第一次世界大戦でドイツが締結させられたベルサイユ条約は、 ①全植民地の放棄 ②軍備縮小 ③賠償金の支払い という内容となっており、それを履行したためにドイツ経済は悪化の一途をたどっていました。 1933年にドイツでヒトラー率いるナチス・ドイツが政権を取ると、ベルサイユ条約の破棄し、軍拡を始めていきます。 ただし、イギリスをはじめヨーロッパ諸国は第一世界大戦の反省から二度と大戦争を起こさないため「宥和 … 第2次世界大戦・終戦を迎える. 被害者の日本は「 アメリカがソ連との関係を優位にするためだった 」と言います。. (1)1945年2月の昭和天皇と8月の軍部は、戦争を継続する理由をいくつかあげたが、その理由 には当てはまらないものを1つ選べ。 ①敗戦となると、国体の変革を迫られる可能性が高いから避けるべきと考えていたから。 ②どこ 【ホンシェルジュ】 世界恐慌をきっかけに「持てる国」がおこなった「ブロック経済」。第二次世界大戦の原因になったといわれています。この記事では、各国がとった政策の仕組みと、日本がおこなった円ブロックや大東亜共栄圏についてわかりやすく解説。 第二次世界大戦について. 児島襄『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い 10巻』文藝春秋社〈文春文庫〉、1993年。 isbn 978-4167141455。 関連項目. document.write('Copyright © 2005-'+ nowyear +' BeneDict Corporation. 第2次世界大戦の終結は、1945年8月15日に日本がポツダム宣言を受諾した時点であるというのは世界的な共通した見解となっています。 日本でも8月15日は終戦記念日として平和集会などが毎年行われています。 第二次世界大戦で日本が負けた本当の理由を知りたいな。。」という方は少なくないと思います。この記事ではある知人の『憶測』を記しています。新しい気づきに発展するかも。 デジタル大辞泉 - 第二次世界大戦の用語解説 - 日本・ドイツ・イタリアなどの枢軸国とアメリカ・イギリス・フランス・ソ連などの連合国との間で行われた世界的規模の戦争。1939年のドイツのポーランド侵入によって始まり、イギリス・フランスの対独戦争、独ソ戦争、太平洋戦争と拡大した。 では、実際のところはどうだったのでしょうか?. 今日は、第一次世界大戦後の、日本についてかきますね。 第一次世界大戦終戦後の「日本」 大戦景気 第一次世界大戦に、連合国として参戦していた日本は、5大国の一員として「パリ講和会議」に参加しました。そし 第二次世界大戦について. 【ホンシェルジュ】 1914年から4年間続いた第一次世界大戦は、三国同盟と三国協定の対立が発端の最初の世界大戦です。日本も参加していますが、印象が薄い戦争でもあります。今回は日本では第二次と比べ、「忘れられた戦争」とも言われる第一次世界大戦に迫ります。 ドイツ軍が北フランスに侵攻すると、孤立した英・仏軍はダンケルクからイギリス本土に撤退。 同月ドイツ軍がパリを占領した。 1941 … 前回は、第一次世界大戦後のベルサイユ体制の中でナチスが政権を握っていくさまをまとめましたが、今度は第二次世界大戦の勃発と、その後のナチス・ドイツの凋落を追っていきたいと思います。最後は、かの有名なベルリン陥落で幕を閉じます。 加害者のアメリカは「 日本との戦争を早く終わらせるためだった 」と言います。. 第1次世界大戦に続く、大国間を巻き込んだ2回目の大戦争として一般的には知られています。, アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中国を中心とする「連合国」と、ドイツ、イタリア、日本の同盟関係を中心とする「枢軸国」との間で行われた諸戦争を総じて第2次世界大戦とよんでいます。, 第2次世界大戦は1939年のドイツのポーランド侵攻に始まり、1945年8月15日に日本がポツダム宣言を受諾するまでの期間というのが一般的な解釈です。, という内容となっており、それを履行したためにドイツ経済は悪化の一途をたどっていました。, 1933年にドイツでヒトラー率いるナチス・ドイツが政権を取ると、ベルサイユ条約を破棄し軍拡を始めていきます。, ただし、イギリスをはじめヨーロッパ諸国は第一世界大戦の反省から二度と大戦争を起こさないため「宥和政策」を行い、ドイツの軍拡に譲歩しました。, しかし結果的にこのことがドイツの暴走を招き、1939年のポーランド侵攻に対してイギリスとフランスが宣戦布告したことによってヨーロッパ全土を巻き込む大戦争と発展をしていきます。, 1930年以降の日本の政権も英米との友好関係を築くことよりも軍拡によってアジア太平洋地域で影響力を持とうとしました。, 特に日本軍は朝鮮地域と満州の利権については一切の譲歩をしないという姿勢を示し、アメリカとの関係は年々、悪化をしていきます。, その関係悪化が引き金となり、世論の後押しもあったため、日本は対米戦争へと向かっていきます。, 1940年にドイツ・イタリアと同盟関係を結ぶと、1941年に真珠湾攻撃を行い、日本も本格的に第2次世界大戦に参戦することとなりました。, 第2次世界大戦の死者数については、公式な数字が各国から出ているわけではなく全体の数字を正確にすることは難しいといわれています。, ただし総計すると、5000万人から8000万人ほどの軍人、民間人の犠牲者が出たといわれています。, また日本の被害者数は310万人(軍人230万人、一般人30万人)というのが公式的な数字といえます。最も多いのはドイツで、500万人から600万人以上の犠牲者が出ました。