楽天的にも能天気にもなることは、いくらでも可能なのに、それを忌避するかのように、より複雑なほうへと物事を進め、結果コミュニケーションのすれ違いばかりを起こす。, それらのディスコミュニケーションっぷりは、オシャンティーとはほど遠く、むしろ人間臭さや泥臭さが入り混じった生々しい印象を与える。, 彼らの不器用さ、必死さや切実さ、それでも何とかしようと葛藤している姿を、リアルと呼ぶか、巧妙に仕掛けられた捏造の憂鬱と呼ぶかは、読者に委ねていいだろう。, しかし、こうした人物像は、自分の思い描く「リア充」や「スイーツ(笑)」のイメージとはほど遠い。 不器用ながらに生きていく道を模索するが、内向的な性格が災いし、どちらかというと社会の底辺的存在になっていく。, プンプンの周りに「特別」な人はいっさい登場しない。どこにでもいそうな人々ばかりだ。共通点があるとすれば、生きることに非常に困難していることくらいだ。, 全巻通して思ったのはプンプンにふりかかる出来事は「どこかで見たことがある」ありふれた事柄ばかりで、それもすべてプンプンという少年のコミュニケーション能力の低さが招くトラブルでしかない。, 10巻からの「愛子ちゃん」との再会で、プンプンは坂を転げ落ちるような破滅への道を突き進むこととなる。 [mixi]おやすみプンプン 13巻の感想。 無かったので勝手に作りました。 ダメなら削除を。 感想や個人的な解説や見解、伏線回収を語り合いましょう! 「喪失」という以上、持ちえていたのに失われたことを指すわけで、その大半が純真無垢な心とかそんなものだとしたら、自分に限って言えば、そんなものはもっていなかった。しかし、大人になってから、さもあったかのように語ることが嫌いなのだ。, むしろ子供から大人になることで用いるべき言葉は「忘却」の方がしっくりくる。子供の頃に夢中だったものや人に対する記憶や思い入れが次第に色あせ、大人になった時、どうしてこんなものに夢中だったのか、当時の自分が不思議でならないほどキレイさっぱり忘れてしまっていることが多々ある。, あの瞬間、あの時に感じたリアルな感情を忘れることができる幸福と残酷さ。 (2005 - 2006年、ヤングサンデー、小学館、全2巻) 浅野いにおの出世作にして、多分いまだに代表作の『ソラニン』が10位にランクイン。映画化もされており、作中に出てくるアジカンの同名の楽曲(浅野いにおが作詞を担当)でも有名ですね。 デビュー初期の作品ということで、良くも悪くも収まるところに収まっている、浅野さんの中では比較的大人しい作品という印象があります。 そのため「浅野いにおを初めて読む人におすすめ」と同時に、「こういう作風の人だと思うと他を読んだときに大怪我 … 別の日、プンプンの友達のハルミンが女の子に告白された。 しかし、告白されて半日もせずにフラれるという悲しい結末になってしまった。 そんな悲しみの中でプンプン達はあるavを道端で見つけることになります。 さっそく拾ったavをプンプンの家で観ることになりました。 そのav 時が経てば、すべては「思い出」に変わる。 忘れる機能が備わっていなければ、トラブルに直面しただけで、あっけなく死んでしまうし、物理的損傷を受けた場合も、痛みを忘れることができなければ永遠に苦しみ続けなくてはならない。 共犯者であるプンプンと行き場のない逃避行がはじまり、最後は事件の発覚によりプンプンを残して命を断ってしまう。, プンプンにとっての愛子ちゃんは一目惚れの、初恋の相手だった。 結婚生活に対して、思い描いていた生活ではないことから後悔を感じ始めた夫がタイムリスップしてしまうというストーリーであり、過去で選択をし直すことで思い描いた幸せを手に入れることができるのか期待が高まります。 過去を変えることで自分だけでなく、自分に関わる人たちの人生� 音のない世界と美しい風景。, 新興宗教に狂い、一人娘の自主性を一切認めずに虐待をつづける母親と二人きり、あばら家で暮らし、プンプンと再会したことをきっかけに希望を見出すも、不可抗力による殺人事件で、それもあっさり消失させてしまう。 