丸ノ内線に赤い電車が帰ってくる。東京メトロは10月11日に丸ノ内線新型車両2000系を報道公開し、2019年2月中旬から営業運転を開始すると発表した。 東京メトロ丸ノ内線の新型車両「2000系」が23日、デビューした。車両全体がシンボルカラーの赤い色に包まれ、先頭が丸い形をしているのが特徴。 All rights reserved. Impress Corporation. 昔懐かしい丸ノ内線の電車が復活。日本に“帰国”した500形電車の修繕が走行装置を除いて完了した Photo by Yoshikazu Kusamachi. 京都&竹田城跡雲海ツアーから帰って1週間後の12月10日の日記です. フィナーレ500記念号のヘッドマークを掲げて走った637号車も現役。1996年7月20日以来の乗車。あれから20年以上経過しても現役。J.M.Rosas駅にて。 2019年3月中旬にアルゼンチンのブエノスアイレス地下鉄B線で営団丸ノ内線500形の稼働編成を調査した。 ☆当選☆東京地下鉄に帰ってきた赤い丸ノ内線. 500形(がた) 池袋~新宿の開業に向けて1957年から輸送力増強の目的に合 計234両製造されました。1996年に引退するまで、丸ノ内線 の顔として活躍しました。 なお、500形は300形等を含めた合計131両をアルゼンチンの 安全安心、機械で実現. ことばの駅情報(丸ノ内線) 視覚障がいの方向けに、丸ノ内線の路線情報や駅の設備情報を言葉で説明しています。 東京メトロご利用ガイド. 内部にはお宝が. 7月18日:分岐線において500形車両の営業運転を終了。丸ノ内線から旧形車が全廃された。7月20日にはさよなら運転が行われた。これにより、線内の冷房化100%達成 。 1998年(平成10年) 2月27日:全線で新CS-ATC化を実施 。本線の最高速度を 65 km/h から 75 km/h に向上。 300形 (400・500形含む) 東京の地下鉄丸ノ内線を引退後、アルゼンチンの地下鉄で活躍していた「営団500形電車」が20年ぶりに日本に戻ってきました。. と言うのも、丸ノ内線を象徴する 赤ボディ を 30年ぶりに復活 させただけでなく、代名詞でもある . 本項では同線に在籍した営団300形電車、営団400形電車、営団900形電車についても記述する。 All rights reserved. 風雨にさらされ、長旅に耐えた、その驚きの姿を公開してもらいました。. 写真を拡大 . サンウエーブ . この度、日本に里帰りした営団丸ノ内線500形752号の日本現役当時の中野富士見町入線&発車シーンです。1996年7月7日撮影。 メトロの安全・安心への取り組み; 路線情報を見る. 東京メトロ(東京地下鉄)は11月27日、中野車両基地において復元した丸ノ内線500形を報道陣に公開した。丸ノ内線は1954年(昭和29年)1月に池袋~御茶ノ水間が開業し、500形の前身となる300形が登場。その後、新宿駅の開業に備えて300形の改良型として1957年(昭和32年)に500形が登場した。 丸ノ内線「500形」の赤い車両が復活MarunouchiLine"500Type"RedVehicleRevives東京メトロ丸ノ内線で40年近く使われた後、アルゼンチンに渡って地下鉄として活躍した赤い車両が復活した。27日に報道陣に公開されたのは、1957年から丸ノ内線を走っていた「500形」の車両で、真っ赤な車体に銀色の波 … 昔懐かしい丸ノ内線の電車が復活。日本に“帰国”した500形電車の修繕が走行装置を除いて完了した PhotobyYoshikazuKusamachi nゲージ、1/150 営団地下鉄500形 丸ノ内線の赤い電車 (基本・3両セット) (鉄道模型) kato(カトー) 10-1134 鉄道模型 nを通販で販売しています。 こんにちは . 1991年の東京です。営団丸ノ内線、現役500形も登場。四谷駅 → 銀座線日本橋駅 → 東西線のホームもウロウロする様子です。 東京メトロでは大がかりな修復プロジェクトが動き出しています。. 昔懐かしい丸ノ内線の電車が復活。日本に“帰国”した500形電車の修繕が走行装置を除いて完了した Photo by Yoshikazu Kusamachi 右から、東京地下鉄株式会社 車両部 中野車両管理所 所長 杉山勝氏、東京地下鉄株式会社 車両本部 車両部長 清水邦人氏、東京地下鉄株式会社 常務取締役 留岡正男氏、メトロ車両株式会社 代表取締役社長 東濱忠良氏、手塚車輌工業株式会社 代表取締役社長 手塚清憲氏、東京地下鉄株式会社 車両部 中野車両管理所 技術課長 増澤富士雄氏, 吊手はリコ式で、荷棚は戸袋のみ設置されている。製造は1958年(昭和33年)で、廃車は1996年(平成8年)。車体製造メーカーは日本車両, 吊手は丸型で、荷棚は座席シート上部に設置されている。側引戸は小窓で、路線図にはまだ「西新宿」がない。製造は1961年(昭和36年)で、廃車は1996年(平成8年)。車体製造メーカーは日本車両, 吊手は丸型だがアルゼンチン仕様。