, 第1次世界大戦での全世界での死者数が1600万人から1800万人といわれているため、その被害の規模は3倍から5倍にも及びます。, これだけ多くの死者数が出た背景には、1つは軍事科学技術が格段に進歩したことによって殺傷能力の高い武器が使用されたことがあり、もう1つは、軍人だけではなく多くの民間人が犠牲になったことが理由として挙げられます。, 日本にとっては第2次世界大戦という呼び方よりも太平洋戦争という呼び方の方が広く認知をされています。, 太平洋戦争の期間は第2次世界大戦の期間と重なっており、1941年に日本が真珠湾攻撃を行った時点から1945年のポツダム宣言の受諾をした日までが太平洋戦争の期間となります。, そのため、日本では第2次世界大戦よりも太平洋戦争または大東亜戦争という言い方をします。, しかし太平洋戦争(大東亜戦争)については1930年の満州事変から出来事を含めるべきであるという意見もあり、用語の使用については様々な見解があります。, いずれにしても、日本は第2次世界大戦の敗戦国となり、敗戦後連合国軍の占領下に置かれるなど、第2次世界大戦を境に国家としての体裁が大きく変わることとなりました。, 国際社会の中では帝国主義を体現するアジアの一強国として第2次世界大戦までは発言力も強く持っており、国際社会の中でも軍事力を背景としてプレゼンスが高い国でした。, しかし、第2次世界大戦以降は軍事力ではなく経済力によってプレゼンスを高めていくことに方向転換をしました。, 国内の政治体制も大きく変わり、明治憲法下の天皇主権の立憲君主制から、国民が主権者となる民主義体制になりました。, こうした変化は第2次世界大戦後のGHQ(連合国総司令部)の戦後統治の政策が大きく影響しており、自由経済、民主主義、憲法改正の実現が指示されたことによって、日本の戦後のあり方を決定づけたといえます。, 第2次世界大戦の終結は、1945年8月15日に日本がポツダム宣言を受諾した時点であるというのは世界的な共通した見解となっています。, ただし、8月15日はポツダム宣言を受諾した日であって最終的に調印をしたのは9月2日であり、戦争が終戦したという意味では9月2日であるという見解もあります。, また、世界的な終戦日は8月15日となっていますが、各国の終戦日というのはこれとは違います。, 例えば中国は、1972年に日中共同宣言によって終戦を迎えたということになっており1945年時点は「休戦」ということになっています。, 他にもヨーロッパでは5月8日にドイツが降伏条約に調印した日を「ヨーロッパ戦勝記念日」として定めており、この時点でヨーロッパにおける第2次世界大戦が終結したと考えられています。, 第2次世界大戦が終結したことにより、ファシズム(独裁政権が外国に対して侵略政策をとる)が終わり、資本主義と社会主義の対立という新たな段階へと時代は向かっていきます。, その意味で、第2次世界大戦まで続く各国の植民地支配を是としていた帝国主義的政策が認められない時代が到来したということが分岐点としての第2次世界大戦の意義になるでしょう。, 第2次世界大戦によって全世界で5000万人から8000万人の死亡者が出たことがその後の大国間の戦争の抑止力になっていることは間違いありません。, 終戦間際に日本の広島と長崎に投下された原爆の威力はそれまでの軍事兵器とは比べものにならない威力と残酷さを有していました。, 原爆によって広島では約14万人、長崎では約8万人の人が一瞬にして命を落としました。, この被害規模を目の当たりにした世界の国々は二度とこうした戦争を起こさないようにしなければならないとお互いをけん制し合っています。, このように、第2次世界大戦はそれ以前の戦争とは比べものにならない被害を世界にもたらしました。, しかし、軍事技術は発展し続け、現在の核兵器の威力は広島に投下されたものの3300倍あるといわれ、万が一どこかで爆発したとすると地球の半分の人類が消滅するといわれています。, 第2次世界大戦は大国間の軍事衝突の象徴的な出来事であり、人類の歴史史上最も多くの死亡者数を出した戦争でした。, この戦争によって、二度と大国間の戦争を起こしてはいけないという教訓を各国が学ぶ契機となったこと、そして帝国主義の終焉をさせたという2つの大きな意味があったといえます。. サラエヴォ事件と第一次世界大戦の勃発 バルカン半島のボスニア=ヘルツェゴビナは、1908年の時点でオーストリアに併合されていました。この地域にはスラヴ系民族も多く、彼らはパン=スラヴ主義のもと、オーストリアの支配に対する反対運動を繰り広げていました 第二次世界大戦が勃発したのは、1939年9月1日にドイツがポーランドに侵攻したのに対して、2日後、イギリスとフランスが宣戦布告し、戦争は始まりました。 その後、戦争は世界中に広がりますが、1945年までには、すべての地域で、戦争は終結します。 第二次世界大戦国別死者数: 1)ソ連 … ドイツのポーランド侵攻によって始まった第二次世界大戦。続く日本の真珠湾攻撃から始まった日米開戦により、ヨーロッパとアジア・太平洋を主戦場とする、世界規模の大戦争となった。5千万人以上といわれる犠牲者を出した戦争は、連合国の勝利に終わった。 nowyear = now.getFullYear(); '); 「1.オーストリア・チェコスロヴァキア」は、ドイツ人が多数住んでいたから、「2.ポーランド回廊とダンツィヒ」は元々ドイツ領だったからである。つまり、この2つに関しては、ヒトラーに「侵略」の意識はなかった。明確に侵略と意識していたのは「ロシア征服」である(かなり正当化されていたが)。, その結果、生まれたのがヒトラーの究極の戦略「東方生存圏の拡大」だった。 