プロモーターのBill Sargent(ビル・サージェント)は、1974年、最初にビートルズのリユニオン・コンサートのために1000万ドルを提示、1976年1月に3000万ドルに、そして翌月に5000万ドルに引き上げて … 2019年上半期チャート発表!総合ソング・チャート1位は、米津玄師「Lemon」総合アルバム・チャート1位は、星野源『POP VIRUS』トップ・アーティストは、あいみょんが受... プラネタリウム作品『QUEEN -HEAVEN-』プラネタリア TOKYOにて上映, “「フレディ邸で一番偉いのは猫ちゃんでした(笑)」──フレディ邸の日本庭園を造った男・高原竜太朗トークイベント・リポート”, https://www.musiclifeclub.com/news/20191018_03.html, “フレディ・マーキュリーも通った老舗ゲイディスコ。マスターが見てきた新宿2丁目の変化とは”, https://www.huffingtonpost.jp/2016/12/19/new-sazae-and-lgbt_n_13736476.html, Queen – Bohemian Rhapsody / These Are The Days Of Our Lives, Queen – Bohemian Rhapsody / These Are The Days Of Our Lives (CD, Single), https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=クイーン_(バンド)&oldid=80583455, 2006年-クイーンとパチスロがコラボした「ロックユークイーン」が登場。海外の大物アーティストがパチスロと完全コラボしたのは世界初。, 2011年-クイーンの楽曲の音源を最新機器でクリアにした、リマスター盤のアルバムが随時発売。, 結局「ステイト・オブ・ショック」は『スリラー』に収録されなかったが、アルバムが超人的なヒットを記録したことを受け、マーキュリーはインタビューで「あのアルバムに俺とマイケルの曲が入っていれば大金持ちになれたのに」という冗談を披露したが、ジャクソンがこれを真に受けてショックを受けてしまった。, 1980年代はお互いが多忙を極めていた。ジャクソンは『スリラー』の大成功を受けて世界最大のポップスターとなっており、次作の制作やワールド・ツアーを敢行していた。一方のマーキュリーもソロ活動とバンド活動を並行しており、マイケルと交友する時間は取れなかった。, クイーンは全世界の異なる国で、ナンバーワンのアルバムとナンバーワンのシングルをそれぞれ18枚、またトップテンのアルバムを26枚、トップテンのシングルを36枚、ナンバーワンのビデオを10枚保持している。, クイーンは中東や南米などの発展途上国でも著しい人気を誇っており、世界で最も海賊版が出回っているアーティストとされる。, クイーンはメンバー全員が作詞作曲能力に優れており、世界で唯一メンバー全員がチャート1位を獲得した作品を持っているロックバンドである。. ビートルズの歴史. ビートルズの曲の売上ランキング(Youtube動画付き)。The Beatlesの曲で最も売れたシングル(名曲)の一覧です。歴代のCDやダウンロードの販売枚数(セールス)に基づき、英BBCラジオが発表。名曲や人気曲、おすすめ曲のリスト ビートルズは曲の幅がはんぱないからなぁ。やっぱあの時代にあれだけの可能性を示せるってすごいわ クイーンも凄いがビートルズと並ぶバンドはいないでしょ ウィングス、クイーン、エルトンジョン、デヴィッドボウイ。 本物のロックスターが地上を闊歩し、手中に収めていた時代だった。 メロディーが王であり、王を讃える祝歌であり、アーティストは異質であることを恐れていなかった。 画像 :Amazon. 1.西洋近代音楽の成立 西洋における音楽は,ギリシア・ローマの古典時代から,自由人の教養として重視されてきた。中世においては,教会音楽や吟遊詩人(トゥルバドゥール/11~13世紀に,南仏のラングドックなどに出た吟遊詩人群。作詞・作曲して,たて琴にあわせて城から城へ巡遊して歌った。その詩は騎士的恋愛を賛美した叙情詩を本質とする。〈数研出版『世界史辞典【新制版】』〉)らの活動により発展したが,現代へつながる西洋の音楽は,基本的に15~16世紀に登場した,ルネサンス音楽 … それを記念してCSで ビートルズ関連の33番組を放送. ビートルズとクイーンどちらが人気でしたか? 時代が違うので比較にならないのでは。ただクイーン世代ですが、クイーンが当時でもNo.1バンドだった事って実際には無いので、60年代どころか時代を超えて今だに愛されているビートルズには全く敵わないでしょう。 発売日:1966年8月5日 収録アルバム:「リボルバー」 作詞:ジョン・レノン ビートルズ, サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドからホワイト・アルバムまで, "ファブ・フォー"と読む。FabはFabulousの略で、「素晴らしい4人」あるいは「いかした4人組」という意味を持ち、同名の, バンド活動期間である1962年10月の『ラヴ・ミー・ドゥ』から1970年3月の『レット・イット・ビー』まで。, ただし、「KAWADE夢ムック 文藝別冊『[総特集]ジョージ・ハリスン』」の年表には「ジョージが『出生届では2月25日だが実際は2月24日午後11時42分生だ』と述べている」との注釈がある。, ビデオ版のザ・ビートルズ・アンソロジーにはレノンがハーモニカを吹いている「ラヴ・ミー・ドゥ」の演奏の記録映像が収録されている。, レノンが作った曲の一部には、レノンが歌えない高いキーで歌う部分を、メンバーで一番高い声の出せるマッカートニーに歌わせている曲がある。, しかし、当初サトクリフは楽器演奏自体が未経験だったため、構造が簡単な曲から序々に覚えて行った。, 同年4月23、24日。レノンとマッカートニーの2人がユニット名「ナーク・ツインズ」としてマッカートニーのいとこ夫婦が経営するパブで演奏している。, この頃はドラマーが次から次へと入れ替わっていた。交代の度にやめていったドラマーが所有するドラムのパーツの一部が置き土産として手に入り、やがてフルセットに近いドラムセットが組みあがったため、ドラマーのいない時期はマッカートニーがドラムスを叩いたこともあった。, 初期のビートルズが出演していたリヴァプールのクラブ「ジャカランダ」のオーナー。リヴァプールのバンドのハンブルク巡業を手がける興行主でもあった。, 写真家。学生時代、ビートルズのハンブルク巡業中に友人となり、数々の写真を撮影。ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.58によれば、後にビートルカットと呼ばれる垂れた髪型の提案者であり, 元々はマッカートニーとリヴァプール・インスティチュートの同級生で、1学年下のハリスンとも友人だった。またベストの友人でもあり、ベスト家に間借りしていた。その縁で, ビートルズが出演していたキャバーン・クラブのドアマンとして働いていたが、アスピノール1人では仕事が大変なので2人目のロードマネージャーとして雇われ、アスピノール同様デビュー前から楽器のセッティングなどをはじめビートルズの身の回りの世話をしていた。