買い目. キョウエイマーチとか. ウイングアローとか. ⑪ー③. チャンピオンズc( 2020/12/6 ) 今週の出演者. 大川 慶次郎(おおかわ けいじろう、1929年2月6日 - 1999年12月21日)は日本の競馬評論家。東京府北豊嶋郡王子町15番地(現在の東京都北区王子)出身。慶應義塾大学文学部心理学科卒業。予想家としては通算4度パーフェクト予想1日の全レースの連複を当てること。 慶應義塾大学 文学部 心理学科卒業。. ちなみに大川慶次郎さんはマイルチャンピオンシップ南部杯のイベントに出演した際、井崎脩五郎さんと予想に関して言い合いになり、なんとテレビ局が放送打ち切りにしたという逸話も。一体どんな言い合いになったのか気になりますよね。 予想家として、通算4度パーフェクト予想を達成し、競馬の神様の愛称で親しまれた。競馬評論家の大川智絵は長女。 ライアン!」[† 11]とレース中に叫ぶ声が実況に被さってしまうこともあった[2]。「ライアン」についてはレース翌日の『笑っていいとも!イブ特大号』で明石家さんまが話題にし、これ以降大川は競馬以外のバラエティ番組にも出演するようになった。, 『スーパー競馬』などのパドック解説において、馬体のいい馬を見ると「馬鹿によく見えますね」というフレーズで形容した。とんねるずの木梨憲武が自分の番組で大川の物真似をする際にこのフレーズを用いた。, 1983年の菊花賞のレース当日、大川は関西テレビ『競馬中継』のゲスト解説者として出演のため京都競馬場に来場していたが、実況を務めた杉本清が大川にレース回顧をしてもらおうと問いかけたところ、大川が自ら本命をつけたミスターシービーが勝ったことに対して感動のあまり涙を流していたことが分かった。, 1984年のスプリングステークスのパドック解説において、関西馬を総じて酷評した。例えばゴールドウェイについては「馬が薄い」という表現を使った。これに対して、大川のパドック解説が終わり、関西テレビの競馬中継へとカメラが切り替わった直後に杉本が「大川さんは関西馬のことをボロカスに言ってますなぁ」と言い、怒りと呆れの双方が入り混じった表情を浮かべていたが、結果として関西馬はトウホーカムリの5着が最高で、大川の予想通りとなった。, 『スーパー競馬』にてある函館3歳ステークスの優勝馬について将来性を否定する発言をした[9]ところ、番組を見た抗議があり、翌週の同番組にて「言い過ぎだった」とこの件を謝罪し[9]、以降は馬の将来性を語ることを一切しなくなった。なお該当馬はその後約1年半の間中央競馬の競走に出走したものの、一度も馬券に絡むことなく惨敗を続けた[9]ため、結果として大川の見立ては正しかった。, 1996年の高松宮杯ではスプリント適性のないナリタブライアンが出走したことに対し反対を唱えた。レース後に「このレースは前が止まらないんですよ。勝ち馬と上がりが同じならテンで行けないだけ届かない。追い込み馬というのは前が垂れて自分が垂れないからよく見えるだけであってスプリント戦のようなスピード競馬には不向き」とコメント。ナリタブライアンには「よくやったと思います褒めてあげて下さい。無事だといいが馬は無理させたことで故障することがある。ちょっと心配」と発言。実際ナリタブライアンはレース後に故障が判明し引退。大川の見識が正しかった。, 1999年、盛岡競馬場で行われたマイルチャンピオンシップ南部杯のイベントに出演したところ、予想に関して井崎脩五郎との間で論争となり[10]、テレビ局側が放送を打ち切る事態にまで発展した。このことについては「テレビ局側にも怠慢がある」と非難していた。, それは、僕の『天職』です。けっして運命論者じゃなく、むしろごりごりのリアリストである僕が……、これだけは運命論者になっちまう。競馬ははじめから(僕の前に)天職として用意されていたとしか思えません。, 藤本の厩舎にはかつて父親の義雄も競走馬を預託していたため、自身が幼少のころから藤本と交流があった。