本稿では1980年から1991年に掛けてのアメリカ合衆国の歴史を扱う。この時代には、ジミー・カーター政権の最後の1年間、ロナルド・レーガン政権の8年間、ジョージ・H・W・ブッシュ政権の前半2年間が含まれる。カーターはイランアメリカ大使館人質事件で汚点を付け、国内でも反対勢力の台頭に会って、再選を求めた1980年の大統領選挙では共和党のレーガンに敗北した。レーガンはその1期目の1981年と1982年の不況を経て、アメリカ経済を刺激することを目指した積極財政政策を採用した。その中には石油供給過剰に繋がる石油規制緩和があった。ソビエト連邦の指導者ミハイル・ゴルバチョフとは4度の首脳会談を行い、中距離核戦力全廃条約の調印にこぎつけた。これらの行動により冷戦の終結に向って加速させ、ブッシュ政権初期には冷戦が終わり、ベルリンの壁は取り除かれた。1987年にアメリカ史の中では2番目に大きな株式崩壊が起こった。これが1990年代初期不況の前兆になった。この期間では最大のスキャンダルはイラン・コントラ事件であり、イランに武器を販売し、その利益がCIAによってニカラグアの反共民兵組織「コントラ」の援助に流用されていたものである。, 1970年代の人口に関わる現象として最も広く議論されているのは、アメリカ合衆国の南西部と南東部、そして特にフロリダ州とカリフォルニア州を含む「サンベルト」の興隆だった。カリフォルニア州は1964年にニューヨーク州を抜いて、全米で最も人口の多い州になっていた。1980年までにサンベルトの人口は工業化の進んだ北東部や中西部を上回るようになった。北東部や中西部は人口の減少が始まっていた。サンベルトの興隆は1950年代以降続いていた郊外の成長の延長線上にあり、自動車の人気が高まるとともに移動性が向上したことが大きな原因だった。さらにサービス産業が勢いをつけ、製造業が衰える中で、北東部や中西部の工業州から新しい「フロンティア」への人口移動を演出することになった。, サンベルトの興隆は国内の政治地図を塗り替え、保守派が勢力を強めた。この成長する地域の好調感はいわゆるラストベルトの関心事と鋭く対立した。ラストベルトは高度に集中が進み、衰退する産業基盤に寄り掛かっており、数多い貧困少数民族集団が住んでいた。北東部と中西部は社会問題への関与が強いままであり、南部や西部の広く開け、都市から郊外に拡大する地域よりも規制された成長に大きな関心があった。これら地域の選挙動向はこの違いを反映していた。北東部と中西部は連邦、州および地方の選挙で民主党に投票する傾向を強め、南部や西部は共和党の強い基盤になっていった。, 製造会社が都心部や都市圏中心から税が低く規制の少ない郊外にその工場や本社を移すにつれて、去っていった事業からの税収を自治体が失うために経済基盤が縮小すると見るものが多かった。国の主要都市圏の失業率が増大する中で、公共事業への需要が拡大する一方で税の基盤が縮小した。ニューヨーク市は1975年に破産寸前のところまで行った。, 国の主要都市圏の財政問題は第二次世界大戦の終戦以来、国内の人口移動という広い状況の中で起こってきており、大都市は衰退する税収基盤への対処を強いられた。一方で保守派はリベラルな社会政策の失敗と考えるものに対する対立を強め、これをテーマに1980年の大統領選挙と1994年の中間選挙を進めて、40年間続いていた民主党によるアメリカ合衆国下院の支配を共和党が奪った。, 1960年代のリベラルな指導者達は「偉大なる社会」や「公民権運動」の時代を象徴していたが、保守派民主党員でニューヨーク市長のエド・コッチのような1970年代の保守派都市政治家に国中で道を譲ることになった。, 1970年代はアメリカの自信を揺るがせた時代だった。ベトナム戦争とウォーターゲート事件は大統領への信頼感を損なった。1975年に南ベトナムが陥落し、1979年のイランアメリカ大使館人質事件は長引き、ソビエトによるアフガニスタン侵攻、国際テロの増加、および軍拡競争の拡大という国際的な憤懣のタネが続き、国際問題に対処する国の能力に疑問を生じさせた。