ビートルズ解散後もレノン、ハリスンと関わっていたが1976年に死去。, 後にビートルズがデビューして人気を得ると、レコード会社は名義を「ザ・ビートルズ・ウィズ・トニー・シェリダン」に変えている。, ただし、ミュージック・ウィーク誌は最高位2位であったため、2000年にリリースされたチャート1位を獲得したシングル曲を集めた『, この1966年のツアーでもシェイ・スタジアムが使用された。8月29日のビートルズ最後のコンサートも, 『ザ・ビートルズ・アンソロジー』(日本語版)p.219のニール・アスピノールの発言。ただし、同p.220でハリスンは「20万人ぐらい居たのではないか」と発言している。, ちなみに、世界で最も大きな音量を出すバンドとして1973年にギネス・ブックに掲載された, 発売当時のアメリカにおいて、EP盤方式が廃れていたことにより、A面にサウンドトラック6曲を収録し、B面にシングルとして発売されていた5曲を収録したLP盤として発売。後のCD化ではこちらのLP盤が採用された。, 当初のタイトルは「ゲット・バック」だったが、4月のマッカートニー脱退で事実上解散したことを受け、アルバム『レット・イット・ビー』として発売された。, ハリスンは「メンバーが聴いた音楽は好悪の別なく全てビートルズの音楽に影響を与えている」と述べていて, ただし、2008年になってイスラエルは謝罪の意を公式に表明した。これを受けてマッカートニーは同年9月に同国での公演をおこなっている。詳細は, 庄司英樹は著書「ビートルズの復活」p.220で、このATVの買収を「乗っ取り」と称している。, 「25.キリスト発言」『All You Need Is THE BEATLES』斉藤早苗監修、宝島社、2017年1月19日。76-79頁。, ワーナー・ホーム・ビデオ「ヒストリー・オブ・ロックンロール」に収録された本人のコメントより。, ワーナー・ホーム・ビデオ『ヒストリー・オブ・ロックンロール』に収録されているキース・リチャーズの発言。, ワーナー・ホーム・ビデオ「ヒストリー・オブ・ロックンロール Vol.2」に収録された, ワーナー・ホーム・ビデオ「ヒストリー・オブ・ロックンロール」に収録されているデレク・テイラーの言葉。, 『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の発売50周年を記念したボックス, ザ・ビートルズ〜EIGHT DAYS A WEEK - The Touring Years, List of number-one albums from the 1950s (UK), イスラエル政府、ビートルズに1965年の公演中止を謝罪(AFP・2011年7月26日閲覧), https://www.rollingstone.com/music/music-lists/100-greatest-artists-147446/the-beatles-7-31247/, “The 100 most popular rock bands of all time”, https://www.businessinsider.com/the-100-most-popular-rock-bands-of-all-time-2018-9, https://www.bbc.com/news/business-19800654, リンゴ・スターが明かす、80歳でもエネルギッシュな理由とビートルズにまつわる思い出, John meets Paul for the first time - History.com This Day in History - 7/6/1957, https://rollingstonejapan.com/articles/detail/26495/, https://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-35058220081123, http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/6212271.stm, “「ザ・ビートルズ」が生まれ変わりました。―最新リマスターCDがチャートを席巻!―|ユニバーサル ミュージック合同会社のプレスリリース”, https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000030.000000664.html, https://www.phileweb.com/news/hobby/200911/10/238.html, https://www.oricon.co.jp/news/2059205/full/, “グラミーミュージアム公認! 米国外で世界初のビートルズ展覧会が日本で初開催! 2017年11月18日(土)〜18年1月28日(日)有楽町インフォス”, https://www.excite.co.jp/news/article/Narinari_20190201_53088/, “ポール・マッカートニーとリンゴ・スター、ザ・ビートルズの新ドキュメンタリー映画にコメント”, “リアム・ギャラガー企画のビートルズ映画、監督はマイケル・ウィンターボトムに決定!”, “映画『イエスタデイ』ダニー・ボイル監督が描く、誰もビートルズを知らない世界にきてみたら?”, https://web.archive.org/web/20140819032722/http://www.bloomberg.co.jp/news/123-LFI1H51A1I4H01.html, https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2011-03-01/LHCR120UQVI901, THE YELLOW MONKEY SUPER JAPAN TOUR 2016 -SAITAMA SUPER ARENA 2016.7.10-, SAKANAQUARIUM2017 10th ANNIVERSARY Arena Session 6.1ch Sound Around, LIVE ALBUM『感電の記憶』 2002.5.19 TOUR『NUM-HEAVYMETALLIC』日比谷野外大音楽堂, SONGS -40th Anniversary Ultimate Edition-, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ビートルズ&oldid=80666968, 本節はバンドの活動期間中に英国にて発売したオリジナル・アルバムおよびシングルのみ記載。. !