, 大川にしても、新田が「義理人情に生きる」のが表看板の博徒上がりの点は折込済みの行為であった。, 境勝太郎も「故障の原因の一つは日本から装蹄師を同行させなかったことにある」旨のコメントをしている。, 地方競馬やアメリカの競馬では馬名を冠したレース名をつけることが多い。現在JRAが実施する競走で競走馬の名が冠されているのは、, このとき、大川はキョウエイプロミスを本命としていた。同年開催の秋の天皇賞の勝ち方が大川の目に良く映り、この走りならばジャパンカップでも十分優勝を狙えるという見方をしていた。, メジロライアンについては特に思い入れが深かったので思わず叫んでしまったが、のちに本人は実況担当の, http://mymemo.xyz/wiki/index.php?title=大川慶次郎&oldid=170042, 『関東・関西優秀四歳馬200選 大川慶次郎の完全データ 1971年版』陳文館 1971, 『神様の馬券術 G1レースから明日の馬券が見えてくる 実戦編』日本短波放送 1999, 『大川慶次郎ザ・ラストラン 神様の馬券術 実戦篇 1999』日本短波放送 2000, 『神様の馬券術 最後の集大成「馬券指南」本』責任監修 「馬券原論」プロジェクトチーム編 日本短波放送 1997. 90年代末期のダート競馬界はアブクマポーロVSメイセイオペラという 地方馬の2大横綱時代でした。 われらがメイセイオペラは、それまでアブクマポーロに対し、 ホーム(南部杯)で完勝したものの、アウェー(東京大賞典)でリベンジを許してしまいます。 南部杯を回避する事を知った競馬部員。 特にKKBの場合、上に書いてある通りにメイセイオペラを 応援するつもりだったのでガッカリ度が倍増。 やりきれない気分でいっぱいになりながら盛岡競馬場NO2の メンバーが…割と豪華で. 1999年、盛岡競馬場で行われたマイル チャンピオンシップ南部杯のイベントに 出演した時、井崎脩五郎との間で論争となりました。 その論争のあまりの激しさに、テレビ局 故大川慶次郎氏が独立して設立したんじゃなかったっけかな。ロゴは水色で目立っていたと思う。大川慶次郎はもちろん、塩崎利雄や山崎なんとかというのがいて悪くはなかったと思うが、あまり的中していなかったような・・・。 【競馬エイト】 ↑ 倉元一浩 「南部杯 ニホンピロジュピタ 大川慶次郎vs井崎脩五郎、レース前の大バトルの軍配は果たしてどちらに? 」『競馬名馬&名勝負年鑑1999-2000 ファンのファンによるファンのための年度代表馬』 宝島社 、2000年3月、198-199。 井崎 脩五郎(いさき しゅうごろう、1947年 7月23日 - )は日本の競馬評論家、コメンテーター。 本名は布目 健二(ぬのめ けんじ)。父は浪曲 奇術師の布目貫一。 競馬専門紙『ホースニュース・馬』に所属していた(元・株式会社ホースニュース・馬 広報部部長)。 南部杯に13~4秒足せばとの計算は『多分』の範疇を越えない。 ... 故大川慶次郎や故清水成駿のように何か代表になる神予想したことあるのこの人 井崎脩五郎ですらスイープハーツの宝塚一点的中という神 … テンプレート:Infobox 作家 大川 慶次郎(おおかわ けいじろう、1929年 2月6日 - 1999年 12月21日 )は日本の競馬評論家。東京府 北豊嶋郡王子町15番地(現在の東京都 北区 王子)出身。慶應義塾大学 文学部 心理学科卒業。 予想家として、通算4度パーフェクト予想 を達成 し、競馬の神様の愛称で親しまれた 。 競馬評論家の大川智絵は長女。 3連単. ^ 倉元一浩「南部杯 ニホンピロジュピタ 大川慶次郎vs井崎脩五郎、レース前の大バトルの軍配は果たしてどちらに? 」『競馬名馬&名勝負年鑑1999-2000 ファンのファンによるファンのための年度代表馬』 宝島社 、2000年3月、198-199頁。 ワイド. 