つまり、ヒトラーの「ロシア征服」は、アレクサンドロス大王の東方大遠征のような無邪気な冒険心や、チンギスハーンの, のような燃えるような復讐心に起因するのではない。「国民を飢えさせない」ためだった。皮肉なことに、その結果、ドイツは地獄世界に落とされたのだが。. 第二次世界大戦が終わった理由を教えてくれませんか??? 第一次世界大戦から第二次世界大戦までは、実にあらゆる出来事が世界を取り巻いています。 教科書通りに読み進めて行くと、なかなか流れがつかみづらいので、今日は総括的な話にしたいと思います。 第二次世界大戦は敵対する国を作り互いに戦わせて支配する通貨発行権戦争屋の仕組んだ双頭の鷲戦争。 ヒトラーもスターリンもユダヤ人。 イギリス、フランスは既にロスチャイルドの支配国。 アメリカルーズベルトもユダヤ人。 第二次世界大戦をわかりやすくまとめていきます。その歴史や原因、参加国や犠牲者、そして年表などを項目別に見ていきましょう。人類史の中で世界は数々の戦争を見てきましたが、1939年から1945年に起こった世界第二次世界大戦は、世界のほとんどを巻 第二次世界大戦のヨーロッパ戦線は、ドイツのポーランド侵攻によって、イギリス・フランスとドイツが開戦した事から始まった。 1941年から独ソ戦も開始された。 1939年9月 ドイツ、ポーランド侵攻 1. (1)1945年2月の昭和天皇と8月の軍部は、戦争を継続する理由をいくつかあげたが、その理由 には当てはまらないものを1つ選べ。 ①敗戦となると、国体の変革を迫られる可能性が高いから避けるべきと考えていたから。 ②どこ 世界で第二次世界大戦 が ... 終結記念日を1日ずらした理由. イタリアの降伏(1943年 9月8日):終戦に先立つイタリア王国の枢軸国離脱。 ヨーロッパ戦勝記念日; ポツダム協定 中国(9月3日) 第二次大戦後の1949年に建国され ... 終戦の日 第二次世界大戦. サラエヴォ事件と第一次世界大戦の勃発 バルカン半島のボスニア=ヘルツェゴビナは、1908年の時点でオーストリアに併合されていました。この地域にはスラヴ系民族も多く、彼らはパン=スラヴ主義のもと、オーストリアの支配に対する反対運動を繰り広げていました All Rights Reserved. 事はそう簡単な話ではありません。. 実は硫黄島の戦いに対する海外の反応... https://history-go.com/wp-content/uploads/2020/08/IHOUJIN-2.png. 日本の降伏(にっぽんのこうふく、にほんのこうふく)とは、通常、第二次世界大戦(太平洋戦争)末期の大日本帝国による「ポツダム宣言」受諾(1945年8月14日)から降伏文書署名(同年9月2日)に至るまでの過程を指す。 以下、日本及びその各占領地における経過を説明する。 1939年8月に独ソ不可侵条約を結んだドイツはポーランドに侵攻。 これに対し、英・仏が宣戦して第二次世界大戦が始まった。 1940年6月 連合軍、ダンケルクから撤退 1. 63 第二次世界大戦における日本の戦争終結―「終戦」の意味と要因― 庄司 潤一郎 第二次世界大戦において、1943(昭和18)年1月のカサブランカ会談で宣言された無条 件降伏の方針は、戦争の終結をより困難なものとし、確かにドイツは、ベルリンの陥落ま 第一次世界大戦と第二次世界大戦がおきた理由って何だったんでしょうか?。 学生時代に習ったはずなのにまったく覚えていません。 直接的なきっかけを知りたいんですが。どちらも植民地と言う名の甘いケーキの奪い合いです。WW1 63 第二次世界大戦における日本の戦争終結―「終戦」の意味と要因― 庄司 潤一郎 第二次世界大戦において、1943(昭和18)年1月のカサブランカ会談で宣言された無条 件降伏の方針は、戦争の終結をより困難なものとし、確かにドイツは、ベルリンの陥落ま こちらをご覧下さい。 1941年時点の日・米・英の海軍戦力比較表です。 太平洋戦争 - Wikipedia より(出典:松村劭著 『新・戦争学』 文芸春秋 2000年8月20日第1刷発行、ISBN 4166601172、49頁) よく第二次世界大戦で、日本は無謀にも弱小国なのに大国に刃向かった。 こちらをご覧下さい。 1941年時点の日・米・英の海軍戦力比較表です。 太平洋戦争 - Wikipedia より(出典:松村劭著 『新・戦争学』 文芸春秋 2000年8月20日第1刷発行、ISBN 4166601172、49頁) よく第二次世界大戦で、日本は無謀にも弱小国なのに大国に刃向かった。 145 第二次世界大戦の終結とインテリジェンス組織 小谷 賢 本報告は、第二次世界大戦終結70年という節目の年に、終戦とインテリジェンスに何ら かの関係性を見出すことにある。 ネヴィル・チェンバレン首相は一言。。... この記事では「硫黄島の戦い」とは、アメリカや海外からどのような評価うけているのかみていきます。 第二次世界大戦 第二次世界大戦とは1939年にドイツのヒトラー率いるナチス党がポーランドに侵攻。 当時、ポーランドと同盟を結んでいたイギリス、フランスがそれに対抗しドイツに宣戦布告したことにより始まりまった戦争です。 歴史の方程式 歴史は偶然か必然か? もし、歴史が必然なら、「歴史の方程式」が存在するはず ・・・ ぐずぐずしてはいられない。さっそく探し出さなくては。もし、発見できれば、アインシュタインと並ぶ名声が得られるかも。しかも … 続きを読む 第二次世界大戦の原因~戦争の引き金~ 1939年9月3日イギリスはドイツに宣戦を布告し、第二次世界大戦の火ぶたが切って落とされました。 第二次世界大戦は敵対する国を作り互いに戦わせて支配する通貨発行権戦争屋の仕組んだ双頭の鷲戦争。 ヒトラーもスターリンもユダヤ人。 