ウェンブリー1986 - オン・ファイアー/クイーン1982 - 伝説の証/クイーン1981 - ハンガリアン・ラプソディ〜クイーン・ライヴ・イン・ブダペスト1986 -ライヴ・アット・ザ・レインボー‘74 - オデオン座の夜〜ハマースミス1975 - オン・エア〜BBCセッションズ, コンプリート・ワークス(英語版) - CDシングル・ボックス(英語版) - ボックス・オブ・トリックス(英語版) - アルティメット・クイーン(英語版) - クイーン・プラチナム・コレクション - シングル・コレクション Vol.1 - シングル・コレクション Vol.2 - シングル・コレクション Vol.3 - シングル・コレクション Vol.4, グレイテスト・フリックス - ライヴ・イン・ジャパン - レア・ライヴ - グレイテスト・ビデオ・ヒッツ1 - グレイテスト・ビデオ・ヒッツ2 - オン・ファイアー/クイーン1982 - ハンガリアン・ラプソディ〜クイーン・ライヴ・イン・ブダペスト1986 - オデオン座の夜〜ハマースミス1975 - グレイテスト・ヒッツ・イン・ジャパン, Queen I Tour - Queen II Tour - Sheer Heart Attack Tour - A Night at the Opera Tour - Summer Gigs 1976 - A Day at the Races Tour - News of the World Tour - Jazz Tour - Crazy Tour - The Game Tour - Hot Space Tour - The Works Tour - Magic Tour, 楽曲一覧 - フレディ・マーキュリー追悼コンサート - マーキュリー・フェニックス・トラスト - ウィ・ウィル・ロック・ユー (ミュージカル) - スマイル - クイーン+ポール・ロジャース - クイーン+アダム・ランバート - ボヘミアン・ラプソディ (映画) (サウンドトラック) - レッド・スペシャル - スパイク・エドニー(英語版) - ジム・ビーチ(英語版) - ジョン・リード(英語版), 私はHIVテストで陽性と診断され、AIDS患者であることが確認されました。しかし私の身の回りの人々のプライバシーを守るため、この事実を隠しておくことが適当だと考えておりました。しかし今、世界中の友人たちとファンの皆様に真実をお伝えする時が来ました。これからはこの恐ろしい病気に対して、私と私の医師団と世界中で私と同じように苦しんでいる人々と一緒に戦って下さい。, 僕の見方としては、僕はフレディの代わりを演じるつもりも、フレディの上を行くつもりも、フレディと競うつもりもまったくないし、そんなことはまるで考えてないんだ。フレディとバンドとで書いた音楽を歌って、それをステージに持っていっていいショーをやるように請われたってことはすごく光栄なことだと、そう思ってるんだ。でも、観てるみんなが比較することばかりに気を取られると、きっとライヴを楽しめなくなるとも思うよ。, フレディ・マーキュリー追悼コンサート#出演アーティストとクイーンをつなぐエピソード, Hungarian Rhapsody: Queen Live in Budapest, Bohemian Rhapsody: The Original Soundtrack, The Platinum Collection: Greatest Hits I, II & III, We Are the Champions: Final Live in Japan, en:List_of_best-selling_albums_in_the_United_Kingdom, 20 facts about Queen to quote at their Hydro gig, Queen + Adam Lambert to perform in Budapest, The 100 most popular rock bands of all time, Brian May Interview, The Music Biz (1992), “Hey, what's that sound: Homemade guitars”, https://www.theguardian.com/music/2010/aug/09/hey-sound-homemade-guitars, “The Greatest Songs Ever! ビートルズがどんな時代に活動していたかイメージがつかめただろうか。 長いのか短いのか、とにかくその10年間の間にアルバムを12枚リリースし、その過程で音楽性もかなり変化していった。 クイーン愛 再燃! ブライアン・メイ インタビュー. まずはビートルズのデビュー時の歴史を簡単にお話します。 ビートルズ がデビューシングル「ラヴ・ミー・ドゥ」を発売したのは1962年10月のことです。. 深夜にちょこっと観てみました それから. クイーン (英語: Queen) は、 イギリス ・ ロンドン 出身の ロックバンド 。 1970年代前半のハードロック・ブームの中でデビューし、その後スタイルを変化させながら世界中で成功を手にした。� クイーンの時代. 20世紀を代表する音楽グループである。. サブスクリプション時代のビートルズ名曲ガイド最新版。 「故郷や少年時代を想う歌」「デビューへの道程」「失恋ラブソング」「社会と人生へのメッセージ」「物語を紡ぐ曲」「衝撃的なイントロ」「爆音で聞きたい曲」「クラシック風味の曲」など33のプレイリストを提案。 Bohemian Rhapsody”, https://web.archive.org/web/20070202165358/http://blender.com/guide/articles.aspx?id=256, The History of Smile: The Band That Set the Stage for Queen, クイーンの前身バンド「スマイル」の中心メンバー、ティム・スタッフェルのインタビューを掲載, Freddie Mercury's pal Tim Staffell says 'Bohemian Rhapsody' was 'the right way to do it', Is This the Real Life? ビートルズが変わっていくのを肌にビンビンと感じた時代の始まりで、 それは初期の感動を超えて、音楽の力も超えて、世界の文化、社会、芸術をも変えていった 原動力となっていった気がする・・・ そんな素敵な日々だった。 ビートルズの時代 ビートルズは20世紀を代表するロック・バンドです。 ビートルズの存在は、ロック・バンドの領域を超え、文化であり、社会現象であり、歴史であったといえます。 クイーンが再び注目されたのをきっかけに、再沸騰する往年の洋楽ロック少女・少年たちのロック愛。ビートルズで幕を開けた日本の洋楽ロックは70~80年代の黄金時代を迎えました。 ビートルズ ( 英語: The Beatles )は、1960年代から1970年にかけて活動した イギリス ・ リヴァプール 出身の ロックバンド 。. クイーンを愛しすぎた男の慟哭 「天上に響いた歌声よ…」 完全保存版! QUEEN Perfect Discography. ぶっちゃけクイーンよりビートルズの方が凄くね? ビートルズ, QUEEN 1: 2019/06/11(火) 15:20:00.45 ID:vNCzQx0V0.net 意外と有名な曲多いし 2: 2019/06/11(火) 15:20:37.78 ID:zyxHapiU0.net そらそうよ 3: 2019/06/11(火) 15:20:44.95 ID:zlWMt193p.net ビートルズのベストアルバム、赤盤 (1962年〜1966年)と青盤 (1967年〜1970年)が発売されたことによって、66年までを前期、67年からを後期と区別されるのが一般的になった。 