。その結果、2016年4月1日から50年間にわたってスタジアムおよび未利用地の運営を委託されることが決まった[87]ため、オリックス球団は舞洲への本拠地移転計画を正式に発表した。この発表では、球団社長の西名宏明が、「大阪に本拠地を置く球団として、京セラドーム大阪から近い場所(スタジアムのある舞洲スポーツアイランド内)にスポーツ施設が整っていたことが(移転決定の)大きな要因」と述べている[88]。, 上記の計画によれば、大阪シティドームと大阪市による事業用定期借地権契約の締結後に、オリックスが総工費約30億円で舞洲ベースボールスタジアムの北西に球団の練習施設(サブ球場、室内練習場、第2代「青濤館」、クラブハウス)を建設。竣工後の2017年シーズンから、初代の「青濤館」を閉鎖した[26]うえで、二軍の本拠地を同スタジアムおよびサブ球場へ移転した。球団主催分のウエスタン・リーグ公式戦については、大半の試合を舞洲サブ球場で実施しつつも、神戸市内の上記球場でも一部の試合を引き続き開催[87]。一軍の主催公式戦についても、神戸総合運動公園野球場(ほっともっとフィールド神戸)で一部試合の開催を継続する。また、舞洲に新設する練習施設では、一軍の選手が常時利用することも想定している[88][89][90][91][92]。, オリックス球団では、二軍本拠地の移転に先駆けて、2016年9月14日付で連携協力に関する包括協定を大阪市と締結[93]。以前から舞洲に練習の拠点を置いているプロスポーツチームのセレッソ大阪(Jリーグ)・大阪エヴェッサ(Bリーグ)と共同で、2017年春から「舞洲プロジェクト」(大阪市と民間企業の連携による舞洲スポーツ振興事業)に参画している[94]。その一方で、初代「青濤館」の建物と敷地については、舞洲への本拠地移転後に所有権を放棄した[95]。, 実際には、本拠地移転初年の2017年シーズンのみ、ウエスタン・リーグ主管試合の大半をナイター照明設備のない舞洲サブ球場で開催。設備のある舞洲ベースボールスタジアム(3年間の命名権契約によって同年6月15日から「大阪シティ信用金庫スタジアム」に改称)では開催を見送ったため、舞洲エリアでの主管試合は全試合デーゲームであった。2018年には、1月22日から舞洲サブ球場を「舞洲バファローズスタジアム」へ改称する一方で、大阪シティ信用金庫スタジアムでもナイトゲーム限定で主管試合の一部を開催した。2019年からは、舞洲サブ球場にも命名権を設定したため、同球場を「オセアンバファローズスタジアム舞洲」に改称。, 当球団は、50年を超える伝統を持つチームを吸収合併し、なおかつ存続側の球団自体もオーナー企業の変更や本拠地移転を経験した複雑な歴史を持つ[注 29]。, 球団は2006年に「阪急ブレーブス・近鉄バファローズ・ブルーウェーブの『3つのB』の伝統を大切にする」と宣言し、球団理念にもそれをうたっている[99]。2005年から2018年までの球団ロゴに複数形を示す「's」を加えていたのも、その理由であった[101]。, その一方、公式ウェブサイトの「ヒストリー」においてはオリックスが球団を買収した1988年(ブレーブスについては同年10月)以降の歴史のみが本文に記載されている[118]。近鉄については合併当初は創立時から記載していた(アーカイブ)。, パ・リーグでは東北楽天ゴールデンイーグルス以外の5球団がオーナー企業の交代と本拠地移転を経験しているが、このうち千葉ロッテマリーンズ公式ウェブサイト「チームヒストリー」、福岡ソフトバンクホークス公式ウェブサイト「「ホークスの歩み」」や埼玉西武ライオンズ公式ウェブサイト「伝説の西鉄ライオンズ」では、前身球団創設以来の歴史を記載している[注 30]。ただし、ホークスの場合南海時代の歴史やエピソードが積極的に取り上げられるようになったのは、ソフトバンクに親会社が交代してからで、ダイエー時代は「南海色をできるだけ消すという姿勢は、なかなか改められなかったようだ」という指摘がある[119]。