車内には現地で使われていたスペイン語の路線図や中づり広告が残されている。製造は1962年(昭和37年)で、廃車は1996年(平成8年)。車体製造メーカーは川崎車輌, アルゼンチン仕様である3両目から写したもの。行き先が日本語でないだけでまったくの別物に見えてくるから不思議だ. を車体に施しているから。(これは嬉しい!) 子供の頃、 初代車両 として活躍していた . いろいろあった500形復活への苦労 いつか再び丸ノ内線のホームへ ただ、500形の里帰りと復元にあたっては、苦労も少なくなかったといいます。 税関 手続きなどで、アルゼンチンの港にしばらく留置さ … 300・500形のイメージを受け継ぐ“サインウェーブ”を復活させた側面帯など、丸ノ内線ならではの特徴的なデザインを再現。 「Tokyo Metro」のロゴと、サインウェーブをイメージしたデザインの前面帯も … 営団500形電車(えいだん500がたでんしゃ)は、1957年(昭和32年)から1996年(平成8年)まで帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄(東京メトロ))丸ノ内線に在籍していた通勤形電車。, 本項では同線に在籍した営団300形電車、営団400形電車、営団900形電車についても記述する。, 1954年(昭和29年)の丸ノ内線池袋 - 御茶ノ水間開業に際して1953年(昭和28年)に落成した両運転台構造車。車両長18mの車体に片側3つの両開き式の客用扉を持ち、ドア間に5枚(内戸袋窓2枚)、車端部に2枚(内戸袋窓1枚)の天地が大きめ(開閉窓で1m)の窓が配される。幅は2,800mmで、銀座線の16m級、2,600mmと比べ一回り大きくなっている。, 開発にあたっては、外観デザイン[注 1]や細部の意匠、スポッティング機構を備え加速時の衝動の少ないシーケンスドラム(順路開閉器)によるABS単位スイッチ式多段制御器、低電圧高定格回転数仕様で軽量のモーターと軌道破壊の少ないWNドライブを組み合わせた駆動システム、ブレーキハンドルの回転角に応じたブレーキ力が得られるセルフラップ式ブレーキ操作弁の採用で操作を容易化し、さらに締切電磁弁(Lock Out Valve:LOV)などの補助機構を併用することで電気制動との同期・連係動作をスムーズに実現可能とするSMEE電磁直通ブレーキシステムなど、主要機器の原型をアメリカ・ニューヨーク市地下鉄に求めた。, ニューヨーク市地下鉄では両開き扉などの当時日本では珍しかった装備を持つBMT STANDARDと称する一群を、1914年以降これを進化させた市営合併後の標準車R1-R9の各形式を1930年以降に量産していた。これらは長大な編成での運転に対応するためにUブレーキを採用するなど先進的な機構を備え、さらに1948年製のR12形以降はウエスティングハウス・エレクトリック社 (WH) 開発によるWNドライブ、ABS制御器、それにSMEEブレーキを備えた前世代とは一線を画する高性能車となった。このグループはその後、特にIRTと呼ばれる規格の小さい区間における保有車の大半を占める程の大量生産が行われ、後年ブレーキ名に由来するSMEEという名称が同市高性能車の代名詞となっていた。一般には1970年代のスプレー画によって車体全体を覆いつくすグラフィティ(落書き)や、末期の赤茶色塗装から名付けられた“Red Bird”の愛称で知られるグループである[2]。, 300形は、これら戦前から戦後にかけてニューヨーク市で設計された各形式の利点を総合的に取捨選択の上で取り入れ、車体デザインは複数形式を参考に、あらゆる角度から日本的に馴染むよう適宜アレンジを加え、一方電機品やブレーキなどは基本的にWH社の高性能車システムを、三菱電機[注 2]にライセンス契約を結ばせた上で製造させて採用する方針となった。, そこで営団では、ライセンス契約の締結後、1953年にWH社から本方式の電機品一式をサンプルとして1セット輸入した。第二次世界大戦の期間を挟んで文献資料を通じていくばくかのアメリカ電気鉄道技術の情報は日本側に伝わっていたが、輸入され梱包を解かれたそれらの機器類を初めて実見した際、日本の技術者達はどの機器が何のために使われるものなのかさえ見当がつかないほど隔絶した、それらの機器のあまりに先進的な機構に大きな衝撃を受けた[注 3]という。, だが、衝撃から立ち直った技術者たちはWH社側との質疑応答とそれらサンプルの徹底的な分析を通じて、新しい機構に対する理解を進めた。そして1953年中にはWH社純正のサンプル品と同等の動作を期待できる機器の試作品が完成した。そこで営団は1400形2両を新造してそれらのデッドコピー品を取り付け、銀座線で試験運転を開始した。, この試験は初期トラブルはあったもののおおむね成功を収め、本形式の実用化に大きく寄与した。なお、試験終了後、試作機器を取り外された1400形は営業運転に投入するにあたり銀座線他形式と同様の吊り掛け式駆動・ABF制御・M三動弁によるM自動空気ブレーキによる在来方式の機器を新製の上で搭載[注 4]しており、外された主要機器は後に本形式の309・310に転用された。