4.0 あの時代は洋楽全盛の時代で、クイーンは日本から売れ始めたバンドなのにそのことはカットされていたのが残念。 Push6700 さん 2020年2月8日 1: 湛然 ★ 2020/06/05(金) 18:15:44.14 ID:PfKUL1/s9 「ジョージ・ハリスンのビートルズ時代のベスト・ソングTOP10」を英Far Out誌が発表 ※詳細 Jack Whatley・June 1, 2020 Far Out Magazine George Harrison's 10 best songs with The Beatles https: フレディは僕らの心の中に常にいる. ポール・マッカートニーはアイハートラジオのポッドキャスト「インサイド・ザ・スタジオ」に出演して、ザ・ビートルズ時代のレコーディングについて振り返っている。 「スタジオでの作業はいつも面白かったよ」とポール・マッカートニーは語っている。 1970年代前半のハードロック・ブームの中でデビューし、その後スタイルを変化させながら世界中で成功を手にした。合計で3億枚〜4億枚の音楽作品を売り上げたとされ[2][3]、1970年代に結成されたロックバンドではAC/DCと並んで1位[4]。ウォール・ストリート・ジャーナルの「史上最も人気のある100のロックバンド」にて第3位[5]。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」にて第52位[6]。2001年にマイケル・ジャクソン、エアロスミスらと共にロックの殿堂入りを果たしている。, 1991年にリード・ボーカルのフレディ・マーキュリーが死去してからも、活動は断続的に続いている。2020年現在、ギターのブライアン・メイとドラマーのロジャー・テイラーの2人は、ボーカルにアダム・ランバートを迎えて「クイーン+アダム・ランバート」として活動している。, 全員がギター・キーボード(ピアノ・シンセサイザー・チェレスタも含む)を演奏できるため、この表に当てはまらない場合も多い。各メンバーのページを参照のこと。, クイーンは音楽的嗜好の異なるメンバー全員が作曲に参加するため、プログレッシブ・ロック、アート・ロック、グラムロック、アリーナ・ロックなどその作風は幅広い。しかしながら、多くの曲に共通して見られる特徴がある。, そのひとつとしてエレクトリック・ギターの音を多重録音することによって作られるギター・オーケストレーションが挙げられる。 これを生み出すブライアン・メイの手製ギター「レッド・スペシャル」は、机のオークや暖炉のマホガニーを素材にメイの父親と共に製作されたもので[7][8]、当時ではまだ珍しかった位相で音を変えるフェイズスイッチ、ローラーブリッジなどの斬新なアイデアが盛り込まれた。シンセサイザーを用いずにギター・オーケストレーションで重厚なサウンドを生み出していることを明示するため、初期の作品には「ノー・シンセサイザー」というクレジットがなされていた。, マーキュリー、メイ、テイラーの3人が声を何重にも重ねることによって作られるハーモニーも、『オペラ座の夜』や『華麗なるレース』などで見られるクイーンの音楽的特徴とされている。「ボヘミアン・ラプソディ」でのオペラ風コーラスの録音では、180回ものボーカルのオーバー・ダビングを行なったことがメイによって証言されている[9]。, クイーンの母体となったのは、ブライアン・メイとロジャー・テイラーが在籍していたバンド「スマイル」であった。1969年9月、スマイルがシングル『Earth』(B面は「Step On Me」)をリリース[10]。これはまったく成功せず、ボーカル兼ベースのティム・スタッフェルが脱退[11]。その後任として、加入したのがスタッフェルの同級生でバンドとも知り合いだったフレディ・マーキュリーであった[12]。, 1971年2月、入れ替わりを繰り返していた[13]ベーシストがオーディションでジョン・ディーコンに固定。クイーンの英公式サイトでは、4人が揃ったこの1971年を正式なバンド結成の年としている[14]。, 1973年7月13日、アルバム『戦慄の王女』で本国デビュー。先行シングルとして『炎のロックンロール』が1週間前の7月6日に封切られた。日本での発売は1974年。, 本作リリース当時、母国イギリスでは「ロックなのに曲構成が複雑で、サウンドに小細工が多い」「ディープ・パープルやレッド・ツェッペリン、イエス[注釈 3]の亜流」などとメディアから酷評され、「遅れてきたグラムロックバンド」と見られることもあった。また、彼らは本作制作から発売までに2年近くももたつき、レコード契約から1年以上待機させられたため「発売時にはあらゆる意味で、時代遅れになっていた」と後にマーキュリーが回想している。, 1974年3月、2作目のアルバム『クイーン II』を発表。イギリスのメディアの評価はいっこうに変わらなかったが、シングル曲「輝ける7つの海」のヒットもあり、アルバムは全英5位まで上がるヒット作になった[15]。このアルバムをきっかけに本格的なブレイクにつながるようになる。, 1974年、3作目のアルバム『シアー・ハート・アタック』を発表。先行シングル『キラー・クイーン』が全英2位[15]、全米8位のヒットとし[16]、後にマーキュリーは作曲者としてアイヴァー・ノヴェロ賞を受賞。また同年、ディープ・パープル、モット・ザ・フープルの前座として初の全米ツアーを行うが、メイが肝炎にかかってしまいツアーの途中でクイーンは降板を余儀なくされる。, 1975年2月、カンサス、スティクスらの前座として再び全米ツアーを開始する。ツアーは各地で大盛況を得て、『キラー・クイーン』は全米12位まで上昇する。しかしツアーの途中、今度はマーキュリーが喉を痛めてしまう。マーキュリーはしばらく安静状態を強いられたが、その後、回復してツアーを無事終了させる。, 同年4月17日に初来日。この頃、既に日本では若い女性を中心に人気を集めており、空港に約1200人のファンが押し寄せ、武道館ライブは成功を収めた[17]。, 10月、4作目のアルバム『オペラ座の夜』からの先行シングル『ボヘミアン・ラプソディ』が全英9週連続1位の大ヒットを記録[15]。当初「6分を超える長い曲などラジオで流してくれない」とレコード会社側は曲のカットを指示したが、マーキュリーとテイラーに意見を求められたラジオDJのケニー・エヴェレットはこの曲を気に入り、自身のラジオ番組で2日間で14回も流した。「ボヘミアン・ラプソディ」はチャリティーでない曲としてはイギリス史上最高の売り上げを記録し、マーキュリーは同曲の世界的ヒットにより2度目のアイヴァー・ノヴェロ賞を受賞する。その結果、『オペラ座の夜』は初の全英1位を獲得し、クイーンに批判的だったメディアからも非常に高い評価を得た[18]。, 1976年、軌道に乗ったクイーンはアメリカ、日本、オーストラリアなどで次々とツアーを敢行する。, 同年12月、5作目のアルバム『華麗なるレース』を発表。