イギリス、フランスは既にロスチャイルドの支配国。 アメリカルーズベルトもユダヤ人。 第二次世界大戦は、1939年9月から1945年8月まで、日本・ドイツ・イタリアの枢軸国とイギリス・フランス・中国・ソ連・アメリカなど連合国との間で起きた、世界的規模の戦争 … 第二次世界大戦で日本が負けた本当の理由を知りたいな。。」という方は少なくないと思います。この記事ではある知人の『憶測』を記しています。新しい気づきに発展するかも。 第一次世界大戦のきっかけと終わりで押さえておきたいポイント ※赤字部分が問題に出そうな部分です。赤色の暗記シートなどで隠して見てください。 第一次世界大戦のはじまり ・1914年6月28日、オーストリア帝国の皇位継承者フランツ=フェルディナント 第二次世界大戦で対米宣戦する当初からそう思っていたようです。 山本五十六は開戦前に「最初の二年は暴れに暴れ回ってみせます。その間に講和をしてください」と発言しています。つまり最初から負けを見越していた訳です。 デジタル大辞泉 - 第二次世界大戦の用語解説 - 日本・ドイツ・イタリアなどの枢軸国とアメリカ・イギリス・フランス・ソ連などの連合国との間で行われた世界的規模の戦争。1939年のドイツのポーランド侵入によって始まり、イギリス・フランスの対独戦争、独ソ戦争、太平洋戦争と拡大した。 第二次世界大戦 第二次世界大戦とは1939年にドイツのヒトラー率いるナチス党がポーランドに侵攻。 当時、ポーランドと同盟を結んでいたイギリス、フランスがそれに対抗しドイツに宣戦布告したことにより始まりまった戦争です。 日本が第二次世界大戦に参戦した理由とかもよくわかってないんだよな。欧米列強の植民地支配に対抗しようとしたんだっけ?やばいわかんないことだらけだ — どんたこす (@4620112015) March 22, 2014. 日本は第二次世界大戦で敗戦した。 原爆が投下された理由には、当時の複雑な世界情勢と外交が絡んでいます。. 第二次世界大戦(World War II:WW II / WW2)は、1939年から1945年まで続いた世界的規模の戦争。 列強といわれた国々を全て含む世界の大多数の国々が最終的に、 という2つの相対する軍事同盟を結成し、30ヵ国以上、1億人以上の人々を直接的に巻き込んだ総力戦でした。 また、第二次世界大戦の主要参加国は、経済、産業、科学全般にわたる国力すべてを大戦に投入した結果、民間人と軍人の区別も曖昧になるほどの規模となりました。 第二次世界大戦はこれまでの人類史において史上最悪の戦争で … 第一次世界大戦のきっかけと終わりで押さえておきたいポイント ※赤字部分が問題に出そうな部分です。赤色の暗記シートなどで隠して見てください。 第一次世界大戦のはじまり ・1914年6月28日、オーストリア帝国の皇位継承者フランツ=フェルディナント 第2次世界大戦の戦死者第二次世界大戦の世界中での死者数は6000万〜8000万人。これには直接的な戦闘での死者だけでなく、餓死や病死の人も含んでいる。国別死者数 ソ連 2,660万人 中国 1,320万人 ドイツ 690万人 ポーラ now = new Date(); 第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、英: World War II 、略称:WWII、中国語: (繁体字)第二次世界大戰 、ドイツ語: Zweiter Weltkrieg 、イタリア語: Seconda guerra mondiale 、フランス語: Seconde Guerre mondiale 、ロシア語: Вторая мировая война)は、1939年から1945年までの6年余りにわたって … ドイツはなぜ、第二次世界大戦を起こしたんですか?第一次世界大戦で敗戦し、軍事力も国力も低下したのにも関わらず、なぜ序盤のポーランド戦では恐ろしいほどの快進撃をしたのか? なぜ不可侵条約を結んだソ連に攻め込んだのか?日本が 日本は第二次世界大戦で敗戦した。 今日は、第一次世界大戦後の、日本についてかきますね。 第一次世界大戦終戦後の「日本」 大戦景気 第一次世界大戦に、連合国として参戦していた日本は、5大国の一員として「パリ講和会議」に参加しま … 第二次世界大戦は、1939年9月から1945年8月まで、日本・ドイツ・イタリアの枢軸国とイギリス・フランス・中国・ソ連・アメリカなど連合国との間で起きた、世界的規模の戦争 … 第二次世界大戦が始まるきっかけは、1920年代に起きたニューヨーク株式市場の株価の変動にあった。この大恐慌のニュースが、第一次世界大戦後の世界を支配していた新たな世界秩序を次々に崩壊させて … 枢軸国が降伏したからです。1943年7月にムッソリーニ政権が崩壊し、イタリアが降伏しました。1944年になると、フィンランドが単独講和をした … 第一次世界大戦の結果、イギリスは戦勝国ではあったが、戦争のために疲弊し、また植民地でも反英独立運動が活発になってその統制は弱まり、19世紀中ごろからの「大英帝国」の繁栄、第二帝国またはパックス=ブリタニカといわれた状況は終わりを告げることとなった。 終戦から75年という歳月が経ちながら、近年は第二次世界大戦中を題材にした映画作品が非常に多いと思ったことはないだろうか?そこには奥深い歴史の裏に隠された大きな理由があったのだ。そして現代に歴史系映画を観る意義とは? 歴史の方程式 歴史は偶然か必然か? もし、歴史が必然なら、「歴史の方程式」が存在するはず ・・・ ぐずぐずしてはいられない。さっそく探し出さなくては。もし、発見できれば、アインシュタインと並ぶ名声が得られるかも。