大川慶次郎、杉本清、井崎脩五郎の予想が重なった場合、全く当たらないと言われている。2005年菊花賞で杉本、井崎の予想が重なった際「天国の大川さんも同じだろう、きっと笑ってますよ」と二人で笑 … 大川慶次郎は当時の競馬予想では画期的な「レース展開」を重視する競馬評論家でしたが1999年に逝去。当記事では死因や息子・娘のを検証しました。また大川慶次郎の語録や本も紹介していますので、ぜひご確認ください。 ★マイルcs南部杯(2020/10/12) ⑪サンライズノヴァ ③インティ ④⑬⑮⑯. 単勝. 第12回の南部杯の時。1999年のお話でございます(・ω・) ニホンピロジュピタが快勝したんですけどねー. ライアン!」などと叫ぶ声が 実況に入ってしまうことが、たぴたびあったとか。, 1984年のスプリングステークス の時は、関西馬を酷評したので、 アナさんもあきれていました。, ある時、函館3歳ステークスの優勝馬(リ ザーブユアハート)の将来性を否定する発言をしました。, ところがその馬は、その後約1年半、中央 競馬に出走したものの、上位に入ること はありませんでした。, 1999年、盛岡競馬場で行われたマイル チャンピオンシップ南部杯のイベントに 出演した時、井崎脩五郎との間で論争となりました。, その論争のあまりの激しさに、テレビ局 側が驚いて放送を打ち切るという、 前代未聞の出来事がありました。, ただし、そのサイト名が、「大川慶次郎 ~競馬の神様と女神のパーフェクト馬券 メソッド~大川智絵監修」という、やたら長いものなのです。, 大川慶次郎~競馬の神様と女神のパーフェクト馬券メソッドは使えるのか?おすすめポイントは?. 大川 慶次郎(おおかわ けいじろう、1929年 2月6日 - 1999年 12月21日)は日本の競馬評論家。. その次が大川慶次郎 見栄晴だって俳優だし 9 : 名無しさん@実況で競馬板アウト :2019/05/30(木) 12:47:44.33 ID:2CNqo9A/0.net 故大川慶次郎氏が独立して設立したんじゃなかったっけかな。ロゴは水色で目立っていたと思う。大川慶次郎はもちろん、塩崎利雄や山崎なんとかというのがいて悪くはなかったと思うが、あまり的中していなかったような・・・。 【競馬エイト】 虎石晃(虎石予想) ②ゴールドドリーム ⑮クリソベリル ⑦カフェファラオ. 井崎脩五郎(笑) ^ 倉元一浩「南部杯 ニホンピロジュピタ 大川慶次郎vs井崎脩五郎、レース前の大バトルの軍配は果たしてどちらに? 」『競馬名馬&名勝負年鑑1999-2000 ファンのファンによるファンのための年度代表馬』 宝島社 、2000年3月、198-199頁。 大川慶次郎: 運営会社: 株式会社ターフ: 運営責任者: 石川佳彦: 会社住所: 東京都新宿区北新宿1-29-7 303号: 料金・特徴: 無料情報アリ 1チケット=500円 100枚(30,000円分)まで購入可能 慶應義塾大学 文学部 心理学科卒業。. この日もレース後にイベントがあった。まずは鈴木淑子、井崎脩五郎、原良馬によるオペラオーに乗った和田のインタビュー。そのあと、岡部、加藤、的場、武豊も加わり20世紀の競馬を振り返るトーク … ⑪サンライズノヴァ. その日の場内ゲストも… 大川慶次郎さん. 大川慶次郎、杉本清、井崎脩五郎の予想が重なった場合、全く当たらないと言われている。2005年菊花賞で杉本、井崎の予想が重なった際、「天国の大川さんも同じだろう、きっと笑ってますよ」と二人で笑い合っていた。 関連人物 他にも. 既に故人となっていますが、 パーフェクト的中を4回成し遂げて いることで有名でした。, しかし、そのサイト名が、「大川慶次郎 ~競馬の神様と女神のパーフェクト馬券 メソッド~大川智絵監修」という、無茶苦茶長いのです。, 大川慶次朗という人は、競馬界随一の有 名人ではありますが、かなり特異な人だっ たらしく、エピソードも色々とあるようですよ。