国内ではエネルギー危機、高い失業率、急速なインフレと金利の上昇で経済計画を困難なものにし、アメリカの将来的な繁栄について基本的な疑問を投げかけることになった。, 1979年にカーターが行った「自信の危機演説」でキーとなった言葉であるアメリカの「マレーズ」(無力感を引き起こすもの)は1970年代末と1980年代初期では根拠の無いものだった。ソビエト連邦はレオニード・ブレジネフの指導下で都市労働者の賃金を2倍にし、田園部労働者の賃金も約75%上げ、数百万戸の家族用アパートを建設し、大量の消費財と家庭電化製品を生産することで生活水準を改善した。ソビエト連邦の工業生産高は75%上昇し、石油と鉄鋼については世界最大の生産国になった。これにも拘らず、ブレジネフ政権後期のソビエト連邦は経済と政治の沈滞を経験していた。, 海外で歴史の潮流はソビエト連邦有利に変わりつつあった。アメリカ合衆国が不況になりベトナムでは泥沼にはまり込んでいる一方で、特に第三世界の親ソビエト政権は大きく前進していた。アメリカ合衆国は北ベトナム軍がサイゴンを陥落させることを阻止できず、共産主義政府の下で独立ベトナムの統一を許すことになった。モスクワの後ろ盾を受けた共産主義運動が急速にアフリカ、東南アジアおよびラテンアメリカに広がっていた。ソビエト連邦はブレジネフ・ドクトリンに従ってアフガニスタンに派兵した。1979年のアフガニスタン侵攻は、NATOに対抗する東側のワルシャワ条約機構が始まって以来、その範囲外に軍隊を派遣した初めての機会となった。, アメリカが海外でも国内でも力を落としていると認識されたことに対して、「新保守主義」あるいは「ネオコンサバティズム」と呼ばれる、依然としてその多くは民主党員だった学界、ジャーナリスト、政治家および政策立案者の集団が1970年代(特に1972年ジョージ・マクガヴァンを大統領候補に指名した後)の防衛問題において民主党が左傾化したことに反逆し、国の国際政治姿勢が弱まったことについてリベラル派民主党員を糾弾もした。多くの者は民主党のヘンリー・"スクープ"・ジャクソン上院議員の周りに集まったが、後には親ソビエト共産主義勢力の拡大に対決することを約束したロナルド・レーガンおよび共和党と戦線を組んだ。, その主たる標的は共産主義の後退というよりも封じ込めという昔の政策だった。交渉、外交および武器制限を通じた和平が目指されたソビエト連邦との「デタント」(雪融け)が直接の標的となった。, ノーマン・ポドレツに指導されたネオコンサバティズムは、ネヴィル・チェンバレンがミュンヘンで交渉したことの謂いである「宥和政策」として冷戦における伝統的外交政策を攻撃した。彼等はアメリカ合衆国に比較的弱い敵に対する譲歩を「悪」の「宥和」であると見なし、「デタント」を攻撃して、ソビエト連邦を最恵国待遇とすることに反対し、第三世界におけるアメリカの一方的な介入を国際事情に関するアメリカの影響力を高める手段として支持した。レーガンが当選する以前に、ネオコンサバティズムは影響力を持ち、ベトナムにおける敗北やその結果として起こった東南アジアでの大きな犠牲によって生じた反戦感情を止めようとした。, 1970年代、政治学者で後のレーガン政権では国連アメリカ大使になったジーン・カークパトリックが民主党への批判を強めていった。カークパトリックは以前のリベラル民主党派からネオコンサバティズムの概念に考え方を変えた。民主主義を受け容れることのできると考えられ、アメリカ合衆国の同盟者ではない権威主義独裁主義者と、頑固に変化を受け容れられないと見なす共産主義的かつ全体主義的独裁者の違いを示した。, 保守的な感情が世に訴えてくるようになったことに加えて、ジミー・カーター大統領は1980年大統領選挙の予備選挙で、リベラルの象徴であるマサチューセッツ州のエドワード・ケネディ上院議員の挑戦を容易に斥けた時に、再選の見込が強くなった。