しかも … 続きを読む 第二次世界大戦の原因~戦争の引き金~ 第一次世界大戦から第二次世界大戦までは、実にあらゆる出来事が世界を取り巻いています。 教科書通りに読み進めて行くと、なかなか流れがつかみづらいので、今日は総括的な話にしたいと思います。 世界各国では第二次世界大戦が終わった日はいつか。 日本では8月15日が終戦の日とされていますが、一体海外ではいつが終戦日とされているのでしょうか。 そこで、いくつかの国をピックアップして紹介していきます。 ・アメリカ 第二次世界大戦の敗戦国である日本やドイツは,戦後70年たっても,いまだに非難されています。イタリアに関しては,そういった非難を聞かないのはなぜでしょうか?また,敗戦国が被害を与えた国に対して謝り続けなければいけないのはあと ドイツはなぜ、第二次世界大戦を起こしたんですか?第一次世界大戦で敗戦し、軍事力も国力も低下したのにも関わらず、なぜ序盤のポーランド戦では恐ろしいほどの快進撃をしたのか? なぜ不可侵条約を結んだソ連に攻め込んだのか?日本が 第二次世界大戦が始まるきっかけは、1920年代に起きたニューヨーク株式市場の株価の変動にあった。この大恐慌のニュースが、第一次世界大戦後の世界を支配していた新たな世界秩序を次々に崩壊させて … もし、歴史が必然なら、「歴史の方程式」が存在するはず ・・・ ぐずぐずしてはいられない。さっそく探し出さなくては。もし、発見できれば、アインシュタインと並ぶ名声が得られるかも。しかも、これさえあれば、未来はすべてお見通し ・・・ でも、現実の歴史は、偶然か必然かはっきりしない。結局、偶然か必然かは、確率で表すしかないのだろう。, とはいえ、統計学的には、「確率 > 85%」なら「偶然」ではない。 たとえば、コインを投げて、表が出るか裏が出るかは偶然である。しかし、100回コインを投げて、表が85回を超えるなら、何か仕掛けがあるのだ。つまり、必然が潜んでいる。というわけで、「発生確率 > 85%」なら必然と考えていいだろう。, では、第二次世界大戦は偶然か必然か? まず、戦争を起こすにはエネルギーと引き金が必要だ。 第二次世界大戦前夜、エネルギーは満タンで、はちきれんばかりだった。あとは引き金を引くだけ。実際、1929年の大恐慌から20年以内に戦争が起こる可能性は極めて高かった。計算するまでもなく、発生確率はほぼ100%。これを必然と言わずして、何が必然なのか。, 実際、1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、それを機に、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。 ところが ・・・ 第二次世界大戦は必然だが、このタイミングで世界戦争が始まる確率は低かった。というのも、ヒトラーはポーランドに侵攻するつもりはなかったのである。さらに、仮にドイツ軍がポーランドに侵攻しても、イギリスがドイツに宣戦布告するのは常識的にはありえない。つまり、この時期、世界戦争には二重のロックがかかっていたのである。, では、なぜ、1939年9月1日に第二次世界大戦が起こったのか? まず、第二次世界大戦の潜在的原因が山のようにあった。つまり、戦争のエネルギーが臨界点寸前だったのである。中でも、最強の潜在要因が「ドイツの恨み」だった。 1918年11月、第一次世界大戦が終わり、翌年、ヴェルサイユ条約が締結された。連合国とドイツの講和条約である。ところが、実態は敗者(ドイツ)に対する勝者(連合国)の復讐だった。戦争の全責任をドイツに押しつけ、凄まじい罰をドイツに課したのである。, 具体的には ・・・ ドイツの鉄鉱石の90%を産出するアルザス・ロレーヌ地方がフランスに割譲され、石炭と工業生産の中心地ザール地方が国際連盟の管理下におかれた。つまり、鉱工業の心臓を握りつぶされたのである。さらに、ベルギー、ポーランド、デンマークにも領土を取られ、ドイツは本土の13%を失った。さらに、海外の植民地もすべて奪われた。あげく、返せる見込みのない途方もない額の賠償金まで課せられたのである。, 結果 ・・・ ドイツは凄まじいモノ不足に陥った。そこで、ドイツ政府は、購買力を高めようと紙幣を大量に刷ったが、これが裏目にでた。「カネ > モノ」を加速したのである。結果、史上最悪のハイパーインフレに陥った。 店でコーヒーを注文すると、飲み終わるまでに値段が2倍になるとか、給料が出たらすぐに店に行って、モノに変えないと紙くずになるとか、ネタとしか思えない事態が頻発した。さらに、年金が紙くずになり、絶望した老人の自殺が後を絶たなかった。食糧難も深刻で、闇市に人肉缶詰が売られているというウワサもあった。弱り目に祟り目、踏んだり蹴ったりだった。, ドイツ国民は、この惨状の原因がヴェルサイユ条約にあると信じて疑わなかった(真実なのだが)。そして、連合国を心から恨んだのである。さらに、民主主義と平和主義の象徴といわれたワイマール共和国政府(当時のドイツ政府)でさえ、国防軍に対し、 「もはや、連合国と一戦交えるしかない。勝算はあるか?」 と問いただす有様だった。もちろん、国防軍の回答は「勝ち目なし」だった。, ところが、一方で、ドイツ陸軍総司令官ハンス・フォン・ゼークトは、1923年1月31日、共和国政府に対し、 「フランス占領にはドイツ再軍備で対抗を!」 と進言している(この頃、ドイツの軍事力は警察なみに制限されていた)。 第一次世界大戦が終わって、わずか4年後のことである。ドイツがいかに追い込まれていたかがわかる。, 一方で、戦争を抑制する力も存在した。 当時、ヨーロッパ諸国は、第一次世界大戦の戦傷から回復していなかった。戦争で、2000万人もの犠牲者をだし、膨大な資源を消耗したのである。そのため、強い厭戦気運がヨーロッパ全土をおおっていた。 