, そこで今回は、大川慶次郎~競馬の神様 と女神のパーフェクト馬券メソッドは、 予想として使えるのか、その人となりなどを調べてみました。, 1レースでは、枠数にもよりますが、連複 合わせての組合せ数は、30前後になるの ではないでしょうか。, それを全部当てるというのは、1回でも 凄いことですが、それを4回やっている となると、もはやレジェンドの域ですね。, しかし、大川慶次朗は既に故人となって いて、現在の競馬の神様と女神のパー フェクト馬券メソッドサイトは、長女の大川智絵が主催しています。, 血が繋がっているとか、遺伝とか言って も、親の才能がそっくり子に引き継がれ るということは、遺伝学的にみてもあり得ません。, これを頭の片隅におき、またレジェンド も一時忘れて、競馬の神様と女神のパー フェクト馬券メソッドを見てみました。, まず最初に、当たり前ではありますが、 このサイトの予想は 大川慶次朗本人とは全く関係ありません。, 予想の的中率については、「あたるも 予想、あたらぬも予想」という所で、 少なくとも全てボロはずれということはないようです。, 大川智絵公式ブログでは、フランス語で 「victoire」とあり、 「勝利の女神」と訳されています。, しかし、フランス語の勝利の女神は、 「Deesse de la victoire」となる のではないでしょうか?, ただし、これらのサイトでメールアドレ スを登録すると、翌日から勧誘メールが わんさと来ます。, 「メールがしつこいので受信拒否をした んだけど、翌日には違うメールアドレス からバンバンメールが送られてくるよ?」, 「このサイトのメール攻撃有名ですよねえw 私には高配当.comっていう聞いた事のない サイトから、大川名義でメールがジャンジャン届きましたよ?」, 「補てん、補てん、そして補填 キャン ペーンでは大々的に「当選」を煽ってる のに、外れた時はポイント補てんで誤魔化す」, URLを見ると https://fm.keijirou-chihoukeiba.jp/?id=6dbbc7ac8e&ad_code=to20687&cid=b5950f3acd と、本家とおなじサイトの下にあるようです。, それにしても、故人となってからも競馬 予想を続けるとは、さすが競馬予想の 神様だけのことはあります。, サイトには小さく「大川智絵監修」と書 かれていますが、七光りの使いまくりと いう感がしてなりません。, 毎日ログインしていればチケットが 溜まるので、ある程度は実質無料で 利用することもできるかも知れません。, ただ、競馬の神様と女神のパーフェクト 馬券メソッドにしても、「大川慶次郎の 地方競馬予想」にしても、問題があります。, それは、各種の情報、例えば予想情報は どんな内容なのか、はずれた場合は補填 はあるのか、などが全く書かれていないことです。, 大川慶次郎は、1929年2月6日生、1999年 12月21日没の、競馬予想家、評論家です。, 予想家として通算4度のパーフェクト予想 を成し遂げ、「競馬の神様」と呼ばれていました。, 亡くなる前には、 「21世紀初めての競馬を見ることが夢」 と、しばしば言っていたそうです。, 死の2週間前、「大川さんにとって、 競馬とは?」という取材には、こんな答えをしたそうです。, しかし、彼は自分の主張が謝りであった 時には、それが 誤りであることを潔く認める性格でした。, 関西テレビ『競馬中継』のゲスト解説者 として出演、アナがレース回顧をしても らおうとしたのです。, ところが、大川慶次朗は本命としたミス ターシービーが勝ったことに感動、 涙を流していて言葉もなかったそうです。, その他のレースで、放送中に、「(メジロ) ライアン! 大川慶次郎のパーフェクトの理由? 【無料】お試し大川慶次郎情報. 