初めてのセルフ・プロデュースとなる本作はこれまで以上に分厚いサウンドになっているものの、基本的には『オペラ座の夜』の路線をさらに推し進めた作風となっている[19]。先行シングルとして発売され、全英2位、全米13位のヒットとなった「愛にすべてを」や「懐かしのラヴァー・ボーイ」のほかに、クイーン流ハードロックの名曲としてファンの間で名高い「タイ・ユア・マザー・ダウン」や歌詞の一部を日本語で歌った「手をとりあって」が収録され、アルバムはイギリスや日本で1位を獲得するヒット作となった。, 1977年10月、再びセルフ・プロデュースで臨んだ6作目のアルバム『世界に捧ぐ』を発表。パンク・ロックが流行しつつあった当時の音楽シーンの流れを汲んだ本作は、音楽的にはシンプルな方向へ向かい、トレードマークの一つであったコーラス・パートの全くない曲(「永遠の翼」など)も収録した。アルバムは日本とイギリスでは4位止まりだったが、「伝説のチャンピオン」や「ウィ・ウィル・ロック・ユー」がヒットしたアメリカではこれまでの最高位である3位を記録。またヨーロッパの中で唯一クイーンが苦手としていたフランスでは「ウィ・ウィル・ロック・ユー」が12週連続1位となり、13週目には「伝説のチャンピオン」が1位となった。, 1978年、ヨーロッパ9カ国でツアーを開催。6年目にして初のフランスでのコンサートも成功を収めた。, 同年11月、7作目のアルバム『ジャズ』を発表。再びプロデューサーにロイ・トーマス・ベイカーを迎え、バラエティに富んだサウンドと楽曲を展開している。「バイシクル・レース」のプロモーション用に制作された、全裸の女性が自転車レースをするというポスターとビデオは物議を醸した。「バイシクル・レース」の影響もあって本作の発売直後にはマスコミの批判に晒されたが、アルバムは全英2位、全米6位の大ヒットとなった[20]。, 同年、カナダを皮切りに北米ツアーを開催。マーキュリーはステージに上半身ヌード姿で自転車に乗って登場した。, 1979年、ヨーロッパツアーを開催。東西冷戦状態であったユーゴスラビアもツアーのプログラムに入っていたことで話題を呼んだ。また、マーキュリーがバレエ好きであったことから国立バレエ団の知的障害者への義援金チャリティ特別公演に出演、マーキュリー自身もバレエを踊った。カンボジア救済チャリティコンサートにも出演し、初日に単独コンサートを開いた。さらに、マーキュリー作の「愛という名の欲望」が全米1位と、アメリカをはじめ世界で好成績を収め、ライブ・アルバム『ライヴ・キラーズ』で1970年代を締めくくった。, 1980年6月、8作目のアルバム『ザ・ゲーム』を発表。全英・全米ともに1位を記録した。エルヴィス・プレスリーを思わせるロカビリー風のシングル『愛という名の欲望』がアメリカを中心に大ヒットした。またディーコン作の「地獄へ道づれ」は全米1位を記録し、アメリカでのクイーン最大のヒット曲となった。もともとマイケル・ジャクソンのために書かれたこの曲は、彼の前作『オフ・ザ・ウォール』を意識したソウルやファンクの曲となっており、アメリカのブラックミュージックのチャートでも上位にランクインしている。, また本作から、これまで頑なに使用を拒んできたシンセサイザーが導入された[21]。これは『ザ・ゲーム』制作途中で、同名映画のサウンドトラック『フラッシュ・ゴードン』の録音が挟まったことが大きな要因となっている。, 1981年、初の南米進出を果たす。最初のブエノスアイレスでのライブをはじめ、サンパウロではたった2日で観客動員数の記録を更新するなど各地で大成功を収めた。, 同年10月、南米でのツアーを終えたメンバーはデヴィッド・ボウイとの共作曲「アンダー・プレッシャー」を発表。イギリスやアルゼンチンで1位を獲得するなど世界的にヒットした[22]。なお、ボウイとはスイスでレコーディング中に親交を深めていたという。, さらに11月、初のベスト・アルバム『グレイテスト・ヒッツ』を発売。クイーンのキャリア前期を総括する本作は、現在イギリス史上最も売れたアルバムとなっている。, 1982年5月、10作目のアルバム『ホット・スペース』を発表。『地獄へ道づれ』の成功を受け、マーキュリーとディーコンを中心にファンク、ダンス・ミュージックの要素を徹底的に突き詰めた内容となった。しかしこの大きな方向転換はファンや評論家から強い反発を受け、従来の作品に比べて売上は振るわなかった。, 1984年、11作目のアルバム『ザ・ワークス』で復活を果たす。本作は作風の軌道修正を図り、ファンが待ち望んでいたような楽曲が集まった保守的ともいえる作品に仕上がった。この頃になるとアメリカや日本での人気は落ち着く一方で、テイラー作の「RADIO GA GA」が19ヵ国1位と大ヒットし、またディーコンの「ブレイク・フリー」が、南米などで「自由へのシンボルとしての曲」と位置づけられるなど、ヨーロッパ圏だけではなく南米やアフリカといった地域でも人気を集めるようになっていった。, 1985年1月、リオデジャネイロで第1回ロック・イン・リオを開催。2日間で観客動員数60万人という驚異的な記録をつくった。, しかしこの頃から、各メンバーがソロ活動に勤しんだこともあってメンバー間の距離が開きはじめ、次第に仲も険悪になっていく。, 1985年7月13日、20世紀最大のチャリティーコンサート「ライヴエイド」に出演。出演アーティスト中最多の6曲を披露し、そのパフォーマンスは観客を圧倒。あまりの質の高さにロンドン会場のヘッドライナーを務めたエルトン・ジョンが舞台裏で悔しさを顕にし地団駄を踏んだとされる。その後の反響は絶大で、世界各国でクイーンのアルバムがチャートを急上昇した。, この思わぬ反響を受けてクイーンは新曲のレコーディングを開始し、同年11月、シングル『ワン・ヴィジョン』を発表。メディアはこぞって「ライヴエイドの便乗商売だ」とこれを批判したが、イギリスではチャート7位にランクインした。「ライヴエイドへの出演がなければ、そのまま、本当に解散していたかもしれない」と、後にメンバーも振り返っている。, 1986年、12作目のアルバム『カインド・オブ・マジック』を発表。イギリスを中心に世界中で大ヒットを記録した。, 本作発表後には「マジック・ツアー」を行い、ヨーロッパ諸国の全26公演で200万人以上の観客を動員した。中でもウェンブリー・スタジアムで行われたコンサートは2日間で15万人の観客動員を記録し、8月9日にはイギリスのネブワースパークで観客30万人を記録。ツアーは大成功を収めた。しかし、マーキュリーの容態の悪化に伴い、クイーンの4人が揃ってツアーを行ったのは、これが最後となった。, 「マジック・ツアー」の成功以来、再びメンバーはソロ活動に専念しはじめた。この頃は、ライブ後のパーティーでレズビアン・ショーや、約10人のダンサーによるストリップ・ショーがしきりに行われ、フレディーの誕生パーティーでは、総額20万ポンド(当時約8千万円)が浪費されたという(書籍『フレディ・マーキュリー 華やかな孤独』より)。, 1989年5月、13作目のアルバム『ザ・ミラクル』を発表。先行シングル『アイ・ウォント・イット・オール』共々、本国イギリスやヨーロッパ各国で大ヒットを記録し、人気が健在であることを証明した。しかしツアーの開催については、マーキュリーはあっさり否定した。