読んだ作品おやすみプンプン 6巻浅野いにお小学館2009年12月ひとこと感想あ、っと驚いた。紫色6巻のカバーを外すと、そこには小さな男の子を真ん中に3人家族の… 言ってしまえば、「何の役にも立たない」漫画だ。, しかし「芸術」たるものが常にその時代において「役に立たなかった」ように、この作品も恐らく同じ道を辿るだろう。 「忘れる」ことは最大の生命維持装置であり、「忘れる」ことができなければ、人はとっくの昔に滅んでいただろう。, 「忘却」の持つニ面性と、物事はいくらでも単純化できるし、いくらでも複雑化できるといったテーマが、『ソラニン』以降、作画がどんどん緻密になっていった浅野作品の傾向といえるだろう。, プンプンはどこにでもいそうな少年であり、出だしもありふれた日常からはじまる。ありふれた住宅街の、ありふれた家庭の、ありふれた一人の少年。 何のメッセージも届けない。 「忘れる」ことは人にとって、救いでもあり同時に残酷でもある。, けれども、その時のリアルな喜びや痛みの瞬間を「忘れる」ことができるから、人は生きつづけられるし、種の保存を維持しつづけられるともいえる。 おやすみプンプン ジャンル ... 雄一が不倫を働き失踪した折、寂しさから一度だけプンプンと関係を持ち、プンプンの初体験の相手になった。結婚前にその件を無かった事にするように遠回しに迫るなど大人の女性らしい強かさを見せるも、その後もプンプンを必要以上に気にかける様子も見せ これが浅野の頂点だったら、自分は到底、魅了されることはなかっただろう。, だが、このくらい分かりやすいメッセージを『ソラニン』は持っていたから、リア充含めサブカル中心に浅野は支持を獲得した。 ≡2位≡ [in528/out2448] 砂漠のオアシス ツイステ夢小説。様々なキャラクターあり(カリム多め)恋愛の話で女監督生。 己の思春期を振り返ってみても、今より世界を知らず、無知だった割りにはしたたかだっただけで、投げ打ってまで守りたいものもなかったし、失うものもなかった。「喪失」もなにも、失うものなど最初からもっていなかった。, だから、思春期から大人になっていくことを「喪失」という響きのよい言葉で美化する風潮が好きではないのだ。 人は得てして理解できなかったり、良さが分からないという理由だけで、作品を攻撃することが多い。 記憶の美化や曖昧にぼやけた「何か」を描くようなことは、浅野いにおは決してしない。, 浅野の描く登場人物たちは恐ろしいほど生きることが下手な人たちばかりで、注目を浴びるような人気者はいないし、どちらかといえば集団や組織からは孤立しがちな内向的で孤独なのけ者であり、そうした人物が物語の中心に据えられることが多い。, 自己を過大評価することもなく、とりたて秀でた才能も持ち合わせていないことから、生きていること自体を申し訳なく思っているようなキャラが多い。, どうしてお前はそうなんだと思えるほど複雑な内面を抱え込み、どんな問題にも思いを巡らせ、考え、苦悩している。 常に虚ろで生気のない目をし、時に他人を妬ましくも恨めしそうな眼差しで見上げる。, その最たる箇所が女性キャラの泣き顔にある。美しくなく、涙以外にも鼻水やら唾液やら垂らし、本当に苦しそうに辛そうに咽び泣く。こんなに辛そうな表情を描く漫画家を自分は浅野以外に知らない。, これのどこが「オシャレ」なのか自分には分からないし、それでも浅野の漫画を「オシャレ」と位置づけるのであれば、「オシャレ」の定義が自分とは違うということだろう。, 浅野いにおの方が、村上春樹や新海誠の「憂鬱」より現実的だということを書きたいのではない。, 作品における「リアル」は、フィクションでありながら、それを虚構とは思わせない力で、読者を組み伏せ納得させる作品の説得力に他ならない。 本気でそう思っているとしたら、写真芸術が、どれだけの歴史を持ち、幅広い表現の可能性を持っているか考え直して欲しい。, sutarinさんは、はてなブログを使っています。あなたもはてなブログをはじめてみませんか?, Powered by Hatena Blog Amazon.com で、おやすみプンプン (13) (ヤングサンデーコミックス) の役立つカスタマーレビューとレビュー評価をご覧ください。