大川 慶次郎(おおかわ けいじろう、1929年 2月6日 - 1999年 12月21日 )は日本の競馬評論家。. その他は以下でご覧ください(゚∀゚) ⑪→③→④⑬⑮⑯. つまり、大川慶次朗の競馬馬眼は正しかっ たわけですね。 論争で放送打ち切り. 大川 慶次郎(おおかわ けいじろう、1929年2月6日[1] - 1999年12月21日[2])は日本の競馬評論家。東京府北豊嶋郡王子町15番地(現在の東京都北区王子)出身。慶應義塾大学[1][2]文学部[2]心理学科卒業。予想家としては通算4度パーフェクト予想[† 1]を達成[2]し、「競馬の神様」と呼ばれファンに親しまれた[1][2]。競馬評論家の大川智絵は長女。, 青森県八戸市の大平牧場で競走馬を生産するオーナーブリーダーであった父・大川義雄(高千穂製紙社長、通称「タイヘイ氏」)の二男として誕生。実業家渋沢栄一の曽孫にあたる[† 2]。また「日本の製紙王」大川平三郎は祖父。, 幼少のころより大平牧場や東京の外厩で競走馬を間近に見て育った。また、義雄に連れられて競馬場にも足繁く通い、1938年の東京優駿を実際に観戦した[2]最も古いレースとして晩年まで記憶していた。, 父の跡を継いでオーナーブリーダーとなることを志したが、太平洋戦争終結後に行われた農地改革の影響で大平牧場は人手に渡ることとなり、一競馬ファンとして生きることを余儀なくされる[† 3]。, 1947年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。同期生に大島通義、岡野行秀、越智通雄、三浦公亮など。, 1948年に慶應義塾大学に入学。翌1949年、競馬サークル「いななき会」を設立[2]。同会のメンバーであった学生の父親が河野一郎の支援者であった縁から河野を顧問に迎える。これを期に公職追放中であった河野はしばしば大川とともに競馬場に通うようになり、政界復帰後に馬主・競走馬生産者として活発に活動するきっかけとなった。, 1952年に慶應義塾大学を卒業し、高千穂製紙(後に日本パルプ工業を経て現在の王子ホールディングス)に就職[2]。しかし会社員生活は性に合わず、考えるのは競馬のことばかり。毎週土曜日になると営業に出るふりをして会社の裏にある場外馬券売り場に馬券を買いに行ったという。結局入社から3年[2]たった1955年に同社を退社し、明治座社長だった新田新作の競馬担当秘書となる[2]。新田と親交のあった百瀬博教は、戦前に鈴木栄太郎(関東国粋会副幹事長で生井一家の貸元)の若い衆であった新田は戦後に足を洗って土木建築業の新田組を興し、連合軍ともコネがあり羽振りがよかったとしている。大川のおもな仕事は新田が競走馬を預託する藤本冨良調教師との連絡役であった[† 4]。, 秘書となった年、新田所有の4歳馬メイヂヒカリはクラシックの有力候補であった。しかし皐月賞を目前に控えた時期になってメイヂヒカリの飛節に肉腫ができていることが判明。無理をせずに休養をとらせたい藤本の意を受けた大川は無理にでも皐月賞に出走させようとする新田の説得にあたり、「未来がある馬だから出走させないでくれ。それに大金を投じて馬券を買うファンに迷惑がかかる」と土下座までしてみせた[† 5]。新田は大川の説得に渋々応じたが、療養の甲斐もあってメイヂヒカリは立ち直り、菊花賞ではこの年のダービー馬・オートキツを10馬身突き放す圧勝。その後、翌1956年には天皇賞(春)・中山グランプリを制し年度代表馬に、さらに1990年には顕彰馬に選ばれるほどの活躍をした。, 1956年に新田新作が死去し、また同時期に別の馬主の依頼で務めていた生産牧場(東北牧場)の牧場長を辞したため無職となる。, 東北から上京した大川は、はじめ白井新平に請われて『競週』の予想家となったがまもなく同紙から離れ、手刷りの予想紙(『レーシング・ヒント』)を売る生活を送る。やがて河野一郎の助力を得て、1957年から[1]日本短波放送の解説者となる。このときの恩から大川は河野一郎を「心の師匠」と慕い続けた。