, 以上のような経緯で、本形式の電装品はすべて三菱電機で製造された。全形式併結可能な同一性能が求められたことから、以後900形に至るまで電装品は同じものを踏襲している。登場当時は京阪電気鉄道1800形、東武鉄道モハ5720形、東京都交通局(都電)5500形、大阪市電3000形に続く日本で5番目のカルダン駆動車であった。走行性能は起動加速度3.2km/h/s、常用減速度4.0km/h/s、営業最高速度65km/hとされている。運転台のマスコンハンドルは跳ね上げデッドマン式で、これは以後東西線用の5000系まで受け継がれている。, 主電動機は三菱電機MB-1447-A/B/C(出力75kW、1時間定格回転数1,200rpm、端子電圧300V、電流280A、最弱め界磁率50%、質量800kg、最高許容回転数4,000rpm、最大許容過電圧750V)であり、連続定格回転数は1,250rpm(端子電圧300V、電流250A時)である。設計当時の日本の高速電気鉄道において一般的な吊り掛け式電動機では、1時間定格回転数が800 - 1000rpmが主流であり、また丸ノ内線と同じ第三軌条方式600V電圧の銀座線の既存車(1両2個モーター車)は端子電圧が給電レールと同じ600Vだった。本形式設計に当たり輸入されたWH社による無装架駆動を前提とした低電圧高速回転仕様の電動機は、その軽量さや整流子部の設計、電動機を発電機としてブレーキ力に変換する発電ブレーキへの最適化、それに誘導分路方式により50%の弱め界磁率を可能とする機構などを含め、三菱電機のみならず当時の日本の電鉄技術者たちに大きな衝撃を与えた。, なお、駆動装置は前述の通りWNドライブで、高速回転仕様の電動機で低い定格速度(高加速度)を実現するため、歯車比は123:17 (7.235) と吊り掛け駆動車と比較してかなり大きく設定されている。, 主制御器の制御段数は力行が直列8段、並列5段、弱め界磁5段、発電制動が18段で、乗客数に応じて加減速性能を自動調整する応荷重装置(可変荷重機構)とスポッティング機構を備える。本形式以後に日本の各社が開発した高性能車と比較した場合、一見制御段数が少なく思えるが、定格速度が26km/hと非常に低いため、これでも加減速は滑らかであった。, 銀座線在来車と異なりフライホイールの付いた補助電源装置を搭載、セクションでの瞬間停電はなくなった。ただし車内の非常灯は点灯する。, 車体は不燃化のため全金属製とされ、全体的に丸みが持たせられた。市営化前のものを除けば無骨な折り妻ばかりで、鋼製車は最後まで一部リベット組み立ての残ったニューヨーク市に比べ、前面の意匠を始め、車体の造作はより繊細な仕上がりといえる。 当然リベットなどなく全溶接組み立てである。前面は窓3枚で、中央に貫通扉[注 5]があるという、当時としてはオーソドックスな形状であった。しかし、前照灯と尾灯をセットにして窓下に2セット設置した点、中央上部に設けられた行先表示器の両側に方向標識灯を備える点、下部にアンチクライマーが取り付けられた点は外観上の大きな特徴である。方向標識灯は行き先(方面)を示すもので、御茶ノ水行きは緑茶をイメージした黄緑色に、池袋行きは池の水をイメージした水色に点灯するユニークなものであった。その後の路線延長で意味をなさなくなったため、早々に点灯は廃止されている。また、本形式では換気・送風装置としてファンデリアが採用された。これに伴い通常の屋根の上にこの機能を格納する薄い風洞部が別途載せられた二重屋根構造となっている。400形以降では通常の屋根に風洞が内蔵されるようになって形状が大きく変化したため、この二重屋根は外観上、本形式を識別するポイントとなっている。, 塗装は、時の営団総裁が日本国外視察の際に入手した米国のタバコ“ベンソン&ヘッジス”[注 6]の箱デザインと、ロンドンバスの赤をモチーフにして[要出典]、赤地に白帯塗装、さらに白帯にステンレスのサインカーブ状の曲線を配していた。当時の鉄道車両は地味な塗装が多かっただけあって、斬新なものとして注目された。, 車体や電機品の原型はニューヨークに求めたが、台車はニューヨークとは共通性がなく、この当時の新型台車のひとつである住友金属工業FS301[注 7]が採用された。, 当初は単行 - 3両編成程度で使用されたが、6両化される頃には中間に連結され、先頭に出ることはなくなった。そのため、行先表示器が埋め込まれたり、前面貫通扉が撤去されたりした車両も存在した。また、後年になって軸重過大などの理由から台車が住友金属工業FS349[注 8]に換装され、さらに後年の更新時にリコ式吊り手が普通のつり革に、戸袋部分しかなかった荷棚が側窓全体上に、側面客用ドアが窓ガラス面積の小さいものに、簡易型貫通板から通常の貫通幌にそれぞれ交換された。, 301 - 330の合計30両が在籍したが、後継の02系の登場・増備に伴い、本線からは1995年(平成7年)2月28日に営業運転を終了した。