つまり、この時代、「ドイツの恨み」と「ヨーロッパの厭戦気運」が天秤の左右でバランスをとっていたのである。 では、「恨み > 厭戦」で、第二次世界大戦が勃発した?, 天秤が台座ごとひっくり返ったのである。それほど、この時代は混乱していた。「ありえない」、「想定外」が連発し、歴史の流れが寸断され、そこへ、「ドイツの恨み」というマグマが吹き上げた。結果、誰も望んでいない第二次世界大戦に突入したのである。 では、天秤の台座をひっくり返したのは誰か? つまり、第二次世界大戦の引き金を引いたのは ・・・ ナチスドイツのヒトラー? ノー!, 1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻し、第二次世界大戦が始まった。 ヒトラーは名うての侵略者だから、隣国のポーランドに侵攻するのは必然、さらに、フランス、ロシアにも侵攻したが、ヒトラーの目標は世界征服にあるのだから、これも必然。最後にドイツは降伏したが、最強国アメリカにかなうわけがないから、これも必然。 つまり、全部、必然?, 実際、欧米の歴史家の多くは、第二次世界大戦の始まりも結末も必然だとしている。もちろん、強気でならしたイギリスのチャーチルは、自らの回顧録で、開戦から勝利まですべて必然、と自画自賛。 しかし、本当にそうだろうか? 現実は複雑である。 原因と結果がシームレスに、大河が流れるように連続しているわけではない。流れが急変したり、どんでん返しがあったり、「ありえない」不連続点が無数存在するのである。 この現実世界も、無数あるシナリオの中で、最も発生確率が低いように思える。そのぶん、歴史の因果関係がぼやけ、原因と結果がうまくつながらない。だから、歴史の原因を見誤るのである。 たとえば ・・・ 現在、「第二次世界大戦の引き金を引いたのはヒトラー」は常識になっている。実際、ヨーロッパとロシアに侵攻しているし、動機はたぐいまれな「征服欲」というわけだ。, しかし ・・・ ヒトラーは世界征服はおろか、ヨーロッパ征服さえ望んでいなかった(少なくとも開戦前は)。それを証明する事実がある。 ドイツ軍がポーランドに侵攻した2日後の9月3日午前9時のことである。イギリス政府はドイツに最後通牒を通達した。 「午前11時までに、ドイツ軍がポーランドから撤退しない場合は、イギリスはドイツと戦争状態に入る」 イギリスのドイツに対する事実上の宣戦布告である。, この最後通牒を受け取ったドイツ外務省の通訳官シュミットは、総統官邸に飛んで行き、ヒトラーと外務大臣のリッベントロプに報告した。そのときの様子がシュミットの日記に記されている ・・・ ヒトラーは執務室の机にすわり、リッベントロプは右脇の窓際に立っていた。シュミットが最後通牒を翻訳すると、ヒトラーは化石のように身じろぎもせず前方を凝視していた。机に座ったまま不動の姿勢をとりつづけた。やがて、ヒトラーは硬直して、窓際に立っているリッベントロプを振り返り、, と憤怒の光の目をして尋ねた。それはイギリスの出方について、彼にミスリードしたことへの釈明を求めるようだった(※2)。, つまり、ヒトラーは、イギリスとの戦争は想定外だったのである。 実際、この時期、ヒトラーの望みで確実なのは ・・・, ぐらい。「1.オーストリア・チェコスロヴァキア」は、ドイツ人が多数住んでいたから、「2.ポーランド回廊とダンツィヒ」は元々ドイツ領だったからである。つまり、この2つに関しては、ヒトラーに「侵略」の意識はなかった。明確に侵略と意識していたのは「ロシア征服」である(かなり正当化されていたが)。, ではなぜ、ヒトラーは「ロシア征服」に執着したのか? 定説によれば、ヒトラーの偏屈な思想のせい。具体的には ・・・ 1.スラヴ人(ロシアの主要民族)は劣等民族である(ユダヤ人ほどではないが)。 2.ボリシェヴィキ(レーニン式共産主義)は文明の破壊者である。 3.そんな劣った民族・国家が、豊かな資源を有するロシアを独り占めにするのは許せない。上等なゲルマン民族に明け渡すべきである。 いかにもありそうな話で、眉唾のような気もするが、ヒトラーの著書「わが闘争」そのままなので間違いない。 ただし、もっとまともな?理由もあった。 ヒトラーの政策の基本は、1937年11月の「ホスバッハ覚書」に記されている。, その一部を要約すると ・・・ 人口が増大するドイツは、資源が不足し、とくに、食糧不足は深刻である。自給自足は望むべくもないが、外国から買うこともできない(ヴェルサイユ条約で課せられた賠償金で外貨が不足)。しかも、世界大恐慌で、「持てる国」はブロック経済を採っているので、貿易で外貨を稼ぐこともできない。ゆえに、生存圏の拡大が必要である。東ヨーロッパ(ロシアを含む)の人口希薄な地域に、農耕地を獲得するのである。それも、遅くとも、1945年までに。それ以後になると、過剰人口で食糧危機が切迫するからである。, その結果、生まれたのがヒトラーの究極の戦略「東方生存圏の拡大」だった。 つまり、ヒトラーの「ロシア征服」は、アレクサンドロス大王の東方大遠征のような無邪気な冒険心や、チンギスハーンの西方大遠征のような燃えるような復讐心に起因するのではない。「国民を飢えさせない」ためだった。皮肉なことに、その結果、ドイツは地獄世界に落とされたのだが。, そもそも、ヒトラーはイギリスのチャーチルのような戦争屋ではなかった。 たとえば、中立国のノルウェーを戦場にしたのは、ヒトラーではなく、チャーチルの方だった。当初、ヒトラーはノルウェーの中立を尊重し、侵攻するつもりはなかった。ところが、1939年9月19日、チャーチルは内閣に、ノルウェー領海内に機雷の敷設を許可するよう迫ったのである。ノルウェーの船舶がドイツにスウェーデン産の鉄鉱石を輸送するのを阻止するために。 