, ラジオ出演で知名度が上がったのをきっかけに『ホースニュース・馬』を発行するホースニュース社と予想家契約を結ぶ。1961年9月[2]3日、同紙上で予想家としては初となるパーフェクト予想を達成[2]。たまたま同席していた『週刊読売』の記者がこのことを「競馬の神様のご請託」と題うって記事にし、それに『週刊文春』などほかの雑誌が追従、予想家としての知名度は飛躍的に向上した。大川の妻によると「競馬の神様」という呼称について大川自身は、「競馬の神様だなんて、とんでもない。単に人がつけたニックネームだ。べつに俺は神でもなければ才人でもない、ただの大川慶次郎だ」としばしば口にしていたという[3]。, しかしながら、パーフェクト予想達成後に予想を外すことを恐れるあまり無難な予想しかできなくなり、極度のスランプに陥ってしまう。本人の述懐によると、このスランプから完全に脱したのは『勝馬』『ダービーニュース』を経て『ケイシュウNEWS』の予想家となった1969年以降のことであったという。, 1994年に『ケイシュウNEWS』を去った後はもっぱらフジテレビ『スーパー競馬』の解説者・日刊スポーツ専属評論家として活動した。また1981年にみずから設立した競馬予想会社・ホースメン会議の総監督も亡くなるまで務めた。, 晩年は「21世紀初めての競馬を見ることが目標」とたびたび口にしていた。しかし1999年12月15日[2]、美浦トレーニングセンターでの調教取材を終え[2]、ゴルフを楽しんだあと[2]、寿司屋で会食後に店内で倒れ入院。12月21日[2]、高血圧性脳出血で死去。享年71(満70歳没)。倒れてから意識を取り戻すことはなかったが、家族が競馬中継やGIのファンファーレを聞かせると脳波が強く反応したという。なお、入院後の検査でかつて癌を患った肺の状態も悪化していたことが判明。診察した医者は「よくこの状態で普通に呼吸ができていたものだ」と言ったという。「神さまに戒名なんか要らない」という家族の意向により、大川に戒名はつけられなかった[4]。, 死の2週間前、ジャーナリストによる取材で「大川さんにとって、競馬とは?」と問われた大川は、次にように答えている。, この取材で大川は、「暮れの有馬記念を当てて、2000年の第1レースを的中させて……」とも答えていた[5]。大川が予想した優勝馬はグラスワンダーだった。大川の死から5日後、グラスワンダーはスペシャルウィークを際どいハナ差で退け優勝、大川の「生前最後の予想」は見事的中した。数日後、大川家に差出人「グラスワンダー」の花束が届いたという[6]。, 翌2000年2月6日に東京競馬場内で「大川慶次郎さんの思い出を語る会」が、井崎脩五郎・鈴木淑子・長岡一也・原良馬らが参加して行われた[7]。同年10月11日には大川所縁のタイヘイ牧場に記念碑が建立された。2001年9月には横浜松坂屋の7階に彼の遺品のノートなどを“ご神体”とした「伊勢佐木 勝馬神社」が設けられ、2008年10月に同店が閉店するまで公開された。, 妻の和子によると、大川は「予想屋」と呼ばれるのを嫌い、「競馬評論家」であることに強い自負を抱いていた。その理由について大川は、「予想屋というのはねえ、訊かれる前から予想してみせる連中のことです。評論家は、訊かれてから初めて唇を開くものです」と説明したという[6]。, 競馬評論家として以後も活動を続けようと決意したきっかけの馬はミツハタ(1952年の春の天皇賞優勝馬)だったと自身の本で述べている。ミツハタはトキノミノルと同世代にあたるが、トキノミノルに毎回後塵を拝しながらも他馬には常に先着していたイツセイが、トキノミノルの急死以後は同世代の中心となっていくであろうというほかの競馬評論家の論評に疑問を呈した。それは「2400メートル以上の長距離戦になるとイツセイの血統では持たない。逆にミツハタは距離が伸びるとイツセイよりも強い」という自負があったからだったが、1951年11月25日に開催されたセントライト記念(2400メートル、東京。