また、分岐線(通称・方南町支線)からも1996年(平成8年)7月に唯一残存していた中間改造車304号車をもって営業運転を終了し、形式消滅となった。, 廃車後、301号が営団に、319号が民間(千葉県のゴルフ場)に売却され、2019年現在では301のみ静態保存されている。301号は台車を原型であるFS301に戻され、一度中野工場で保存、公道から見える位置に展示された後、2002年11月21日に地下鉄博物館に陸送[3]、2003年6月のリニューアルオープン時から1000形1001号車と並べて展示されている。ただし、1001号車のような原型復元は行われず、床下機器塗色は黒に戻されたが、客用ドアはステンレス製小窓(ただし室内壁面と同一色が塗装されている)で、前面は幌枠付き、つり革はリコ式ではなく現行のものであるなど、最末期の形態のままとなっている。, 前述の通り、中間車専用として使用されるようになっていたため、定員数の増加を狙い、1982年に状態が良い12両が完全な中間車に改造された。改造内容は運転台の撤去、乗務員室扉および前面器具の撤去・整備(撤去後に座席設置)、戸袋窓の埋め込み、内装のリニューアル、屋根整備などで、400形消滅後も運用を続けた。車両番号は以下の通り。, 1956年(昭和31年)に300形の増備車として登場した。製造メーカーは300形の4社に東急車輛製造が加わった。換気ダクトをモニタ(二重)屋根方式からシングルルーフ構造の屋根肩部への設置に変更したため、外観が異なっている。38両が製造されたが、車両番号は431 - 468と当時の銀座線車両での慣例を丸ノ内線でも適用し、下2桁が300形の続番とされている。, 本形式は300形と比べて大幅な軽量化が図られ(自重40t→35t)、台車はフランス・アルストム系の設計をベースにした住友金属工業製リンク式FS309、川崎車輛製軸梁式のOK-16、スイス・シュリーレン系の近畿車輛製円筒案内式KD21と多彩であった。とりわけ、FS309に用いられたアルストム系のリンク式軸箱支持装置を持つ台車は、その後丸ノ内線のみならず、銀座線、日比谷線用としても多く製造され、長く使用された。ただし、同系のアルストム台車を大量導入した小田急電鉄や名古屋鉄道などで採用されたものは軸バネがコイルバネ1本で軸箱直上に位置しているのに対し、営団のものはコイルバネ2本で、軸箱から張り出した先に取り付けられている。台車枠の天地寸法抑制のためと思われる。, なお、輸入されたWH社製電装品は444に転用されたが、後年国産品に交換され、制御器や主電動機など一部は中野の研修所にて教材用として活用された。, その後の経緯は300形に準じるが、中間改造車は1両もなく1991年までに全車が廃車された。, また、437・440・444・451・454・456・459・461・464の9両を民間へ売却した。444・451・456・459は後に解体されており、2020年現在で西武池袋線仏子駅付近の幼稚園にある440、千葉県いすみ市の「ポッポの丘」にある454が現存する。437・461・464は個人に売却されたが消息は不明である。, 1957年(昭和32年)に400形の増備車として登場した。本形式では400形の5社に日立製作所[注 9]と帝國車輛工業が製造に加わった。すでに単行運転に対応させる必要がなくなっていたため、それまでの両運転台構造をやめて片運転台構造となり、運転台がない側は切妻構造とされ、側面は乗務員扉に代わって2段窓が2枚並ぶ。登場時は、貫通扉は非常用通路とされ、渡り板と簡易な保護装置があるだけで貫通幌はなかったが、後年には貫通幌が整備されている。, 奇数車が荻窪向き、偶数車が池袋向きとされ、両者は機器の装備位置が左右対称である。車両番号はやはり下2桁が400形の続番になっているため、第1号車は569号であった。1964年(昭和39年)までの7年間にわたって増備され、車両番号は最終的に802番に達したが、通常は区別なく500形と呼ばれる。, 増備期間が長かったため、途中で各部に変更が見られる。特に645号以降は行先表示器左右の標識灯がなくなり、印象が変わった。, 当初から569-570のように奇数車と数字が1大きい偶数車で電動車ユニットを組んでおり、6両固定編成化後は基本的に500形ユニットを3本または500形ユニットの間に300形・400形・900形のいずれかの形式を挟んだものを2本組成して運用された。ただし801-802のユニットは予備車として扱われ、車庫内に留置されていることも多かった。以下は例外的な編成の一例である。, その後、先頭に出る車両は運転台の機器増加や更新に伴い、乗務員室助士席部の折り畳み機構が廃止されるとともに室内色が淡緑色へ変更され、前面窓はHゴム支持化された。中間に入った車両では貫通幌の取り付けと運転台撤去が施工されたが、300形と違い撤去部への座席設置はされず、未施工車も存在した。, ちなみに、先頭車は主に600番台以降の車両のみとされ、500番台車は大半が中間に連結された。801ユニットは前面に幌を取り付け、編成の任意の位置に組成できるようになっていた。, 更新工事の際に側面はアルミサッシ化され、一部の先頭車では左前面窓もサッシ窓に改造された。