ユーザーの皆様からの正直で公平な製品レビューをお読みください。 プンプンは一人、愛子ちゃんの願いを果たすためだけに、緩やかな死が訪れるその日まで生きていくところで、プンプンの物語は幕を閉じる。, 本作の最終回は小学校時代に転校していったハルミンの視点から語られる。 自己の想像の範疇に収まりきらなかったもの、自分の規格外に作られているものを「駄作」と決め付け、安易な言いがかりで勝者気取りで批判する。 2年後の今年初め、『うみべの女の子』の完結巻となる2巻が発売され、1巻読了時には気づけなかった浅野作品の本質を目の当たりにし大きな衝撃を受けた。, 自分は浅野いにおという漫画家を随分と見くびっていたと思ったし、知ったようなことを書いてしまったけれど、彼の作品の本質を正確には理解できていなかったと思った。, 『うみべの女の子』は登場人物たちのモノローグが一切登場しない。すべて場面と表情のみで語られる。にも関わらず、長々としたセリフや独白より雄弁な風景と彼らの表情の正体は、浅野が作り出す叙情性に他ならない。, 昔から僕はドラマや映画でよくある、状況を説明するための不自然な独り言が嫌いだったんです。大体、人は悲しいときに『僕は今、悲しい』と声に出しては言わない。でも漫画の場合だと肉声を伴わないから、心の中の気持ちを表現する方法としてそれほど違和感なく“モノローグ”が使える。ただ、モノローグには利点があると同時に弱点もあります。キャラクターの気持ちを言葉で限定できる反面、想像の余地をなくしてしまいますから。, 浅野作品からあふれでる叙情---現存する漫画家で、ここまでの叙情を描ける漫画家が他にいるだろうか。これだけの叙情表現を獲得した日本の表現者を自分は大島渚と押井守くらいしか知らない---こうした作家は概ねマイナーでカルト的であり、大衆になかなか受け入れられなかった過去をふり返ると、浅野はある程度一般に浸透し人気を獲得していること、例え本質が理解されていなかったとしても、これは素晴らしいことだと思う。, 浅野が人気漫画家の仲間入りを果たしたのは、映画化もされた『ソラニン』がきっかけである。, 『ソラニン』はモラトリアムから抜け出したくない若者たちが、モラトリアムを引き伸ばす道を模索し、ある程度の満足を達成した時点で、やはりモラトリアムは続かないから、現実に帰ろうという、言ってしまえばありがちで凡庸な青春群像劇に過ぎなかった。 思い出すことはできても、あの時に受けた、ありのままの感情を蘇らせることは二度とできない。 『おやすみプンプン 6 (ヤングサンデーコミックス)』(浅野いにお) のみんなのレビュー・感想ページです(79レビュー)。 ブログを報告する, 江口寿史のツイッター騒動と漫画家のツイッター利用について思うこと - このページを読む者に永遠の呪いあれ. 地球は毎日、一日に一回転し、朝が来て夜が来て、また朝が来るという、何の変化もない日常がつづいていくという厳然たる現実が地続きになっているからに他ならない。, それでは、6年半という長きにわたって描かれた『おやすみプンプン』というマンガは、われわれに何を伝えようとしたのか。, 自意識にとらわれ、生きることに苦労し、何をするにも上手くいかない一人の青年が、初恋の少女への思いを遂げ、しかし、あっけなく失い、その後もひっそりと世界の片隅で生きているであろう記録。, 『おやすみプンプン』はわれわれに何の教示も与えない。 このように幸は浅野いにおの投影であり、おやすみプンプン と ... その主観の主はハルミンというキャラクターだ。 ハルミンは、小学生編で初登場するプンプンの親友だ。めがねで少し控えめなキャラクター造形は浅野いにお作品にはよく出てくるものである。インタビューにおいても浅野は� 『おやすみプンプン ... 愛子ちゃんが子供の頃からずっと探していた「一緒に逃げてくれる相手」は偶然プンプンが選ばれただけで、結局のところ誰でもよかったのかもしれない。 