経済のスタグフレーションと外交ではアメリカがソビエト連邦に対して弱腰であると認識される背景にあって、前カリフォルニア州知事のレーガンは予備選挙の大半を制して共和党の大統領候補指名を掴んだ。レーガンは、共同大統領という要素にもなりうるジェラルド・フォードについて前例の無いような妥協に失敗した後、予備選挙での主要な対抗馬だったジョージ・H・W・ブッシュを副大統領候補に選んだ。レーガンはその選挙運動中に、カーターの外交政策に関する弱点を明らかにするために、その外交助言者としてカークパトリックに頼った。, レーガンはベトナム戦争後のアメリカ外交政策が落ち着かないことを止め、国の軍事力を回復させることを約束した。供給面重視の経済によって経済の健全さを回復することも約束した。この政策はその副大統領候補ブッシュが「ブードゥー(魔術的)経済学」と言って非難していたことだった。しかしこれら全ての目標は理路整然とした経済政策とは相容れないものだった。, 供給面重視の経済学者は、アメリカ経済の問題の大部分は過剰な課税の結果であると主張し、それが個人投資家から金を「締め出し」、そのために経済成長を阻害していると主張した。彼等の主張する解決策は民間の投資を奨励するために全体的な、特に上位所得層の減税を行うというものだった。, 大衆、特にサンベルトの中流階級はレーガンの提案に同意し、1980年の選挙ではレーガンに投票した。批評家達はレーガンが連邦政府の援助計画を攻撃することは中流階級にアピールするために仕組まれたものであり、おそらく問題に直面している貧困家庭や少数民族には無関心だと非難した。1970年代の問題、例えばブレトン・ウッズ協定による国際金融秩序の破綻、1973年のエネルギー危機およびアメリカ製造業の衰退における国際的経済要素も指摘し、これらはアメリカ合衆国大統領の統制を超えていると指摘した。, 1980年の大統領選挙はアメリカ政治の重要な転換点だった。それは郊外やサンベルトの新しい有権者勢力があることを示した。またタカ派外交政策に転ずる前兆にもなった。, 第三の政党候補者、イリノイ州選出の連邦下院議員ジョン・B・アンダーソンは中道共和党員であり、選挙はうまくいかなかった。その選挙運動の主要問題は経済のスタグフレーション、国家安全保障に対する脅威、イランアメリカ大使館人質事件、およびアメリカの偉大な日は終わったことを示すように見える大衆の無力感だった。カーターはインフレーションの克服に無力であるように思われ、テヘランの人質救出には失敗していた。カーターはデタントを指向する補佐官を解任し、急速にソビエトと対決する姿勢に変えたが、レーガンはそれがあまりに些細で余りに遅すぎるといった。, 選挙人選挙ではレーガンが489票を得たのに対し、カーターは49票しか得られず、レーガンの地滑り的大勝になった。共和党は民主党上院議員12人を破り25年ぶりに上院の多数派を取り戻した。一般選挙でのレーガンの得票は43,904,153票(投票総数の50.7%)であり、カーターは35,483,883票(同41.0%)だった。ジョン・アンダーソンは5,720,060票に過ぎなかった。, レーガンが大統領になって始めたことは前任者政策からの離脱に近い趣があった。レーガンは多くの仕事をその部下に委託し、政府の日常的な事の大半の処理は彼等に任せた。執行官としてのレーガンは広い主題を描き、有権者との強い個人的繋がりを作った。同じ共和党のリチャード・ニクソンとは異なり、行政府の瑣末事にはほとんど関心を示さず、部下に任せた。, 1981年3月30日、レーガンはワシントンD.C.でジョン・ヒンクリーという精神障害の若者に銃で撃たれた(レーガン大統領暗殺未遂事件)。レーガンは病院に急送され、1週間後には回復した。副大統領のブッシュがレーガンの不在時の管理を行った。ヒンクリーは最終的に精神障害と判断され、刑務所ではなく精神病院に入れられた。, レーガンは社会のあらゆる分野に影響を与える経済回復を約束した。