その3週前に菊花賞が開催され、イツセイは3着に敗れた)において、断然人気のイツセイはミツハタに3馬身の差をつけられて完敗し、大川の言う通りの結果となった。それ以後、ミツハタは上記の通り春の天皇賞を制したほかレコード勝ちを4回も果たすなど同世代の最強のステイヤーの称号を得ることになるが、イツセイが勝利を挙げたレースは2000メートルまでのレースに限定された。, 予想と言えば馬そのものとその関係者からもたらされる情報だけが対象であった時代に、レースの「展開」をファクターとして取り入れた[1][2]のは画期的とされる。, 馬体の好みの問題[2]と、調教代わりにレースを使う陣営への反発もあって、五冠馬シンザンに一度も本命印を打たなかった[2]。ミスターシービーに対しては三冠最後の菊花賞で本命印を打った。そのほか、「私は関西馬のことはよく知らないんですが…」が口癖だった。この言葉は、大川自身が実際にほとんどの関西馬について、自分の目で調教やレースを見ていないことに起因する。また、関西の秘密兵器と言われた馬たちを総じて軽視していた。, (ギャンブルとしての)競馬ではなく「(動物の)馬」が好きでこの業界に入ったこともあってか、馬の体型を一目見ただけで他の予想家や競馬記者が気づかなかった体調や故障、先天的障害を言い当てることもあった。, 自分の打った印をもとに馬券を買うファンに対する作法として、みずからも予想の通り馬券を買うのを常とした。パドックを見て予想が誤りであったと直感した際にも作法を曲げることはなかった。「僕は競馬で3億勝っています。でも4億負けています」と『いつみても波瀾万丈』出演時に述べている。かつては予想が外れると脅迫電話が自宅にかかるなどファンとの間には殺伐とした関係があり、電車に乗るときには決してホームの一番前に並ばないなど、身辺に注意を払う必要があったという。しかし晩年は若いファンからマスコット的な人気を博すようになり、時代の変化を痛感したという。大川をモデルにした「おしゃべりケーちゃん」人形も制作されている[1]。, 大川は自身の見解が違った場合、見解が誤っていたことを認める性格であった。オグリキャップのラストラン有馬記念ではオグリキャップは限界などと話していたが、レース後、スーパー競馬の解説席からオグリが勝利したことについて「私などはいの一番にオグリへ謝らなければならない」と自身の見解が誤っていたことを認めた。他のレースでも同様のエピソードあるが、1995年、京都記念、日経賞と凡走を続けたライスシャワーについては「所詮、ダービーで16番人気だった馬なんですよ」と最初から実力を認めていないかのように発言。その年の天皇賞・春に優勝したときは「この馬は今日は長い距離だと新聞でも読めるのかねぇ。今まで全然行きっぷりが違いますね」と語ったものの、あくまでライスシャワーは「長い距離で強い馬だった、ということですね」と評価しており、スーパー競馬のライスシャワー追悼コーナーでもそのように発言していた。, 競走馬は馬主のものであるが、レースに登録したときは馬券を買うファンのものとなる」という持論を持っており、後述するようにナリタブライアンの短距離戦出走には批判的であった。, 晩年はエアグルーヴが好きで、エアグルーヴが牝馬ながら秋の天皇賞を制した際には「この馬は普通の牝馬じゃないですよ。和田アキ子さんですよ」と絶賛した。エアグルーヴの引退レースとなった有馬記念ではオグリキャップのときのような後悔はしないと、ピークの過ぎたエアグルーヴを絶賛し、敗北後も後悔はしていなかった。, 競馬マスコミにおいて競馬関係者を批判することをタブー視する風潮がある中で、関係者を公然と批判することがしばしばあった。