ライオンズの場合も西鉄時代の歴史が記載されるようになったのは、西武による買収・移転から約30年を経た2008年からである。, 球団関係者からは2007年の時点で「それぞれの球団のファンにすると、中途半端な印象があるのかもしれません」「2つの球団が合併したとはいえ、選手の大半は近鉄側でしたから、大阪に力点を置いた事業展開を行うべきだったのかもしれません」といった、複雑な成立過程を持つ球団ゆえの悩みを認める発言がなされている[120]。, 2011年シーズンには「LEGEND of Bs 2011 蘇る黄金の70's」と題して1970年代の阪急・近鉄に光を当てたイベントが実施され、両球団の復刻ユニホームの使用や当時の選手とかつての阪急応援団長・今坂喜好による始球式がおこなわれたほか、このイベントの専用ウェブサイトでは両球団の創立以来の歴史も(1970年代を中心とする形ながら)記載された[121]。, 2012年は前記の通り「LEGEND of Bs 2012 劇的 感動の80's」と題して1980年代の阪急・近鉄をクローズアップしたイベントを実施。1980年代の両チームの歴史を記載した専用ウェブサイトも開設された[122]。, 2013年現在、これらの専用ウェブサイトへのリンクが上記「ヒストリー」のページに掲示されており、間接的な形ながら前身球団の歴史を公式ウェブサイトから知ること自体は可能になっている。京セラドーム大阪でも、「LEGEND of Bs 2011 蘇る黄金の70's」の開催を機に、前身球団(阪急・近鉄・ブルーウェーブ)の復刻ユニフォーム・キャップを3階のコンコースに常時展示している。, 2013年シーズンには、オリックス・近鉄両球団の1990年代以降合併までの歴史を振り返る「LEGEND of Bs 2013 Miracle!夢が叶ったあの時」として、大阪近鉄が2001年のリーグ優勝時に着用した最後のユニホームを復刻。パリーグ6球団共同企画「レジェンド・シリーズ2013」では、ブルーウェーブ時代のユニフォームの復刻版が披露された。また、同年は大阪に本拠を置いた南海ホークス(1988年にダイエーが買収・本拠地を福岡へ移転)の創立75周年にも当たることから、後継球団の福岡ソフトバンクホークスとの間で「OSAKA CLASSIC 2013」(4月17日 - 19日の京セラドーム3連戦)を開催。オリックスナインが1978 - 1996年の近鉄、ソフトバンクナインが1984 - 1988年の南海仕様のユニフォームを着用した[123]。2014年の「OSAKA CLASSIC 2014」(5月16日 - 18日の京セラドーム3連戦)では、オリックスナインが1966年 - 1973年前期の近鉄、ソフトバンクナインが1972年 - 1973年後期の南海仕様のユニフォームで試合に臨んでいる(なお、2015年も5月1日から3日間開催された)。, 「LEGEND of Bs」「OSAKA CLASSIC」の対象試合では、7回裏へ入る前(「OSAKA CLASSIC」の場合には7回表も含む)に前身球団の応援歌を流すなど、応援のスタイルも前身球団に沿った内容に変えている。球場内の売店では、前身球団の本拠地で人気を博した「スタジアムメニュー」や弁当の販売を復活させるほか、復刻ユニフォームのデザインや前身球団のマスコットにちなんだスペシャルグッズを発売。シリーズ終了後には、選手が試合で実際に着用したユニフォームを対象に、公式サイトでオークションを実施している。試合によっては、前身球団の著名なOBが試合前の無料トークショーや始球式に登場したり、前身球団の本拠地で「ウグイス嬢」や「スタジアムDJ」を務めた人物が試合中の選手コールやアナウンスを担当したりすることもある。シーズンの最終成績が5位であった2013年度には、このような復刻企画を繰り返したこともあって、主催72試合の平均観客動員数が前年度比8.1%増の19,979人を記録した。