もちろん、イギリスの閣僚の多くは反対した。イギリスは紳士の国である。小国とはいえ、ノルウェーの中立を侵すことを嫌悪したのである。ところが、チャーチルはおかまいなしだった。これに危機感を覚えたヒトラーは、先手を打って、ノルウェーに侵攻したのである。鉄鉱石を止められてはたまらないから。, ところが ・・・ 第二次世界大戦後のニュルンベルク裁判で、「ノルウェー侵攻」がドイツの罪状に加えられている。先攻したのはドイツではなくイギリスなのに、とんだ濡れ衣である。高名な軍事史研究者リーデル・ハートも、こう言っている。 「ニュルンベルク裁判で、ドイツ軍の主要な罪名の中に、ノルウェーの侵略を加えているが、厚顔無恥な話である」(※1) ちなみに、リーデル・ハートはイギリス人である。 それにしても、どうして、こんなメチャクチャがまかり通るのだろう?, じつは、ドイツを裁いたニュルンベルク裁判も、日本を裁いた極東軍事裁判も、戦争犯罪を裁いたわけではない。結果をみれば明々白々だが、勝者が敗者を裁いただけ。敗者が悪 ・・・ 正義の仮面をかぶった「勝者の復讐裁判」だったのである。 そもそも、ヒトラーにノルウェーを攻める余裕はなかった。最終目標の「ロシア侵攻」に備え、兵力を温存する必要があったのだ。実際、オーストリア・チェコスロヴァキアはお得意の脅迫外交でもぎとっているし、ポーランド回廊・ダンツィヒも外交で片をつけるつもりだったのである。 もちろん、ヒトラーには正当な?理由もあった。 ポーランド回廊は、ドイツと東プロイセンを分断し、国土を飛び地にしていた(ドイツにとって不便)。さらに、ダンツィヒは重要な貿易港で、ドイツ人が多く住んでいた。それに、ポーランド回廊もダンツィヒも、元々ドイツ領だったのである。敵対するイギリスでさえ、この件ではドイツに同情的だった。, そこで、ヒトラーはポーランドに対し、”寛大な”申し出をした。 ポーランド回廊とダンツィヒはドイツに返還してもらう。その代わり、ドイツはポーランドに侵攻しない(ポーランド回廊については、ドイツと東プロイセンを結ぶ治外法権的な鉄道・道路の建設を要求)。 どこが”寛大”かはさておき ・・・ ポーランドの外相ヨゼフ・ベックはこの要求を拒否した。もちろん、ヒトラーは激怒した。なぜ、こんな”寛大な”申し出を拒否するのか?! それにしても、ポーランドはなぜこれほど強気になれたのか? ヒトラーの自己中的・唯我独尊の性格を考えれば、 「要求拒否=武力侵攻」 は見えているのに。その場合、ポーランドに勝ち目がないことは計算できただろう。, じつは、「ポーランドの強気」の原因はイギリスにあった。 イギリス? 1939年3月29日、世界が仰天する事件が起こった。ドイツに融和的だったイギリス首相チェンバレンが心変わりし、今後、ドイツには一切妥協しないと言い放ち、「ポーランドに対し安全保障」を約束したのである。 イギリスがポーランドに安全保障? もし、ドイツがポーランドを攻撃すれば、イギリスはドイツを攻撃する ・・・ 今日本で話題の集団的自衛権である。, そこで、フランスも”しぶしぶ”、ポーランドに対し安全保障を約束した。 しぶしぶ? フランスは戦争に巻き込まれたくなかったのである。 第一次世界大戦で、フランスは凄惨な塹壕戦を経験した。塹壕とは、敵の銃弾から身を隠すための不衛生な通路で、そこで、多くの兵士が病死した(戦闘ではなく)。その悲惨な戦闘はレマルクの小説「西部戦線異状なし」で忠実に描かれている。フランス人はこの小説を何度も読み返し、戦争は二度と御免だと思ったのである。 とはいえ、フランスは、イギリスの助けなしではドイツに対抗できない。イギリスにへそを曲げられたら大変だ。そこで、”しぶしぶ”追随したのである。, 一方、ポーランドは、この安全保障で勢いづいた。イギリスとフランスが助けてくれるなら、ドイツ軍など恐れるに足らず。さらに、ポーランドを強気にさせた理由がもう一つあった ・・・ 自国の軍隊に的はずれな自信。というのも、20年前、ポーランドは大国ロシア軍に勝利していたのである。, ところが ・・・ ポーランド軍は時代遅れだった。軍の首脳部は、第一次世界大戦ですでに無用の長物と判明した騎兵に頼り、悲壮な騎兵突撃を夢想していた。さらに、ポーランド騎兵が華々しくベルリンに入城することまで夢見ていたのである。 一方、ドイツ軍の主力は、戦車と航空機だった。 こうして、ポーランドは勇敢にも、ヒトラーの要求を拒否したのである。 しかし ・・・ イギリスのポーランドに対する安全保障は「常識外れ」、「ありえない」だった。イギリスの国益に反するどころか、国を滅ぼす可能性さえあったのだ。事実、この時、イギリス元首相で下院議員のロイド・ジョージはこう警告している ・・・ 「ソ連の援助を確認せずに、かかる重大な責任を引き受けるのは、自殺に等しい愚行である」, 具体的に説明しよう。 当時の陸軍力は、空軍支援力も考慮すると、 ドイツ軍 > フランス軍+イギリス大陸派遣軍(フランスに駐屯するイギリス軍) でも、フランス陸軍はヨーロッパ最強だったのでは? たしかに ・・・ 実際、イギリス軍の参謀とチャーチルは、フランス陸軍はヨーロッパ最強と信じていた(数の上では正しい)。ところが、彼らが見落としていた点がある。, チェコスロバキア軍は最新の装備を備え、しかも、精強だった(特に第35師団)。さらに、チェコスロバキアは、ヨーロッパ有数の軍備と軍事工場を有していた。ドイツはそのすべてを接収していたのである。実際、この接収で、ドイツ軍の大砲は2倍に増強されていた。, これは、バターを針で突く戦法だった。戦車、自走砲、装甲車輌など高速移動が可能で、強大な打撃力をもつ装甲師団を、敵陣奥深く突進させ(縦深突撃)、敵の背後から回り込み、包囲殲滅する。