, とくに大久保正陽については、体調が万全でないナリタタイシンを菊花賞に出走させたことに始まり、同じく体調が万全ではないナリタブライアンを大レースに出走させて惨敗させ続けたこと、距離的な適性があるとは思えない高松宮杯へ出走させたこと、その際に南井克巳から武豊への騎手交代を行ったことを挙げ、「間違いは、大久保調教師自身の見識にあった」と切って捨てた。, 境勝太郎元調教師に対しても現役時には批判的な発言が多かった。サクラローレルが海外遠征中に故障を発症したことについては「ローレルのことをよく知る境勝太郎元調教師と装蹄師を同行させなかったことによる人災である」と調教師の小島太を批判した[† 6]。小島については、サクラローレルの引退式に境を管理調教師として参加させなかったことについても「小島太という人間に疑いを持った」と批判している。, 1990年代に入って、関西馬が関東の平場レースでさえもどんどん勝つような状況になっていったことを踏まえ、「こんな状況が続くようならば、私自身、関西に居を構えなければならない。」と述べ、美浦(関東)の競馬関係者を暗に批判した。, JRAに対しては「馬に食べさせてもらっているのに馬に対する感謝の念が見られない」と批判したことがある。中央競馬のレース名のほとんどが地名や植物名からつけられ、馬名から付けられる事が皆無[† 7]という点に対しても不快感を持っており、著書で批判している。, 天皇賞(秋)の距離が3200メートルから2000メートルに短縮された際には、最後まで反対していた。その理由の1つは(当時の)東京競馬場の2000メートルは枠の内外による有利不利の差が大き過ぎるというものであった。大レースは枠順による有利不利が起こらない条件で行うべきであるという大川の考えは一貫しており、天皇賞(秋)以外にも桜花賞・菊花賞の施行条件を改めるべき[† 8]であると提言していた。, サクラバクシンオーについてのコメントを求められたとき「競馬はスピードを競うもの。(サクラバクシンオーのように)短距離馬にも価値が出てこないといけない」と述べている。また「だらだらと長い距離を走って最後の一周だけで勝負が決まってしまうようなレース[† 9]を踏襲している地方競馬は、中央競馬の姿勢を学ばない限り足元にも及ばない」と批判している。, 動物としての馬を知らないで予想をたてる予想家や競馬記者に不快感を持ち「動物学を修めろとは言わないが、馬がどういう動物かくらい勉強すべきだ」とコメントしたこともある。父・義雄の専属調教師だった藤本冨良は、大川を評して「競馬が好きというより、むしろ馬が好きといった方がいい」とし、「やはり、小さいときから馬を見たり、ぼくらと接触していたことが、今日を築くこやしというか、基盤というか、役に立つものがあったのじゃないかな。競馬評論家といわれている人たちのほとんどは、競馬をよく知っているのかもしれないが、競馬との出会いはものごころついてからでしょ。慶ちゃんは、子供のころからうまやで育ったといってもいいからね。彼のいい面はその辺にあると思うね」と述べている[8]。, 1983年の第3回ジャパンカップ(スタネーラ優勝)のとき「(キョウエイ)プロミス!プロミス!」[† 10]、1984年の菊花賞(シンボリルドルフ優勝)のとき「(ゴールド)ウェイ!!」、1990年の第35回有馬記念(オグリキャップ優勝)のとき「(メジロ)ライアン! 【井崎脩五郎のおもしろ競馬学】 なんと、愛のある命名だろう。多くの競馬ファンがそう思ったのではないだろうか。 6月24日(日)、福島競馬第5レースのサラ2歳新馬戦に出走したリメンバーメジロ(牝2歳、美浦・相沢厩舎)である。 原良馬さん. [mixi]我が愛しのアスリート図鑑 杉本 清(実況アナ) 杉本 清(すぎもと きよし、1937年2月19日 - )は元関西テレビアナウンサーで、現在はアライバルに所属するフリーアナウンサー、タレント、競馬ライター。関西放送記者クラブ会友。 血液型はB型。「関西競馬実況中継
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