「運命の相手」というには、二人は幸せな時間の共有が短すぎたし、出会いと別れの反復ばかりだった。 彼女の� かつての大島渚の映画を理解できなかった文化人達がそうしてきたように。, 以前、江口寿史がツイッターで浅野いにおと花沢健吾の写真背景が好きじゃないと批判したことで、炎上したことがあった。, 浅野や花沢の写真による背景は「無機質すぎてあたたかみがない」と言い張るのであれば、感性が鈍いか嘘をついているだけだと思う。, 間違っても自分は、浅野の背景にそういった感想を抱いたことはないし、映画のワンフレームを切り取ったような彼の背景は物語上欠かせない演出としてちゃんと機能している。, 「写真」という人工の道具で作られた背景にも関わらず、無機質どころか下手な手描きよりも叙情を醸しだし、機能している。江口はこうした逆転現象に恐れをなしただけではないだろうか。, 言い換えれば、「王道」とされてきた手描き背景を凌ぐ次世代の漫画表現の、浅野や花沢の写真背景が力を持ちはじめたことの証拠だし、だからこそ江口はそれを否定することで賛同を求めた。, そもそも写真が「無機質」で何も訴えないといった主張は暴言にもほどがある。 浅野の作り出す世界の説得力の強さとは比較にならない。, それが分からないといって「ファッションな憂鬱」と叩くことはたやすいだろう。 いじめの加害者にならないよう取り組む必要があります。 (2)職場のいじめを防止するには 企業が、職場のいじめ防止に取り組むにあたっては、職場の現状 を把握した上で、具体的な対策を講じることが … ところが去りゆくプンプンに手を振ると、プンプンは泣きながら手を振っているのだ。, ハルミンがプンプンの名前を最後まで思い出せなかったように、身を切り裂くような不幸や耐え難いほどの苦痛を受けても尚、生きていけてしまう人という生き物に備わった「忘却」という装置に、プンプンは涙したのだ。, このラストが悲痛なのは、たった一人の死が主人公をどれだけ打ちのめし、彼自身の世界が終わっても、現実の世界は滅びないし、人類も滅亡しない。 | 浅野は『ソラニン』について「王道を描けない者なりに、努力してみた『王道』であり、大衆に迎合するための作品」と言い切っているので、彼にとってはその程度の位置づけでしかないのかもしれない。, 『うみべの女の子』にしろ『おやすみプンプン』にしろ、浅野作品に通底しているのは叙情であるが、それは思春期の少年少女や若者を通じ、成長することで受ける傷や痛み、あるいは幸せも、やがて過去となっていくことの幸福さと残酷さではないかと思う。, 『うみべの女の子』のラスト、高校生になった小梅が幼なじみの少年と地元の海辺で偶然再会し、最後の一ページで海を背景に無邪気に微笑みながら「海!」と呟く姿で、この漫画は幕を閉じる。, 小梅は磯辺との関係で、これ以上にないほど辛い失恋を経験した。そこから1年以上経ち、(磯辺にどことなく似た)新しい彼氏を見つけ、磯辺とのことは過去となり「思い出」に変わってしまった。, このラストが見る者に悲しみを与えるのは、いくら傷ついても人は、時間の経過とともに過去にし、記憶が薄れゆくことで、前に進めるのだという当たり前すぎる現実を描いているからだ。, 「喪失」という言葉が昔から嫌いだった。 「何も与えない」ことが普遍性を帯び、長く語り継がれていく作品になるのだ。, かつて浅野作品を「ファッションな憂鬱」と叩いた増田がいたが、id:kanose氏が, その程度の悩みかよ!みたいに言うのは簡単なことだけど、他人の悩みをそうやって低く見積もってバカにするのは、あんまりエレガントではないと思う, また、その時に比較対象とされた村上春樹の憂鬱さと浅野の憂鬱は、まったく異なるものである。, 村上春樹の小説の登場人物たちは、普段はスタイリッシュでオシャンティーかつ都会的な生活を送っているが、内省には一大事のような憂鬱を抱え込んでいて、その憂鬱の正体は明かされぬまま「何か」どまりで毎回終わってしまう。, こうした思わせぶりな憂鬱こそが「ファッション」と呼ばれるにふさわしく、むしろ村上春樹の描く憂鬱に似ているのは、熱狂的な春樹フォロワーでもある新海誠作品だ。