ただ802号では右側は原形のままであったなど、窓の形態はまちまちであった。, 末期になると、営業運転を離脱していく300形未更新車から500形初期車までの欠車を補うため、後期形車両の間で盛んに編成替えが行われ、上に示した法則も崩れた。一例として、最後まで残り、1995年2月の池袋 - 荻窪間のさよなら運転に使用された編成を以下に示す[注 10]。, 廃車後、民間に664号が売却され、東京から遠く離れた宮崎県日向市駅付近で静態保存されている。また、これとは別に652号と685号が1992年(平成4年)に営団50周年記念事業として無償で寄贈された。652号は八王子市こども科学館、685号は東京交通短期大学に静態保存されている。, なお、映画『007は二度死ぬ』において、特別移動車両として500形が登場している。, 1965年(昭和40年)に登場した形式。この頃になるともはや単行や2両編成はなく運転台付き車両は十分に数が足りていたため、輸送力重視の中間車となった。また500形が増備を重ね802号まで達していたため、車両番号の複雑化を避けるために第1号車が901号となった。, 第1陣は、1965年に編成の6両化を進行させるために、6両が製造された。一部の機器類を車端部の箱の中に納めた以外は、500形に準じていた。後年の車体更新に際し、900形の第2陣にできる限り合わせるよう(500形の更新とは異なる)にされ、室内の番号表記が表面にアクリルを被せたプレートとなった。, 第2陣は、1969年(昭和44年)に運転間隔の短縮のために907 - 918の12両が製造された。これが最後の「赤い電車」である。製造当初からアルミニウム合金製の小窓型側面ドア、アルミサッシ窓(ただし車外側は塗装。同時期の銀座線1500N形と同様)、内壁材にアルミデコラ化粧板、通常形のつり革、金属製荷棚などを装備し、これは後に他車にも普及していった。また内装も一部変更されており、室内の番号表記もプレート式となった[注 11]。後年の車体更新で、化粧板の交換、無塗装のアルミサッシとなった。, 900形は1994年に全廃されたが、廃車後大半の車両はメトロビアス社に売却された。詳細は#地球の裏側で第二の活躍を参照。, これらの車両が出揃ったところで、500形の先頭使用車には1973年(昭和48年)から乗務員室の整備、車内内装のサーモンピンク色塗装鋼板から、ピンク色系ながら塗装時代より赤味が抑えられたデコラ化粧板への交換と、行先表示器の電動化、前面窓のHゴム支持化、ワイパーの電動化、側窓のアルミサッシ化、客用扉のステンレス製小窓化といった更新工事が行われた。また、電動発電機 (MG) の交換[注 12]もこの頃から実施された。この工事は中野工場と中野工場小石川分場(現・小石川CR)で施工された。, 1985年(昭和60年)頃になると銀座線用の新車01系の影響から化粧板の色を白色系化、床の色が大理石調グリーンベース化される。また、換気ルーバーも鉄製からFRP製へと交換している[注 13]。, 1988年(昭和63年)、丸ノ内線に918号車以来久々[注 14]の新系列電車である02系の投入が開始されると、未更新の300形・400形を中心に廃車が発生し、先頭に連結されていた500形が他編成の中間に組み込まれ、編成間の車両移動も行われたため更新工事は取り止めとなった。, この頃から当時の日本国有鉄道(国鉄)の車両で見られる号車番号表記シール(荻窪・中野富士見町方の先頭車が1号車)が貼付されるようになり、2・4号車または3・5号車の位置に連結されていた300形・400形の置き換えで初期・中期更新車が組み込まれることが多くなった。このため、荻窪・池袋方の先頭車両には基本的に中・後期更新車が充当されるようになると初期更新車は編成の中間に組成された。また、検査予備車だった801-802号車もやがて編成の中間に連結されることが多くなっていった。ただしこの2両はその後も先頭運用可能なように整備されており、前面運転台側鋼製サッシで車掌側2段窓、手動ワイパーで折りたたみ可能な乗務員室仕切り、かつ802号車には貫通幌が設置されるという中間封じ込め車に準ずる体裁でありながら、時折編成先頭に立って運用された。, 1993年(平成5年)、方南町支線で運用されていた2000形が離脱したため、代替として500形や中間車改造された300形などが3両編成となって、方南町支線へ移動した。, 1995年(平成7年)2月に本線口の運用が終了すると、廃車されたグループは先にアルゼンチン・ブエノスアイレスへ渡った。残った車両は3両へ減車されて方南町支線へと移動するが、翌1996年(平成8年)7月に02系80番台へ交代して全車廃車となった。これにより、丸ノ内線車両の冷房化が完了している。, 以下に1993年(平成5年)7月から1996年(平成8年)7月まで方南町支線で運用した、本グループ最後の6編成18両の編成陣容を記す。