, 2014年3月4日からは、オリックス主催試合の開催日(試合開始予定時刻の3時間前から試合終了30分後まで)に限って無料で開放することを条件に、京セラドーム2階「スタジアムモール」の三塁内野席寄り(手形展示スペース付近)に「Bs SQUARE」という展示施設を常設[124]。前身球団で活躍した選手が実際に使用した野球用具・ユニフォームや、現役選手の手形・グラブ・ミットを展示している。また、(前身球団を含めて)球団史上重要な節目になった優勝を、写真・映像・資料(球団に贈られた記念のペナントやトロフィーなど)を通じて紹介する。, ちなみに、映像については、「『プロジェクトBs』シリーズ」(過去の「LEGEND of Bs」開催期間中に京セラドームやほっともっとフィールド神戸のビジョンで上映されたスペシャルムービー)の素材を流用。2013年までは2階の別フロアにあった「B's CLUB」(球団公式ファンクラブ)の受付や、球団主催イベントの開催にも対応したダイヤモンド状のフロアも設けられている。, かつて運営していた事業者の側だと、ブレーブスの親会社だった阪急電鉄は、阪神電鉄との経営統合で阪神タイガースとの間接的な関係が生じた後も、正雀工場での阪急レールウェイフェスティバルでブレーブス関連のヘッドマークの展示やミニチュア標識板、ブレーブス坊やのグッズなどの物品販売が行われた年度がある。また阪急西宮ガーデンズでは「阪急西宮ギャラリー」で阪急ブレーブスに関する展示が行われている他、かつて球場敷地にあった「ブレーブス子供会記念碑」や「ブレーブス後援会記念樹」も再設置されている。また、阪急電鉄創業者・小林一三の旧宅に開設された小林一三記念館でも球団関連の展示が行われている他、ブレーブスOBによるトークショーが行われたことがある。ただし、阪神電鉄及び阪神タイガースへの配慮もあり、阪急阪神東宝グループ公式ウェブサイトの「グループのあゆみ」では、旧ブレーブスについての記述はない他、オリックス球団による阪急復刻企画への直接の協賛は行わなかった[注 31]。, その一方、旧バファローズの親会社だった近畿日本鉄道では、球団に関する権利関係のほとんどをオリックス球団およびオリックスグループ関連企業に譲渡しているためか、公式ウェブサイト上でも保有・売却の事実があったことを社史「近畿日本鉄道100年のあゆみ」から引用する形で簡略的に触れる程度で、サイト上の歴代ポスターギャラリーでも旧バファローズ関連については一切掲載されないなど消極的な扱いとなった。, 結果的に、現在も阪神電鉄・阪神タイガースを通じてプロ野球との一定の関係が残っている阪急阪神東宝グループと、一切手を引いた近鉄グループの間では前身球団へのスタンスに温度差がみられる。, 阪急東宝グループ→阪急阪神東宝グループは、関係企業が保持していた「ブレーブス」の商標権を期限切れ後に更新しなかったため、失効後はMLB球団のアトランタ・ブレーブスがロゴマークなど一部の分野で登録している。, オリックス・バファローズでは、上記の本拠地以外にも、関西地方の野球場でウエスタン・リーグの主催公式戦を年々増やしている。2012年からは、藤井寺球場のあった大阪府藤井寺市の近隣に位置する富田林市の「富田林市立総合スポーツ公園野球場」(1997年に開催されたなみはや国体の軟式野球会場)で、毎年7月の第2(または第3)日曜日(2014年から土・日曜日)に同リーグの公式戦を開催。同年12月11日には、富田林市と「スタジアムニックネーム協定」を締結したことによって、同野球場に「富田林バファローズスタジアム」というニックネームが常時付くようになった[125]。この協定は、自治体(富田林市)によるスポーツ振興施策の提案にプロ野球の球団(オリックス・バファローズ)が賛同したことによる無償でのニックネーム使用契約という日本初の事例[126]で、球場名・チーム名に関する前述のネーミングライツ契約とは異なる。