ポイントは、足の遅い歩兵部隊を同伴しないこと、さらに、空軍との連携攻撃にあった。 さらに、電撃戦を主導した名将ハインツ・グデーリアンの存在も大きい。彼は好機をとらえて、すかさずこれに乗じる天賦の才があった。たとえ、電撃戦が実用化されていても、グデーリアンがいなければ、フランス戦はあれほど成功しなかっただろう。 ここに恐るべき事実がある。, フランス戦で、ドイツ軍は135師団を投入したが、連合軍(フランス軍+イギリス大陸派遣軍)を壊滅させたのは、装甲師団10個、空挺師団1個、空輸可能な歩兵師団1個の「12個師団」だった。つまり、全軍の90%を占める歩兵師団が参戦する前に、勝利は決していたのである。電撃戦恐るべし。 だから、連合軍が兵数と戦車の数で上回っていても、大勢に影響はなかったのである。 というわけで ・・・ 連合軍がドイツ軍に挑んでも勝ち目は薄かった。仮に、何かの要因で勝利したにしても、何年もかかっただろう。その間、ポーランドが持ちこたえるはずがない。つまり、征服される。そうなれば、イギリスとフランスの面目は丸つぶれだ。 さらに、連合軍が敗北したら?, フランスはドイツ軍に占領され、イギリス軍は大陸から追い落とされる。そうなれば、ポーランドの安全保障どころではない。自国が滅亡にさらされるのだ(これが現実となった)。 だからこそ、ロイド・ジョージの言う「ソ連の援助」は「ポーランドに対する安全保障」の必須条件だったのである。 逆に、「ソ連の援助」があれば、西方の連合軍と、東方の「ポーランド軍+ソ連軍」でドイツを挟み撃ちにできる。第一次世界大戦の相似である。これなら勝算はあっただろう。, ところが、現実は、さらなる「ありえない」が起こった。 1939年8月23日、ソ連がドイツと不可侵条約を結んだのである。そもそも、ドイツとソ連は犬猿の仲だった。それに、この時、イギリス・フランスはソ連と相互援助条約の交渉中だったのである。これには、世界中が仰天した。 さらに仰天したのは日本だった。当時、日本はドイツと日独防共協定を結んでいたが、これを軍事同盟にステップアップする交渉の最中だった。最大の仮想敵国ソ連に対抗するためである。ところが、そのソ連とドイツが手を組んだ?そんなドイツと日本が同盟すればどうなるのだ?, ところが、ポーランドはそれどころではなかった。西方からドイツ軍、東方からソ連軍に攻め込まれ、国が丸ごと消滅したのである。 ドイツがポーランドに侵攻するのは想定内として、なぜ、ソ連まで?, じつは、独ソ不可侵条約には秘密条項が付帯されていた ・・・ ドイツとソ連でポーランドを分割する、早い話が、山分け。メチャクチャな話だが、これが現実の外交なのである。この手の「外交」は、ドイツやソ連だけでなく、アメリカも含め世界中で行われている。 「戦争ではなく外交で平和的に解決しましょう」がいかに馬鹿げた妄想かがわかる。「戦争は外交の一部」なのである。, 1939年9月1日、ドイツ軍はポーランドに侵攻した。その2日後の9月3日、イギリス政府はドイツに宣戦布告した。その6時間後、フランス政府もためらいながらイギリスに従った。こうして、第二次世界大戦が始まったのである。 ポーランドは、自慢の騎兵の奮戦もむなしく、たちまち粉砕された。ドイツ軍とロシア軍に挟み撃ちにされたのだから、ひとたまりもない。それでも、ポーランド軍は勇敢に戦った。ヨーロッパで最も勇猛で攻撃的と言われた民族の名に恥じないように。, ところが、連合軍の主力「フランス軍+イギリス大陸派遣軍」とドイツ軍の戦いは一向に始まらない(ドイツ・フランス国境で小競り合いはあったが)。そのため、「まやかしの戦争(Phoney War)」とよばれた。しかし、それこそが「まやかし」だったのである。 イギリスはチャーチルを中心に、ドイツを先制攻撃する夢のような作戦を立てていた。一方、ヒトラーは、独ソ不可侵条約により、東方の憂いがなくなり、全軍をあげて、西方に侵攻しようとしていた。もはや、ヒトラーを妨げるのは天候だけだった。ヨーロッパの冬は天候が不安定で、航空機の活動が制限されるのである。 そして ・・・ 1940年5月10日、晴れ渡った青空の下、ドイツ軍はオランダ・ベルギー・フランスに侵攻した。わずか2週間で、連合国軍は壊滅、6月14日、ドイツ軍はパリに入城した。, 一方、イギリス大陸派遣軍はダンケルクに追い詰められ、命からがらイギリス本土に逃げ帰った。 つまり ・・・ 第二次世界大戦の引き金を引いたのは、ヒトラーではなく、イギリス首相チェンバレンだったのである。 彼の不用意な「ポーランドに対する安全保障」が、ドイツとポーランドの領土問題を戦争に発展させ、自らも参戦せざるをえなくなった。そして、単独ではドイツに勝てないとわかると、今度はアメリカを戦争に引きずり込もうと画策した。その結果、極東の日本まで巻き込む世界大戦争に発展したのである。, 「ソ連の援助を確認せずに、かかる重大な責任を引き受けるのは、自殺に等しい愚行である」, たとえ、ロイド・ジョージがナチスドイツびいきでヒトラーびいきという人の道に外れたところがあっても、イギリスは彼の警告に耳を傾けるべきだったのである。 運良く、アメリカが第二次世界大戦に参戦したから良かったものの、それがなければ、イギリスは最終的に敗北していたのだから。 運良く、アメリカが第二次世界大戦に参戦?, もし、アメリカの大統領がルーズベルトでなかったら、アメリカは参戦していない。というか、参戦できなかったのである。 その場合、太平洋戦争が起こる確率も半減する。 つまり ・・・ 太平洋戦争の原因の半分は第二次世界大戦にあったのである。.
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