, 1995年(平成7年)夏に池袋駅構内の分岐器交換工事のために新大塚 - 茗荷谷間で単線運転を実施したが、現用の02系では固定編成のため短編成には出来ないことからここでも500形を使用し、83編成のうち719を抜いた2両編成で運用された[注 15]。この際、行先表示器やステッカーは手作りの「新大塚 - 茗荷谷」と表記された。, 当時の営団では原則としてドア上部の天井隅に路線図を掲出していた。しかし丸ノ内線は車内広告の需要が多いために、1983年頃から客用ドアの上部にアクリル板の路線図を設置した。ただし300形は構造上広告枠を配置することが不可能で、従来通り天井隅に紙の広告を用いていた。, 1996年5月28日に西新宿駅が開業したが、この時500形はすでに本線から撤退、分岐線で残っていた車両も同年7月で運用終了することもあり、路線図を交換しないまま、新宿と中野坂上の間に西新宿のステッカーを貼付して対応した。, 前述の通り、計14両の車両が日本国内で静態保存されている。状態は様々で、中には腐食が相当進行している車両もある。, 最初に売却された6両は、サンプルとして454号車を三越日本橋本店入口前に持ち込み展示販売された。乗用車の販売さながらの手法は世間の注目を集め、マスコミにも「デパートで地下鉄電車を販売、価格は40万円」などの見出しで大きく取り上げられた。その後454号車は日出幼稚園が購入したが、幼稚園改築工事のため2012年8月に千葉県いすみ市のいすみポッポの丘へ移動された。, この時期はバブル期であったこともあるが、当時三越で一番大きい商品であったため、購入希望者が殺到し、抽選となった。実はこの時は廃車になった6両×4本の24両全車が売却候補に挙がっていたが、売れる見込みがないとして売却予定を6両に留め、残りの18両は早々と解体しており、実際の購入希望者の多さに営団の担当者が解体してしまったことを後悔したというエピソードも残されている。販売価格は1両40万円、車体のみ25万円で、鉄道車両としては破格の安さであった。ちなみに、本形式の新造価格はこの当時の価格に換算して1億円近いと言われる。, ブエノスアイレス地下鉄B線で運用されているもと営団500形電車(2002年8月12日), 塗装変更後の同車特徴の正弦波のステンレス板は塗りつぶされた(2013年1月10日), 黄色塗装と最新塗装の過渡期の塗装運転台を撤去した跡が見られる(2013年8月19日), ブエノスアイレス地下鉄にて修繕され、座席モケットが変更された車両の車内(2018年2月11日), 最後まで残っていた131両はアルゼンチン・ブエノスアイレスのメトロビアス社に売却され、ブエノスアイレス地下鉄のB線で使用されている[注 16]。同線の規格より車体幅が狭いため、車体全長にわたるステップが設置されていること、台車心皿などが嵩上げされているなどの他は営団時代の形態のまま使用されているが、これは現地の地下鉄では唯一の第三軌条路線であるB線の規格が丸ノ内線と似通っていたことが大きい。譲渡にあたり、営団のスタッフがメトロビアス社員に整備・運転の教育を徹底、とりわけ故障発生後の事後保守に頼っていたものを定期的な検査で故障の芽を事前に摘む予防保守へと転換を行い、以後故障発生率が著しく下がったという。, また、斬新な塗装は現地でも好評なようで、他の車両が標準色とも言える黄ベースの塗装である中、本形式はしばらくの間塗装変更されずに、B線のラインカラーの方を赤色に変更することで対応していた[注 17]。しかし、2011年頃より本形式の一部で順次黄色ベースのメトロビアス社の標準色に塗り替えられた車両も見られるようになった(画像参照)[注 18]。なお正弦波のステンレス板は取り付けられたまま灰色もしくは黄色の塗料で塗りつぶされた。, 車両の内訳は以下の通りである。2015年頃からは老朽化による故障多発を理由に、路線延長の際の車両不足を補うために導入していたマドリード地下鉄からの中古電車(マドリード地下鉄5000形・6000形電車)を追加導入し本形式の運用離脱・廃車が開始された[注 19]。なお、2016年現在で30両廃車されている[5]。太数字は現地においても廃車された車両[5]。, 本形式の開発にあたっての母体となったニューヨーク市都市交通局から、廃車になった編成を1本譲り受け、同市地下鉄で動態保存する意向があったものの、打診があった時点で残存していた全車が既にメトロビアス社向けとして丸紅に買い占められており、実現に至らなかった。, 映画『BLOOD THE LAST VAMPIRE』実写版ではこのメトロビアス社に譲渡された車両が東京の1960年代の営団地下鉄のシーンとして登場する。, ブエノスアイレスにおいても廃車になった車両は現地において12万アルゼンチン・ペソ(現地価格)で売却先を募っており[5]、売却された一部の車両がアルゼンチン国内でフードコートとして再活用されている[5]。, 2014年頃より、東京メトロでは前述のマドリードからの中古車両の導入により、現地において元丸ノ内線車両の淘汰が開始されるという報告を受けて、先に長野電鉄から里帰りを果たした3000系と同様に、当系列においても「技術伝承」としての教材とするべく、すでに地下鉄博物館において保存されている300形301号とは異なり、走行できる状態での当系列の保存を目指すこととし、現地で運用されている当系列の買い戻しに向けてメトロビアス社との交渉を開始した[6]。