以前からマーキュリーには「エイズに感染しているのではないか」との噂が飛び交っていたが、当時本人はこれを否定し続けていた。実際にはマーキュリーがエイズに感染していることは1987年頃に判明したといわれているが、その真相は長年ベールに包まれていた。, 1991年初頭、14作目のアルバム『イニュエンドウ』を発表。音楽的にはやや原点回帰志向がみられ、ブリティッシュ・ロックバンドとしての自覚が垣間見える作品となった。全英1位を獲得した表題曲ではスティーヴ・ハウが客演し、間奏部分でフラメンコギターのソロを披露した。メンバー以外の音楽家がクイーンのスタジオ盤でギターを演奏したのはこれが最初で最後である。続く『ショウ・マスト・ゴー・オン』も全仏2位と大健闘した。しかし、この頃すでにマーキュリーの体は病魔に侵されていたという。また、アルバム『イニュエンドウ』に収録の「輝ける日々」は、マーキュリーの生前最後のミュージック・ビデオ出演になった。映像では、マーキュリーが見る影もなくやせ衰えていることがわかる。, 1991年11月23日、マーキュリーの自宅前で記者会見が行われ、スポークスマンを通じて以下の声明文を発表している。, そして翌24日、フレディ・マーキュリーはHIVによる免疫不全が原因となって引き起こされたニューモシスチス肺炎により、45歳という若さで死去した。亡くなった1991年は、奇しくもクイーン結成20年目だった。葬儀会場は世界中から駆けつけたファンの花束で埋め尽くされた。マーキュリーの死後、クイーンのアルバムが世界中でチャートインし、イギリスでは『ボヘミアン・ラプソディ』がイギリス史上初の同一曲2度目の1位という記録を打ち立てた。また、マーキュリーの遺言により初登場1位を獲得した作品の収益金はすべてエイズ基金に寄付された。, 1992年、バルセロナオリンピックの開会式でオペラ歌手のモンセラート・カバリェとマーキュリーがデュエットする予定だったが、マーキュリーの急死によりホセ・カレーラスが代役を務めた。, クイーンは正式に解散したことはなく、テイラーとメイがそれぞれソロ活動を行ったり、残されたメンバーでクイーン名義でたびたび活動を行っている。ソロ活動においては、メイは、クイーン時代の延長線上に当たる音楽を、一方、テイラーは、クイーンとは異なったアプローチで、それぞれ音楽活動を断続的に続けていた。ディーコンは、あまり目立った活動は行っておらず、後述するように音楽業界から完全に引退している。, マーキュリーの死の翌年4月20日に、マーキュリーの追悼コンサートが開催された。コンサートの開催は2月12日に発表され、出演者は未定であったにもかかわらずチケットは2時間で完売した。コンサートにはロバート・プラント、エルトン・ジョン、デヴィッド・ボウイ、メタリカといった大物アーティストが集結し、会場となったウェンブリー・スタジアムには7万人を超えるファンが集まった。世界でも生中継され、元祖クイーン大国・日本でも、NHKでクイーンの歴史を紹介するVTRと共にライブの様子が放送された。, フレディ・マーキュリーの死から4年後、マーキュリーが生前に残した録音を基にした実質的な最終アルバム『メイド・イン・ヘヴン』が発売された。「ヘヴン・フォー・エヴリワン」や「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」などの各メンバーのソロ曲のリメイク版と、「マザー・ラヴ」や「イッツ・ア・ビューティフル・デイ」などの新曲、合計11曲が収録されている。また、最後にはCDには記されていない22分間のボーナストラックが出現し、マーキュリーへの追悼または天国をイメージさせるような音声が収録されている。アルバムはアメリカではゴールド認定(50万枚)に留まったものの、イギリスで4xプラチナ(120万枚)、ドイツで3xプラチナ(150万枚)を獲得するなどヨーロッパを中心に大ヒットを記録し、全世界では累計約1,000万枚を売り上げた。, ジョン・ディーコンは、1997年の「ノー・ワン・バット・ユー」の発表を最後に、クイーンとしての活動には一切参加しなくなった。2004年にはテイラーが「ジョンは事実上引退している」と発言したほか、クイーンと付き合いの長い東郷かおる子が寄稿したクイーン+ポール・ロジャース日本公演(2005年)のパンフレットには「音楽業界から引退」と記載された。しかし、2002年の「エリザベス女王在位50周年式典」のロックコンサート以降も、メイとテイラーの二人は「クイーン」名義で出演しているため、最低この2人のメンバーが揃うと「クイーン」のバンド名が使えると解釈しうる。最近のインタビューによると、ディーコンは荒波の音楽業界を嫌い、家族と共に暮らしているとのこと。メイとテイラーがイベントに誘ってもディーコンは一切参加しようとしないが、「彼は今でもクイーンの一員だよ」と2人は述べている。, 2005年1月、残ったテイラーとメイは、元フリーやバッド・カンパニーのヴォーカリストであったポール・ロジャースと組んで「クイーン+ポール・ロジャース」として活動することを正式に決定した。2004年の英国音楽殿堂の授賞式での共演がきっかけであったという(メイは、それ以前にもロイヤル・アルバート・ホールでの公演など、数回ロジャースと共演している)。, フレディ・マーキュリーという超個性派ヴォーカリストの後任に、マーキュリーとは似ても似つかないロジャースが選出されたことには世界中から疑問の声が挙がった。しかしメイは「僕は誰かをフレディの代役に立てるという意見にはずっと反対だった。でもフレディの代わりを務めようなんてこれっぽっちも思っていない男に出会ったんだ。ポールは彼だけの色を持ったフレディには似ても似つかない男さ」と述べた。, 『愛にすべてを』をカヴァーしたジョージ・マイケルや、『伝説のチャンピオン』をカヴァーしたロビー・ウィリアムズの方がクイーンの新ヴォーカルに相応しいのではないかという意見もあった。実際、メンバーもウィリアムズをクイーンの新ヴォーカルとして迎え入れる話はしていたそうだが、「やはり違う気がする」ということでロジャースを選出したという。, 全欧ツアーのチケットは売り切れた。来日公演はさいたま、横浜、名古屋、福岡で行われ、10万人を動員するなど、各地で大成功を収めた。, 2006年、クイーン名義では24年ぶりとなる全米ツアーも成功させた。同年10月には「クイーン+ポール・ロジャース」としてスタジオ入りするとメイのホームページで宣言され、2008年にアルバム『ザ・コスモス・ロックス』を発表。それに伴うヨーロッパ・南米ツアーも行ったが、2009年、ロジャースは「クイーン+ポール・ロジャース」としての活動に終止符を打ちバッド・カンパニーの再始動に移行した[23]。, この時期クイーンとしての表立った活動はなかったが、ブライアン・メイとロジャー・テイラーの2人によってバンドは存続しており、日刊スポーツの取材に対してテイラーは「クイーンは永久に続ける」と誓っている[24]。この間メイは、イギリスの女性ミュージカル歌手ケリー・エリスとアルバムを制作したり、全英ツアーを行ったりと相変わらず積極的な音楽活動を続けている。, 2009年、メイとテイラーがアメリカのオーディション番組『アメリカン・アイドル』にゲスト出演。