, 『秒速5センチメートル』で描かれた主人公の淡い初恋の記憶は、プラトニックに終わったことにより、清純で美しい青春として昇華され、過去を美化するという捏造で感動に導くという中身のないものでしかない。 転校した後、特に障害もなく無難な人生を歩んでいたハルミンは「人生は思ったより案外生きやすいものだ」と、漠然とそんな感想を抱きながら街中を歩いているところでプンプンと再会する。, ハルミンは今はもう自分がまったく知りえない人たちに囲まれながら生きているプンプンを見、彼も彼の人生を送っているのだと当たり前のことを感じながら、この先、互いの人生が交わることはないであろうことを予感する。 おやすみプンプンの愛子ちゃんの目おやすみプンプンの愛子ちゃんの左目ってなんか濁ってる気がするのですがなんでですか、気になって調べてみてもわからなかったです気にな ります回答待ってます。 お母さんの虐待です。 Amazonで浅野いにおのおやすみプンプン(13) (ヤングサンデーコミックス)。アマゾンならポイント還元本が多数。一度購入いただいた電子書籍は、KindleおよびFire端末、スマートフォンやタブレットなど、様々な端末でもお楽しみいただけます。 Amazonで浅野 いにおのおやすみプンプン (13) (ヤングサンデーコミックス)。アマゾンならポイント還元本が多数。浅野 いにお作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。またおやすみプンプン (13) (ヤングサンデーコミックス)もアマゾン配送商品なら通常配送無料。 前回に引き続き浅野いにお先生の漫画『おやすみプンプン』を自分なりの解釈で読みといていきたいと思います。前回は”信じるとは何かというテーマ”と”読者の解釈が投影できるプンプンのフォルム”について言及しました。今回はその続きで”浅野いにお先生の投影である幸”、”本作のメッセージ”について言及したい。, 前回、幸がプンプンと全く同じひよこフォルムのキャラクターを主人公に新しい漫画を描こうとしているという終盤のシーンについて言及した。つまり、この物語は幸によって描かれたものであるというメタ的な視点があるのだ。言い換えれば幸とは浅野いにおの投影だと言えるのかもしれない。このように、浅野いにおの投影として幸が描写されている場面について言及したい。幸が、プンプンが作った物語を原作として書いた漫画を浅野いにお本人と容姿の似ている漫画編集者に提出するという場面がある。, と言われる。一度その言葉を受けて、大衆に寄せて書いた漫画が浅野氏の長編デビュー作である『ソラニン』であることが判明する。(125話)このように幸の視点を通して、浅野氏自身の自己批評的な視点を入れているのだ。, 『ソラニン』は、宮崎あおいと高良健吾主演で映画化もしたヒット作だ。その一方で、それは読者受けを狙った作品であり、自分の言いたいことが言えた作品ではないという本音を吐露しているようにも読み取れる。ヒット作を生み出し、認知度も上がった“売れた漫画家“になった浅野氏が『ソラニン』の次の長編連載作品として取り組んだ本作は、彼の言いたいことが自由に描かれた作品であるのではないだろうか。浅野氏がインタビューで「この作品を書く為に漫画家になった」という発言しており、その真意はこの点にあるのだと考えられる。, このように幸は浅野いにおの投影であり、おやすみプンプンという物語は幸が作り出した物語ということができるのだ。しかし本作が幸が作り出した作品とう特定の個人の物語ではなく、誰に対しても当てはまる普遍的な物語であるということが示される。次にその点について言及したい。, 本作は、1巻から誰かのナレーションで進行しており、プンプンの内面描写やセリフはナレーション内のかぎカッコの中に描かれている。そのナレーションの声の主は、143話で幸のものであったことが判明する。この143話以降、幸によるナレーションはなくなる。144話では、プンプンの姿が人間の姿として描写され、わずかではあるが吹き出しで彼の口から出た言葉が書かれる。その言葉は「僕の名前は、、、」というものだ。