東京メトロでは今回の里帰りの理由を「現在の電車の基礎となった価値のある形式で、現在の電車とほぼ同等の性能で走ることができ、電子機器が多い現在の電車と比べて構造がシンプル。走る・停まるという電車の基礎を学ぶ社員教育の教材に適している。」と述べている[7]。, 2016年2月に、アルゼンチンでのサイトにおいて、現地で廃車になった500形の4両 (771,734,584,752) は、東京へ里帰りさせるため、現地での売却は行わないと報じられた[5]。翌3月には日本においても、東京メトロが現地で走行中の4両を買い戻す方向で交渉中であると報じられ、東京メトロでも交渉中である事を認めた。そして7月11日、前述の4両は航路で大黒埠頭に到着し、21・22日の未明に2両ずつ中野検車区に搬入された。4両という複数両の買い戻しとなった理由として東京メトロでは「静態保存ではなく、教育用として、実際に電気を流して電車が動くような状態に整備するため。」としている[6]。また前述の通り、500形は644号までと645号以降では行先表示器左右の標識灯の有無という差異が存在するため、その両方を揃えるという目的もある[6]。営団時代末期の方南町支線での運用時と同様の3両編成(771号[アルゼンチン仕様]-734[引退時仕様]-584号[デビュー時仕様])を組ませ、残り1両(752号)は予備車となる[6]。海外へ譲渡された車両が日本に戻るという極めて珍しい例であり、東京メトロでは初めてのケースとなる[8][9]。この4両のうちの3両は、2017年11月27日に報道陣に公開され、同年12月10日の中野車両基地で行う地下鉄開業90周年の行事で、動態保存の状態で公開される[10]。, これは走行に必要な機器に限らず、換気装置として導入が決定したファンデリアの場合も同様であった。三菱電機の技術者たちは当初、図面に書かれた整風板の意図が理解できず、それを付けずに試作品を製作してしまい、適切に送風されないのに悩んだ末にようやくその整風板が欠けていることが問題であると理解した、というエピソードが残されている。, 新システムは在来車との性能差があまりに大きく、またブレーキには相互互換性が無かったため、混用は不可能であった。なお、戦前以来の旧型車が長く残存した銀座線はこのような事情から、WNドライブの実用化が, 第三軌条の銀座線、丸ノ内線では、安全上の理由から乗務員の乗降も前面の貫通扉から行っていた。, 住友金属工業による、重ね板ばねと2セットのコイルばねを併用して門型のばね機構を構成する、特徴的な軸箱支持機構を備える一連の台車群は、一般に戦前のドイツ国鉄がD-zug用客車に採用した台車の軸箱支持機構と類似した形態であることから「ゲルリッツ台車」と呼ばれるが、これらはオリジナルのゲルリッツ式台車が備える機構の内、軸箱支持機構のみを模倣したものであるに過ぎず(ゲルリッツ式台車の枢要をなすのはむしろ枕ばね機構である)、またこの機構は19世紀には既に存在していたものであることから、これは厳密な意味ではゲルリッツ式台車とは言い難い。, 1968年以降車両の新製投入が途絶し、1988年に登場した02系101編成まで待たなければならなかった。, 同地下鉄の運営は本形式の導入直前に民営化されたばかりであり、その運営者となったメトロビアスは従来のクリーム色と紺色、および白色と赤紫色を基調とした塗装に代わる新たな地下鉄のイメージカラーを模索していたという背景が存在する。黄ベースは当車につづいて同地下鉄へ譲渡された, 2000年代の後半より、様々な国の出身者で構成された集団が同地下鉄の車両へ「トレイン・ボム」と呼ばれる, しかし、このマドリード地下鉄の中古車による本形式の置き換え計画はマドリード地下鉄車の故障多発で中止され、最終的に残った10編成はマドリード地下鉄からの中古電車とともに新車で置き換えられることが決定している。, 「鉄道車両の火災対策の研究報告書」、社団法人日本鉄道技術協会、1992年3月、8頁, Ponen a la venta coches retirados de la línea B enelSubte.com, アルゼンチン共和国ブエノスアイレスで活躍した丸ノ内線旧500形車両が約20年ぶりに東京に里帰りします!, http://withnews.jp/article/f0160301003qq000000000000000W02j0401qq000013068A, 「東京メトロが丸ノ内線500形公開、アルゼンチン仕様も」 - マイナビ鉄道ニュース, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=営団500形電車&oldid=80530320, 上記は基本的に昭和50年代のデータ。300形・400形は上記の台車に交換が実施されている。500形・900形は落成時より上記のもの。