ちなみに、(大阪)近鉄バファローズも、1985年から2004年まで藤井寺球場に「バファローズ・スタジアム」というニックネームを冠していた。, 2015年9月23日に佐藤薬品スタジアム(奈良県橿原市)で開催されたウエスタンリーグ・対阪神戦では、「球場を満員にするプロジェクト」(前述)によるワンデイニックネームとして、スタジアム名を1日だけ「佐藤薬品バファローズスタジアム」という名称に変更した[117]。2016年からは、佐藤薬品スタジアムにとどまらず、豊中ローズ球場(大阪府豊中市)に「豊中ローズバファローズスタジアム」、花園セントラル球場(同府東大阪市)に「花園セントラルバファローズスタジアム」という名称を主管試合の開催日のみ使用。2017年からは、高槻萩谷球場(同府高槻市)で主管試合を開催する場合にも、「高槻萩谷バファローズ球場」というワンデイニックネームを冠している。さらに、2018年1月22日からは、二軍の本拠地(舞洲サブ球場)でも「舞洲バファローズスタジアム」という名称を常時使用している。, 2009年8月7日 - 9日の対千葉ロッテマリーンズ戦において初開催された。特別ユニフォームは開催日により異なる3種類のデザインが採用された。ベースは赤地であり、入場者に配られたユニフォームの背中部分には大きく「大阪夏の陣」の文字がプリントされていた。7日開催分のデザインと8日、9日の文字デザインは異なっていた。, 戦前の1939年5月6日、甲子園で行われた南海とのダブルヘッダー第2試合では、南海の宮口美吉・平野正太郎両投手に無安打に抑えられながら2-1で勝利した。4回裏に1点を先制されたものの6・7回に犠打・失策・四球をからめて1点ずつを取り逆転勝利したもの。無安打に抑えられながら得点をあげた試合は他に1939年の金鯱(8月3日の対イーグルス戦・西宮)・1959年の巨人(5月21日の対阪神戦・甲子園)・1964年の南海(5月13日の対近鉄戦・大阪)があるが、勝利したのはこの時の阪急だけである。, 1940年4月6日に西宮で開かれた南海戦で、阪急は32-2の30点差という大量得点で勝利を飾った。これは1試合の最多得点及び、最多得点差勝利の日本プロ野球記録である。, 1944年5月16日、西宮での対産業戦の7・8回に記録。その時の打撃は以下のとおり(太字は押し出し四球)。, 1950年11月5日、阪急西宮球場で開かれた、対毎日オリオンズ戦。当時阪急の監督だった浜崎真二は毎日の湯浅禎夫総監督に「(毎日の)リーグ優勝が決まった後なので、わしが投げるからあなたもどうだろう」と持ちかけて、湯浅も「よし」と快諾。両監督が先発投手になった。, この当時の年齢は浜崎が48歳10か月、湯浅が48歳1か月で2人合せて96歳11か月という最年長先発投手となった。浜崎は3回2/3(4回の2アウトまで登板)したが、21人の打者に対して8本の被安打、5失点(自責点も5点)で敗戦投手。一方の湯浅は4回を投げて勝ち投手にはなれなかったが19人に対して2本の被安打、2失点(自責点も2点)と好投した。, 1999年6月11日からはダイエーの本拠・福岡ドームでダイエーとの3連戦をオリックスの主催ゲームとして開催した。これは神戸が屋外球場なので梅雨時の試合消化が難しくなることを懸念し、ダイエー側の許諾を得て福岡ドームで主催ゲームを開催することになった。しかしベンチのスペース上、主催のオリックスは三塁側、ビジターのダイエーは一塁側と通常のダイエー主催ゲームと同じ配置だった。また、当時ダイエーの監督だった王貞治は、「(本拠地でビジターとして試合しようとも)とにかく勝てばいいんだよ」と、珍事には動じていないことを強調した。13日には試合途中で控えの内野手を使い切ってしまったため、外野手のイチローが三塁を守るというハプニングもあった。イチローが公式戦で外野以外のポジションを守ったのはNPB時代はこの時だけである[注 36]。, オリックスのホームゲームであるにもかかわらず観客の大半がダイエーを応援し、ダイエーが勝った試合終了後には花火の打ち上げとヒーローインタビューが行われるなど、ダイエーのホームゲームと変わらない球場の雰囲気だった。