シーズン8の結果発表の前にふたりの演奏で、最終候補者のクリス・アレンとアダム・ランバートが「伝説のチャンピオン」を熱唱した。ブライアン・メイとロジャー・テイラーはアダム・ランバートのボーカルに惚れこみ、その場でクイーンへの参加を打診したと伝えられている。その件に関してその気があるのかとAP通信がランバートに聞いたところ「それは難しい質問だね。だって、正直クイーンにならないかっていう申し出をどう断ったらいいんだ?そんなの信じられないよ!でも、今、自分でやりたいこともあって、それが僕の目標でもあるんだ。だから、できることなら両方やってみたいね」と述べている。, さらに2011年、クイーンがMTVヨーロッパ・ミュージック・アワードでグローバル・アイコン賞を受賞。メイとテイラーはアダム・ランバートと再共演を果たし、「ショウ・マスト・ゴー・オン」「ウィ・ウィル・ロック・ユー」「伝説のチャンピオン」の3曲をメドレーで披露した。この3年後、アダムは正式にクイーンに加入し、2020年現在に至るまで活動を続けることになる。, 同年、クイーン結成40周年を記念して、全オリジナル作品をボブ・ラドウィックがリマスターして発売した。まだ3分の1ほどしか発売されていない7月の時点で、日本円にして56億7600万円以上もの売上を記録し、改めて未だ人気が衰えていないことを証明した。, さらに同年、メイは世界的なポップスターであるレディー・ガガの楽曲「ユー・アンド・アイ」にて、バックボーカルとリードギターを担当[25]。楽曲は彼女の第3盤『ボーン・ディス・ウェイ』に収録され、シングル・カットされて大ヒットを記録した。2011 MTV Video Music Awardsでは、男装したガガとメイがステージ上で本曲を披露し、ガガの受賞が発表された際には2人が抱擁する場面が映し出された。この共演をきっかけにガガの実力を確信したメイは、NMEのインタヴューでクイーンの新ヴォーカル候補として彼女の名前を挙げている。この提案には、熱烈なクイーンファンであるガガの方も乗り気なようで、近いうちにガガがクイーンのメンバーに加入する可能性が示唆された。, しかし唯一無二のヴォーカリスト、マーキュリーの存在は大きく、抜群の歌唱力を誇るポールが加入した時でさえファンから複雑な反応を受けたため、メイは「テレビの特番でいろんなアーティストをヴォーカルに迎えて演奏してみたい」と付け加えており、新ヴォーカリスト選びには慎重な姿勢を見せていた。一方、テイラーは2012年に一般応募から選考した若い才能のある歌手を迎えて、クイーンのトリビュートツアー Queen Extravaganza を北米で行った。, 2012年、新たなボーカルにアダム・ランバートを迎えて「クイーン+アダム・ランバート」としての活動を開始。最初にウクライナ、ロシア、ポーランド、イギリスの4都市で6公演を行った。, 2013年の活動は「iHeartRadio Music Festival 2013」への出演だけだったが、2014年には6月から7月にかけて24公演の北米ツアーを行い、8月には「SUMMER SONIC 2014」のヘッドライナーとして来日公演を行った。, 2019年、前年に公開された伝記映画の成功を受け、世界各国を巡って66公演を行う「THE RHAPSODY TOUR」を開始した。, アダム・ランバートをフロントマンに迎え活動を継続することに不満を持つファンについては、メンバーは「フレディ・マーキュリーも承認したと思う」とアダムの起用を擁護している[26]。, 2018年10月、フレディ・マーキュリーに焦点を当ててクイーンの軌跡を描いた音楽伝記映画『ボヘミアン・ラプソディ』が全世界で公開された。, 計画が持ち上がった2010年当初は、マーキュリー役にサシャ・バロン・コーエン、プロデューサーにグレアム・キング、脚本にピーター・モーガンの起用が予定されていたが、その後出演予定者や監督の降板が相次ぎ、本格的な製作の開始まで7年近くの歳月を要した。最終的にマーキュリー役はラミ・マレックに、テイラー役はベン・ハーディ、メイ役はグウィリム・リー、ディーコン役はジョセフ・マゼロに決定し、2017年よりブライアン・シンガー監督のもと製作が進められた。本人であるメイとテイラーも製作に加わり、主に音楽監督を務めた。, 批評家の評価は分かれたものの、商業的には全世界で9億USドル超の興行収入を記録する大ヒット作となった。第76回ゴールデン・グローブ賞ではドラマ部門作品賞と主演男優賞を、第91回アカデミー賞では主演男優賞、編集賞、録音賞、音響編集賞をそれぞれ受賞した。, 1975年4月、初来日。本国での当時の評判に反して日本での人気は凄まじく、空港にはファン1200人が集結しパンク状態になった(「第1次クイーンブーム」)。到着後、メンバーは会見を行い、芸子らから茶を提供されたり、ファンからもらったけん玉で遊んだりするなどして日本文化を満喫した。日本武道館公演では着物を着て演奏した。滞在中、ロジャーとブライアンが2人だけで東京タワーへ観光に行ったところ、多くの子供に「クイーン!クイーン!」とサインをせがまれながら囲まれ、その後結局ホテルで缶詰状態に遭ったという。, 1976年、アルバム『華麗なるレース』を発表。作品の最後にサビに日本語の歌詞を取り入れた楽曲「手をとりあって」が収められ、翌年に日本限定でシングル・カットされた。, 1977年、少女漫画雑誌『花とゆめ』10号に、バンド結成から来日公演までを描いた「キングスロードに赤いバラ」(みかみなち『上を下へのロックンロール』収録。白泉社)が掲載。, 2004年、フレディ作の「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」(クイーンバージョン)を主題歌にしたフジテレビのドラマ『プライド』が放映。ドラマの人気に合わせ、日本独自のベストアルバム『ジュエルズ』がオリコンチャート1位を獲得し、180万枚を売り上げる大ヒットを記録する「第2次クイーンブーム」が起こった。クイーンに馴染みのなかった若年層のファンが増えたことで、日本でのクイーン人気が大きく上昇し、同年の日本ゴールド・ディスク大賞海外部門を受賞した。これについてメイは「クイーンのベストアルバムが日本で売れていることを聞いてとても驚いています。クイーンが日本にとって外国アーティストの中では大きな存在だということは知っていましたが、日本の音楽史の中ではクイーンは小さい存在だと思っていました。けれども今回のヒットで日本の大物アーティストと肩を並べられてとてもうれしいです」と語っている。『SmaSTATION-3』では、ブライアン・メイ、ロジャー・テイラーのインタビューが行われた[28]。, 2018年11月、クイーンを描いた伝記映画『ボヘミアン・ラプソディ』が日本でも公開。2019年5月時点で日本国内の興行収入が130億円を突破する大ヒットとなり[29]、「第3次クイーンブーム」とも呼ばれる社会現象を巻き起こした[30]。映画のヒットによりクイーン作品は急激に売上を伸ばし、翌年にかけてリバイバル・ヒットを記録。第33回日本ゴールドディスク大賞では、クイーンとしては14年ぶり2度目となる「アーティスト・オブ・ザ・イヤー」(洋楽)の受賞を果たした。