, 303・304・306・310・311・312・315・316・324・325・328・329, 方南町支線が02系に完全に置き換わる直前まで運用されていたため、末期には「フィナーレ500記念号」という特製. 東京メトロ(東京地下鉄)は11月27日、中野車両基地において復元した丸ノ内線500形を報道陣に公開した。丸ノ内線は1954年(昭和29年)1月に池袋~御茶ノ水間が開業し、500形の前身となる300形が登場。その後、新宿駅の開業に備えて300形の改良型として1957年(昭和32年)に500形が登場した。, 全鋼製の車体に赤(スカーレットミディアム)で塗装され、窓下の白帯とサインウェーブを組み合わせたデザインは利用客にも親しまれ、丸ノ内線の顔として1996年(平成8年)まで40年近く活躍した。合計234両が製造された500形だが、後継車両である02系の導入が進むにつれ廃車、または譲渡の道を進み、その譲渡先としてアルゼンチンが決まった。, 首都ブエノスアイレスの地下鉄には500形110両が譲渡され(300形は7両、900形は14両)、現在も一部の車両が現地で活躍している。その500形も老朽化が進み、2014年ごろから車両を引退させている。その500形を引き取り、若手に技術伝承する機会を充実させることが今後の車両保守教育につながると考え、今回の復元プロジェクトが発足したとのことだ。, 500形を公開するにあたり除幕式には、東京メトロ 常務取締役 留岡正男氏、メトロ車両 代表取締役社長 東濱忠良氏、東京メトロ 鉄道本部 車両部長 清水邦人氏、手塚車輌工業 代表取締役社長 手塚清憲氏、東京メトロ 車両部 中野車両管理所 所長 杉山勝氏、東京メトロ 車両部 中野車両管理所 技術課長 増澤富士雄氏が参列した。, 除幕式が行なわれたあと、東京メトロ 常務取締役である留岡氏は「鉄道近代化に大変貢献してくれた車両である500形は日本を引退したあとも地球の裏側で20年間活躍してくれました。アルゼンチンで引退したあとはなんとか何両かを引き取り、若手の育成や鉄道文化遺産として保存しておけないかと常々思っていたので、こういった結果になって大変うれしく思います」と、復元プロジェクトを発足させた経緯や思いを語った。, 車両部 中野車両管理所 技術課長の増澤氏はプロジェクトで苦労した点を聞かれ、「まず驚いたのは、私たちが見たことのない落書きでした。それをキレイに落としたところで今度は赤が薄れてしまったので塗りなおしたり、アルゼンチンはホームと電車の間が空いているので、転落防止のステップや防護板を取り外したあとのボルト穴の補修、そのほか腐食した箇所などを修理しました。, 1カ所修理すると2、3カ所新たに修理が必要な場所が発見されるといった感じで難しさはありました」と、一筋縄ではいかない苦労を語った。また、住宅街にある中野車両基地では溶接や音が大きくなる補修作業はできないので、大掛かりな作業はメトロ車両や手塚車輌工業の協力のもと、新木場の車両基地で行なったそうだ。, 復元にあたったプロジェクトチームは、車両部の各職場から志願した20~30代の若手社員9名で構成されている。現役時代の500形を知る増澤氏をはじめすとるベテラン社員の指導のもと、2016年9月から復元作業を開始している。チームのなかの1人は、復元する際の資料として母校である昭和鉄道高等学校に保管されている車体を見学してきたというエピソードを語った。, 今回復元した500形は3両編成で、先頭が初期仕様の584号車。2両目がアルゼンチンに引き渡される前の734号車で引退時仕様。3両目は771号車でアルゼンチンで走っていたころの仕様として復元されている。3両編成にしたのは、3両あれば1両が故障しても自走できるからという留岡氏の発案だそうだ。, その話から「本線でも走らせるのか?」といった質問がされると、イベントにおいての運行は考えている段階であると話した。ただし、現状ではまだ6割程度の仕上がりであり、現在の保安設備などの導入などを考えると、走行させるにはまだまだ時間はかかるとの見解を示した。, 東京メトロ、中野車両基地公開やイベント列車など地下鉄開通90周年記念イベントを10月27日~2018年1月28日開催. 12月3日の竹田城跡 雲海ツアーから帰って、 うちのポスト中を見てみると、 地下鉄・東京メトロイベントから手紙が入っていました. おっ 当選したんだー. Copyright ©2018Impress Corporation. 【乗りものセレクション】「赤い丸ノ内線」500形、迫る「復活の時」へ向け新木場CRから中野へ! 詳しくはコチラ! https://goo.gl/XABJCj 営団500形電車(えいだん500がたでんしゃ)は、1957年(昭和32年)から1996年(平成8年)まで帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄(東京メトロ))丸ノ内線に在籍していた通勤形電車。.
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