そして145話でも、プンプンの夢の中ではあるものの、吹き出しの中の彼の台詞が描かれる。つまり他者に主観を委ねられていたプンプンという少年が、はじめて自分の主観でこの世界を認識できるようになったと言うことができる。言い換えれば、彼自身の中で自分は何者かということに対する一つの答えが出されたのだ。もちろん、それは読者によって様々に解釈できるが、彼の中では確固たるものとなり、その答えに対して主観を投影することは不可能になった。したがって、人間のフォルムという、それ以外に認識することのできない姿になったのだ。, プンプンが主観を獲得した本作だが、ここでは終わらない。新たな主観で『おやすみプンプン』という物語が捉え直される。その主観の主はハルミンというキャラクターだ。, ハルミンは、小学生編で初登場するプンプンの親友だ。めがねで少し控えめなキャラクター造形は浅野いにお作品にはよく出てくるものである。インタビューにおいても浅野はハルミンというキャラクターを重要視しており、作品の最後に再登場させることも初登場の段階から考えていたものだと公言している。, やがて彼が転校することになり、二人は離れ離れになる。しばらくしてプンプンママが肺気孔で入院している病院で再登場する。二人は幼馴染の母親と息子の幼馴染という関係を知ることなく交流を重ねる。そして彼は最終話で再び登場する。この最終話は彼のナレーションで進行する。1話だけではあるものの、ハルミンの主観で描かれる物語になるのだ。彼はある日歩いていると、退院したプンプンと再会する。彼は、プンプンと同じ小学校に通い遊びあった仲であることを認識してはいるものの、プンプンの名前を思い出せない。, その時のプンプンは前のnoteで言及したように鳥人間のフォルムに戻った状態でいる。145話で人間の姿で描かれたプンプンが、ハルミンの主観では鳥人間のフォルムで写っているのにはいくつか理由が考えられる。プンプンが人間で描かれる144話、145話は、この物語対しての主体性を獲得したプンプンの視点で描かれるため、読者の主観を投影することができない。しかし146話では、ハルミンという他者の視点で進行する。彼はプンプンが壮絶な逃避行を行ったことを知っているはずがない。だからこそ、プンプンは自身の主観を投影できる存在としてのひよこのフォルムとして映るのだと考える。もしくは自分自身でいること=可能性が開かれた状態であるという公式が成り立つため、何者かを自覚したプンプンは可能性が開かれている状態と言える。したがって可能性が開かれた状態の象徴であるひよこのフォルムをしているのだと言えるのかもしれない。, 再会したハルミンは、彼の名前を思い出すことができなかった。そして彼のナレーションで「もう彼を思い出すことはないのかもしれない」と語られる。この何気なく描かれる再会のシーンに、本作のメッセージを集約させるような意味が込められているように思える。それは“人間というものは知らない間にお互いに影響を与え合っており、そのような相互作用の元に成り立っているのだ”ということだと考える。ハルミンは入院中にプンプンママと出会い、彼女の価値観に大きな影響を与えたように、知らない間にプンプンの人生にも影響を与えている。本作の中において、知らないうちに影響を与え合う人間というものについて言及したい。, 後半から主要登場人物となる幸だが、実は前半部にさりげなく登場している。小学生のプンプンが訪れた廃工場でスケッチブックを持った女子中学生が登場する。彼女はその時点では、特にプンプンの物語に関わることなく描かれる。また整形前であり、容姿は中盤で登場する時点と異なっている。幸の母親はその工場で働いていたこともあり、幼少期に母に付いてその工場によく訪れていたということが描かれる。そしてその工場にはプンプンの小学生時代の友人である関くんの父親が弁当を届けており、その父親に連れられた彼は幸とその段階で出会っていたということが判明する。このように本作は人間が知らないうちにお互いに影響し合いながら生きているということが表現されているのだ。