ただし、観客動員は3試合ともホークス主催の同球場同カードより1万人程度低く、観客動員の当ては外れた形となった[注 37]。, これより10年前、1989年にダイエーは当時親会社のヘッドオフィスがあった神戸を準本拠地として主催試合を開催することを計画していたが、兵庫県をフランチャイズとしているオリックス(当時)と阪神の許諾を得られなかった為に実現に至らなかった過去の経緯から、同年オリックス主催のダイエー戦13試合(うち2試合中止で西宮に代替)を神戸で開催した。, この前年の1998年3月29日には、オリックス主催の対中日ドラゴンズ戦を中日の本拠地であるナゴヤドームで開催した。, 2000年から2002年のドラフトで契約金を出来高制とした“契約金ゼロ”の選手を入団させ話題になった。これはドラフトの時点ではドラフトにかかるには一歩足りないと思われる選手を入団テストの上でドラフト指名して二軍で育成し、その後一軍登録日数が一定に達するなどの条件で出来高として契約金相当額を支払う、という現在の育成選手制度に近いものであった。2001年に北川智規が7試合に登板(先発3、救援4)したほか、2002年には高見澤考史が一軍に定着し、出来高を受け取っている。しかし北川はその後一軍に定着できず、高見澤は故障に泣き、どちらも2004年までに自由契約となった。, その他の選手はほとんど一軍で戦力になることはなく、中島俊哉(2005年から2014年まで楽天に所属)以外は2005年までにプロ野球を去っている。なお、この時入団した選手は前述の高見澤、北川、中島の他、高橋浩司・庄司大介(以上2000年入団)、板倉康弘・深谷亮司・藤本博史・橋本泰由(以上2001年入団)、塩屋大輔(以上2002年入団)である。開田博勝のように契約金ゼロでの指名ということを事前に伝えておらず、入団拒否に至った例もある。, 結局「契約金ゼロ枠」の選手がほとんど活躍していないこともあり、2003年秋から05年まで常務GMを務めた中村勝広が「夢や憧れだけで入団させることは本人やチームのためにならない」とし、同年から廃止された。以降、2000年代には育成選手も梶本達哉のみしか指名されておらず、怪我などで育成枠に降格する例としては宮本大輔などがいたが、育成枠自体があまり積極的に活用されることはなかった。しかし、2010年代にはフレディ・バイエスタスなどの外国人を育成枠で獲得し、2011年度のドラフト会議で稲倉大輝・柿原翔樹が育成枠指名された(バイエスタスは2012年途中に自由契約、稲倉、柿原も2013年10月1日に戦力外通告されている)。その後も2015年度に赤松幸輔を育成枠で指名し、2016年7月には3軍創設を念頭に育成選手を獲得する動きがあると報じられ[138]、10月20日のドラフト会議では5人の選手を育成枠で指名した[139]。, 2003年、対ダイエー戦で2回も大量失点試合を喫した。まず7月26日に福岡ドームで7-26・続いて8月1日にヤフーBBで1-29と大敗を喫した。後者は2リーグ分立以降の1試合の最多失点・最多失点差敗北の記録となってしまった。この年は他にも6月17日に岩手県営野球場で11-21・9月14日にヤフーBBで11-20で敗れており、同一カードでの20失点以上を4試合もしてしまったのは日本プロ野球史上ワースト記録である。, 2006年、ボールのかごを持った猿の「ゴウ(背番号555)」がやってきて、審判にボールを手渡すという、当時広島やロッテがファンサービスの一環で行っていた「ベースボール・ドッグ」に対抗した「ベースボール・モンキー」を導入した。, オリックスは1991年 - 2004年まで神戸を本拠としており、1995年の阪神・淡路大震災以後、復興のシンボルとして注目を集めた。