また、ビルボード・ジャパンが発表した2019年上半期チャートのアーティスト部門では、あいみょんや米津玄師に次いで3位を記録した[31]。, 2019年7月、プラネタリウム作品『QUEEN -HEAVEN-』がプラネタリア TOKYOにて上映[32]。, 同年8月、LINEの無料ゲームアプリ『LINE:ディズニー ツムツム』に、クイーンのメンバーが日本限定で登場[33]。1980年代の姿と思われるクイーンのメンバーがゲーム内に登場し、ゲーム内BGMとして「ウィ・ウィル・ロック・ユー」「伝説のチャンピオン」「RADIO GA GA」が流れる演出がなされた。8月の期間限定キャンペーンであったが、翌年1月、今度は1970年代のスタイルで再び登場。BGMとしては「ボヘミアン・ラプソディ」「地獄へ道づれ」が使われた。, 2020年1月15日、日本在住のファンによる投票で収録曲が決められたベスト・アルバム『グレイテスト・ヒッツ・イン・ジャパン』が発売された[34]。, また同日、クイーン関連の貴重な歴史的な展示品を公開する展覧会「クイーン展ジャパン」が開催。株式会社クイーン・プロダクションの協力・監修のもと、集英社が主催した。, クイーンのメンバーはツアー以外にも何度かプライベートで来日しており、日本文化に深い興味・関心を寄せている。美術学校で学んだ経験もあったマーキュリーは伊万里焼や九谷焼等を趣味で収集しており、それらの目利きもできたという。また、自宅の庭に日本庭園を造っていた[35]。新宿にはマーキュリーの行きつけのゲイバーがあり、度々通っていたと思われる[36]。メイは来日した際、日本の畳が気に入ったが、大きすぎて持ち帰れないことに非常に残念がっていたという。, 2011年にドキュメンタリー『輝ける日々』(原題:Queen - Days Of Our Lives)がBBCで放送された。, 2018年にマーキュリーを軸にクイーンの結成から1985年のライブエイドでのパフォーマンスまでを描いた伝記映画『ボヘミアン・ラプソディ』が公開された。, 1975年4月19日: 日本武道館4月22日: 愛知県体育館4月23日: 神戸国際会館4月25日: 福岡市九電記念体育館4月28日: 岡山県体育館4月29日: ヤマハつま恋 エキジビジョンホール4月30日: 横浜文化体育館5月1日: 日本武道館, 1976年3月22日: 日本武道館3月23日: 愛知県体育館3月24日: 姫路厚生年金会館3月26日: 福岡市九電記念体育館(2回公演)3月29日: 大阪厚生年金会館(2回公演)3月31日-4月1日: 日本武道館4月2日: 宮城県スポーツセンター5月1日: 日大講堂, 1979年4月13日-4月14日: 日本武道館4月19日-4月20日: フェスティバルホール4月21日: 金沢 記念館4月23日-4月25日: 日本武道館4月27日: 神戸市立中央体育館4月28日: 名古屋市国際展示場4月30日-5月1日: 福岡市九電記念体育館5月2日: 山口県立体育館5月5日-5月6日: 真駒内アイスアリーナ, 1981年2月12日-2月13日: 日本武道館2月16日-2月18日: 日本武道館, 1982年10月19日-10月20日: 福岡市九電記念体育館10月24日: 阪急西宮球場10月26日: 名古屋市国際展示場10月29日: 北海道立産業共進会場, 1985年5月8日-5月9日: 日本武道館5月10日-5月11日: 代々木オリンピックプール5月13日: 愛知県体育館5月15日: 大阪城ホール, 戦慄の王女 - クイーン II - シアー・ハート・アタック - オペラ座の夜 - 華麗なるレース - 世界に捧ぐ - ジャズ - ザ・ゲーム - フラッシュ・ゴードン - ホット・スペース - ザ・ワークス - カインド・オブ・マジック - ザ・ミラクル - イニュエンドウ - メイド・イン・ヘヴン, Queen's First EP - グレイテスト・ヒッツ - グレイテスト・ヒッツII - クイーン・ロックス - グレイテスト・ヒッツIII 〜フレディー・マーキュリーに捧ぐ〜 - クイーン・イン・ヴィジョン - ジュエルズ - ジュエルズII - 伝説のチャンピオン〜アブソリュート・グレイテスト - ディープ・セレクション 1973-1976 - ディープ・セレクション 1977-1982 - ディープ・セレクション 1984-1995 - アイコン - クイーン・フォーエヴァー - グレイテスト・ヒッツ・イン・ジャパン, ライヴ・キラーズ - ライヴ・マジック - アット・ザ・ビーブ - クイーン・ライヴ! : The Untold Story of Queen, https://www.musicvoice.jp/news/201902180114027/, Inductees – The Vocal Group Hall of Fame Foundation, http://brianmay.com/queen/queennews/queennewsmay09a.html#01, http://www.ladygagajapan.com/2011/04/19/lady-gaga-japan-6026, Michael Jackson Named Most Successful Entertainer Of All Time, 『ボヘミアン・ラプソディ』130億円突破!実写洋画の歴代9位に - シネマトゥデイ, 第3次ブーム到来!クイーン関連情報をまとめてチェック!|HMV&BOOKS online. ビートルズ、日本デビュー55周年. ビートルズ!!前回はビートルズ結成までの話を書きました。今回はビートルズ伝説第2章といえるドイツはハンブルグのお話です。ジョン・レノンは後に語っています。 "I didn't grow up … ポールマッカートニーによると ビートルズのドキュメンタリー映画 クイーン ヒストリー&ディスコグラフィー AmazonでのAERA in Rock クイーンの時代 (AERAムック)。アマゾンならポイント還元本が多数。作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。またAERA in Rock クイーンの時代 (AERAムック)もアマゾン配送商品なら通常配送無料。 第10位.「Tomorrow Never Knows(トゥモロー・ネヴァー・ノウズ)」 Tomorrow 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The Beatles(ザ・ビートルズ)は、1962年10月5日「ラヴ・ミー・ドゥ」で本国イギリスでデビュー。1963年1月11日のセカンド・シングル「プリーズ・プリーズ・ミー」がイギリスで大ヒットに。ここからザ・ビートルズの快進撃が始まる。以降、「フロム・ミー・トゥ・ユー」「シー・ラヴズ・ユー」「抱きしめたい」とイギリスでNO.1 ヒットを連発。デビュー・アルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」は1963年5月11日にヒ…
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