, そのような相互作用は一時的なものでなく、循環するものであるということも語られる。循環というものが大きなテーマであることを示唆するような言葉が、死を前に控えた愛子の口から語られる。「きっと無理し続けようとしても、いつか必ずあるべき場所にもどるんだ」(138話), これに加えて、循環を象徴するラストシーンについて言及したい。小学校の先生となったハルミンだが、その容姿はプンプンの小学校の担任教師に容姿が似ている。この担任教師にもハルミンと同じような人生を送っていたのではないかと解釈できる奥行きがある。またハルミンの端にするクラスでは、当時プンプンが愛子に一目惚れしたように、名前も明かされない少年が転校してきた少女に一目惚れをする。そしプンプンがかつて友人たちとしたような「地球っていつか滅亡するんだって」「セックスって何?」「普通って何?」という会話をする小学生たちが描写されて本編は終わる。再びプンプンたちのような物語が始まるかもしれないし、全く別の物語が始まるかもしれないなどいくらでも解釈できるようになっているのだ。, まとめると、人間は知らないうちにお互いに大きく影響し合って生きており、その相互作用は循環し繰り返される無限のサイクルと言える。これは特定の人間においてではく、この世界を生きるすべての人間に当てはまるのだ。このように、幸の主観的な物語という側面が強いとも言える作品だったが、プンプン自身の視点、別の他者であるハルミンの視点を入れることによって、誰か個人の物語ではなく、より普遍性のある物語となったのだ。, また、もう一つ循環というテーマを示唆する場面として雄一おじさんの息子が誕生するシーンについても言及したい。雄一おじさんは結婚した女性翠との間に子供をもうける。プンプンの一族同様、その子供はひよこのフォルムをしている。その子供の目の中に小さな“神様“が描かれている。つまり、暴力衝動や性衝動の象徴であった”神様“は生まれながらにして誰にでも存在するものなのだ。それを目に宿して生まれた息子もプンプンと同じような物語を歩むかもしれないし、そうはならないかもしれない。その子供を見た雄一おじさんは「こんなのただの希望じゃないか」と泣き崩れる。そんな希望の中に絶望を生み出す可能性のある“神様“が宿っているのは、希望にも絶望にもなりうる開かれた未来へと新たな”循環“が始まったとのだと読み取れる。, これから『おやすみプンプン』のメッセージをまとめ上げるために、最後に自分自身でいること=他者と自分を明確に分けることができるということについて述べていきたい。, “自分が自分自身でいること”は“世界を自由に捉えることを可能にする”ということについては前のnoteで言及した。それだけでなく、それは“他者と自分を明確に分けること”だという視点を付け加えたい。, 理解し合えない人間同士の営みは人類が滅亡しない限り、繰り返される。そんな営みに希望を見出すには、他者の主観を尊重することだと言える。そのメッセージの担い手として考えられる宍戸に焦点を当てて述べていきたい。, 「考え方は人それぞれだから、二人とも言ってることは正しいし、二人とも間違ってる。いろんな意見があるのは楽しいね。それでいいじゃない。」(93話), フリーター編から登場する宍戸というキャラクターは、プンプンや幸などを俯瞰した視点で見つめる。そして様々な主観がぶつかり合う本作において、主観の多様性を認める特殊なキャラクターだ。万引き犯に疑われた彼が店員にタックルされ、下半身不随の重傷を負った時でさえ、, と言う。病室で宍戸の看病に来ていた幸らは、彼を万引き犯だと疑った女性やタックルした店員に対して怒りの感情に支配されていた。しかし事故の当事者である宍戸は、誰に対しても怒りの感情をぶつけずに、その女性や店員は自らの主観に基づいた正義を行ったということを肯定するのだ。自分の主観で加害者を一方的に非難しても争いは解決しない、それならそれぞれの主観を尊重し、平和に生きたいと願うのが宍戸という人物だ。人を信じようとする彼は、本作においては異質な存在として描かれる。