2005年に近鉄と合併してからは大阪ドーム(現在の京セラドーム大阪)との併用となり、年間30試合程度に試合数が削減されたが、やはり神戸のチームという印象が根強く、観客動員の面でも神戸での試合が大阪よりも比較的よく入っていたというデータ[140]があった。, 近鉄との球団合併最初のシーズン、かつ震災10周年の2005年は、神戸と東京での主催試合では「がんばろうKOBE」のロゴを入れたワッペンをつけて試合に臨んだこともあった。これ以後も、阪神・淡路大震災の発生から節目の年度に当たる一部の神戸での主管試合(2010年度、2015年度など)では、ブルーウェーブ時代のユニフォームの復刻版を採用して着用したり、震災の記憶を風化させないためのプロジェクトなどイベントを継続して行っている。, 前述のように2007年に事実上京セラドームに一本化(協約上は2008年度以後)され神戸を含めた兵庫県での主催試合も20試合程度に削減され、2011年 - 2015年は15試合(ただし予備日の無い振替試合は大阪開催)とさらにその数を減らしている。, 2017年からは、二軍の練習拠点を神戸市内から舞洲スポーツアイランド(大阪市此花区)へ移転した。当初、移転計画を発表した2015年の時点で、一軍公式戦のうち球団主管で15試合を神戸で開催することを西名球団社長が明言した[141]ものの、2018年は13試合(実際は雨天中止の2試合が京セラドーム大阪に振り替えれられたため11試合)、2019年は11試合、2020年は5試合(予定)と徐々に神戸での開催を縮小している。なお、二軍でも、ウエスタン・リーグ主管試合の一部を移転前に続いて神戸市内で開催している(上述表参照)。, ちなみに神戸はメインだった2003年から合併後の今日まで、オリックス球団が管理許可制度の下で球場の運営を行っていることもあり、神戸市営地下鉄西神・山手線の電車の窓には主力選手のステッカーが貼られているほか(女性専用車両は除く)、神戸での公式戦開催日にはバファローブル(2010年シーズンまではネッピー)が描かれたヘッドマークが取り付けられている。, ブルーウェーブ時代の2004年、現在のフランチャイズが確立してから関西に本拠地を置く球団としては初めて東京都(東京ドーム)で主催公式戦・対北海道日本ハムファイターズを開催した。福岡ドームでの件とは違い、これまで同地を本拠としていた日本ハムが札幌ドームに移転したために伴うものと、オリックスが会社設立40周年を迎えたことを記念して、現在のオリックスの本社がある東京[注 38]で主催ゲームを開催することにしたものである。, 2006年は専用球場を一時的に神戸にした関係上、東京ドームでの主催ゲームはなかったが、その年以外では2009年まで毎年「オリックスグループお客様感謝DAY」と銘打ち、オリックスグループの社員と取引先の顧客を無料で招待する試合として、リーグ戦期間中の週末の2試合を利用して開催した。, 対戦相手は、バファローズとなった2005年も2004年に続いて対日本ハム戦を行った。2007年は対西武ライオンズ戦2試合を開催。ちなみに西武が東京ドームでパ・リーグのチームと試合をするのは、日本ハムが北海道に移転する前の2003年以来で、2008年は対千葉ロッテマリーンズ戦2試合、2009年は対東北楽天ゴールデンイーグルス戦2試合が行われたが、福岡ソフトバンクホークスとのカードは開催されていない。東京ドームでの主催試合の通算成績は5勝5敗である。, 2010年以降は開催されていない。なお、2010年のオリックスグループの社員と取引先の顧客を招待する試合は、3月30日、3月31日に行われた日本ハム主催試合のビジターゲームにて行った。, 2010年6月7日、対広島東洋カープ戦4回戦(福山市民球場)の6回表1死1塁、坂口智隆の二塁内野安打から荒金久雄、後藤光尊、T-岡田の3者連続タイムリーに北川博敏の3ランで打順一巡の猛攻。坂口の左前打までプロ野球新記録となる1イニング最多連続打席安打、前身の阪急時代の9者連続安打を抜く10者連続安打を達成した。しかし、奇しくも同日の15分前に千葉ロッテマリーンズも同記録を達成しており、タイ記録扱いとなった。, 阪急時代は同じく阪急電鉄が大株主であった関西テレビとの結びつきが強く、土曜・日曜のデーゲームを中心に数多くの試合を放送していた[注 40]。朝日放送・毎日放送・読売テレビは1960年代から70年代に関西テレビが編成上の都合で放送できない(特に1961年はキー局・フジテレビの方針で野球中継から一時撤退)ごく一部のカードを中継していた[注 41]。, オリックス・ブルーウェーブへの改称後は、毎日放送[注 42]が多数の中継を担当した。また、関西テレビではフジテレビ制作の巨人戦全国中継に差し替えて中継することもあった。現在は、朝日放送テレビと関西テレビで対阪神の交流戦と、それ以外の年数試合を関西テレビと読売テレビで深夜に録画放送が行われるのみである。読売テレビ・テレビ大阪・毎日放送は系列局やキー局系列BS放送への技術協力(球団制作映像と併用)が中心(ノンクレジットの場合あり)。, サンテレビはオリックス売却後はナイター中継中心となったが、阪急時代は阪急電鉄・阪急百貨店の筆頭提供で、デーゲームを放送することもあった。以前は対阪神の交流戦のほか、阪神戦がない日や、中継権獲得不可能な阪神の試合(主に東京ドームの対巨人戦)の裏カード時などに年数試合完全生中継が行われていた。2015年限りで原則として撤退し、それ以降は対阪神の交流戦に限定する形で水曜日に朝日放送テレビとのトップ&リレー中継(2017年)を、他曜日に自社制作の完全中継(2019年土曜。同年は関西テレビと並列)を行うのみとなった(阪神主催は2018年に自社制作と朝日放送テレビとトップ&リレー中継を各1試合実施)。対阪神戦の場合、ベンチリポートを両サイドに配置し、オリックスが勝利してもヒーローインタビューを放映するなど、中継内容は通常の阪神戦より中立的となる。また中継縮小後も、ファンフェスタへの協賛と賞品の贈呈は継続している。, かつて、テレビ大阪も阪急ブレーブス時代に数試合、オリックス・ブルーウェーブ時代〜2007年に数試合中継されることもあった。また、2015年と2016年にはテレビ東京で関東ローカル中継が各年1試合放送された。, 京都放送(KBS京都エキサイトナイター)は、阪急ブレーブス時代に京都市西京極総合運動公園野球場での主催試合を、オリックス売却後は同球場での近鉄バファローズ主催でのビジター扱いの試合を自社制作で放送したことがあるが、阪急主催の対近鉄戦は、近鉄主催の後者と同様『近鉄エキサイトアワー』として近鉄グループがスポンサーにつき、近鉄応援の放送となっていた。, 2005年まで(パリーグ同士の対戦については2004年)はフジテレビ系列(関西テレビ・フジテレビ共同制作。阪急時代に球団と関西テレビが兄弟会社だった関係で年1試合程度ナイターの全国生中継が行われていた。また、2000年代前半には年1試合程度、土日のデーゲームの全国生中継が行われていた。)、2006年まではテレビ朝日系列(朝日放送制作)、2007年までテレビ東京系列(テレビ東京・テレビ大阪共同制作)でも全国中継していた。ほか、1989年-1990年代末期まではTBS系列(毎日放送制作)でも放送されたり、対巨人のオープン戦に限り日本テレビ系列(読売テレビ制作)で放送された。, 李承燁と朴賛浩の韓国人選手が加入した2011年から韓国SBSテレビが主催ゲームの放映権を獲得し、スポーツ専門チャンネル「SBS CNBC」にて放映されることとなっている。, CS放送は球団が制作著作権を保有。関西テレビ放送の関連会社メディアプルポ・エキスプレスが共同で制作協力している。パ・リーグTV向けの映像はCS向けと同一内容。, 1936年から1946年までは「阪急軍」(1945年は戦況悪化のため、公式戦を休止。合同チームによる非公式戦のみ開催。), 旧球場名:グリーンスタジアム神戸→Yahoo!
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