最終的にプンプンは、自分は何者かということを自覚するが、他者と自分は明確に違うのだということを自覚したことにもなる。そしてそれは他者の主観の存在を認めたと言えるのかもしれない。この変化も宍戸という人物の言動があるからこそ強調されるのだと考える。, これまでで自分の考える『おやすみプンプン』のメッセージを全て書いたのでここでまとめたい。, これは現時点での私の主観に従った『おやすみプンプン』の解釈である。浅野氏は読者の主観の様々なあり方を肯定している。そして「考え方は人それぞれだから、二人とも言ってることは正しいし、二人とも間違ってる。いろんな意見があるのは楽しいね。それでいいじゃない。」という宍戸のセリフの通り、それらの解釈が正しい、正しくないと決めるのもまた主観だ。したがって一つの主観としての自分の解釈も様々あるものの中に一つなのである。, 本作の結末を絶望なのか希望なのかは読者の主観に委ねられている。変に鬱漫画という言葉が先行し、それによって興味を引かれる人も一定数いることも間違いない。しかし本作は、ただの”鬱漫画”では括り切れない奥行きや豊かさのある作品である。ぜひ一読することをお勧めします!, 記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。. 擬音がいっさいない静かな世界と、二人の破滅への旅は、美しい風景と絶望的な会話だけで綴られる。, 白眉は何と言っても、12巻の海辺のシーンだ。殺人事件をきっかけに、ヒヨコの落書きだったプンプンが肉体を持った人として描かれ始めたが、海辺へとつづく道の途中、プンプンは従来のヒヨコの落書きの姿に戻り、愛子ちゃんに突如、こう告げる。, そこから始まる見開きのシーンは、愛子ちゃんが砂浜をはしゃぎながら走り、夕陽をバックにプンプンと波打ち際で抱きあう。 そこからは「ありふれた」青年の「ありふれた」人生ではなくなり、非日常的なものへと様変わりをするにはするのだが……。, しかし作品自体のテンションは変わることはなく、プンプンと愛子ちゃんの逃避行を、静かに、断片の積み重ねで描かれている。行き場を失った若い二人は、悲愴感を漂わせながら、日常のやりとりを繰り返す。 愛子ちゃんが子供の頃からずっと探していた「一緒に逃げてくれる相手」は偶然プンプンが選ばれただけで、結局のところ誰でもよかったのかもしれない。, 「運命の相手」というには、二人は幸せな時間の共有が短すぎたし、出会いと別れの反復ばかりだった。, 彼女の残した遺言−−−あなたがわたしのことを忘れませんように−−−という願いが、残されたプンプンに課せられることとなり、プンプンは愛子ちゃんの願いを叶えるため、犯した罪とともに愛子ちゃんが生きていた証として「業」を背負ったまま生きていくこととなる。, 作中に繰り返し登場する「世界の終焉」の暗示やエピソードは、結局プンプンの世界の中心が常に愛子ちゃんであったように、愛子ちゃんを失った世界はプンプンにとって「世界の終わり」と同義だった。, 愛子ちゃんを失った「世界」は、流れ星は流れず、天の川も見えず、「明けない夜はない」という言葉もむなしくかき消えてしまうほどの暗闇だ。 しかし、プンプン一家のみヒヨコの落書きのような姿をしており、他の登場人物たちは普通の人の姿をしている。, 序盤、プンプンは両親の離婚を経験するが、これも世間を見渡せば、ありふれたできごとにすぎない。終始、ドラマティックな展開も劇的な変化もないままプンプンの日常は進む。, この物語に唯一の核があるとすれば、それは「田中愛子=愛子ちゃん」というプンプンの初恋の少女だ。ところがここでも、プンプンが中学を卒業すると同時に、愛子ちゃんはプンプンの前から姿を消してしまう。プンプンが高校時代に経験するのは、最後まで分かり合えなかった母親の死。, それも関係しているのか、プンプンは高校を卒業してからも愛子ちゃんの存在に縛られつづけられ、陰鬱な日常を送っている。 その意味で、村上春樹や新海誠の憂鬱は、自分にはまったく迫ってこないし、何も訴えてこない。
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