レーガンはこの目標を社会保障歳出の拡大と減税と規制緩和で達成できると提案した[1]。批評家は、減税が政府歳入を減らして大きな赤字に繋がり、それが高金利に転換して経済的利益を抑え込んでしまうと批判した。レーガンとその支持者達は供給面重視の経済理論を取り入れ、減税によって経済成長を促すことで歳入を増やす、それによって連邦政府予算は1969年以来の平衡を取り戻すと主張した。, しかし、レーガンが1981年に作らせた経済関係法はその保守派支持有権者(通貨主義者、冷戦のタカ派、中流浮動有権者層および富裕層)を満足させるための競合的計画が混合したものだった。通貨主義者は通貨供給の締め付けによって宥められた。冷戦のタカ派、特にカークパトリックのようなネオコンサバティブは防衛予算の大きな増加を勝ち取った。富裕な納税者は個人の所得税(累進課税率が70%から50%に引き下げられた)でも法人税でも全面的な3年間の減税を引き出した。中流階級は年金と給付金が標的にされなかった。, 社会保障歳出の拡大と減税と規制緩和で経済は拡大したが財政赤字と貿易赤字も拡大した[1]。, 1982年初期までにレーガンの経済計画は1979年に始まって続いていた不況という困難さに突き当たった。短期的にレーガノミックスの効果は赤字を急拡大させていた。政府の負債は通貨供給の締め付けと共に天井知らずの高金利となり(短期間だが20%ほどにもなった)、1982年には失業率10%の深刻な不況となった。「ラストベルト」(工業化の進んだ中西部と北東部)のある地域では、製鉄所などの工場が閉鎖され、事実上の不況状態に沈んだ。中西部などの家族経営農場の多くは高金利によって破滅し、大型の農業関連企業に身売りした。レーガンの財政政策によってインフレーションだけが即座に抑制された。レーガンの支持率は1982年不況の最悪期間に急落した。, この不況はレーガンの経済計画からはかなり以前の話である1970年代に遡り、ジョンソン大統領の赤字予算と石油禁輸政策にその根源があった。さらにレーガン政権下のアメリカ合衆国経済の成果は、通貨主義管理の適用に固執してきていたマーガレット・サッチャーのイギリス(きつい通貨政策ときつい財政政策、これが不況下の中のデフレに繋がった)よりもかなり良いものだった。, サッチャーとは異なり、レーガンは連邦準備制度の通貨締め付けと拡大的財政政策を組み合わせた。1982年不況に続いて、高い成長率(1982年から1988年の期間で年4.2%)に貢献した要因の1つは大きな政府支出だった。同時に行われた減税によって赤字額も急速に拡大した。, 1982年から1983年に掛けての最悪の時期から回復したもう一つの要因は、1980年代半ばに石油生産量を上げたことによる石油価格の急落だった。これが燃料価格に対するインフラ懸念を終わらせた。石油輸出国機構カルテルの事実上の崩壊は、金利の低減や通貨供給拡大政策を要求し始めた保守的通貨主義経済学者を驚かせたことに、レーガン政権にその通貨締め付け政策からの政策転換を許した。実際にインフレーション(この時は制御可能と考えられた)に関する関心は、失業率や減退する投資に関するものに振り向けられた。, 1983年年央までに、失業率は1982年の11%から8.2%まで低下した。国内総生産は1970年代半ばからでは最高となる3.3%成長した。インフレ率は5%未満となった。, 1983年に始まった経済回復に続いて、レーガノミックスの中期的財政効果として、社会保障歳出の増大と軍事予算増大と減税のために歳出が常に歳入を上回り赤字を増やし続けた[1]。税収は1970年代後半や1980年代初期に停滞していたことと比べれば増加していたが、急上昇する支出には及ばなかった。, アメリカ合衆国の歴史で最大となった1981年減税は、GDPの増大と比較して連邦政府の税収増大は少なかった。, アメリカ合衆国の財政赤字は、1980年の909,041Millions$から1988年には2,601,104Millions$に増大し、GDPに対する財政赤字は1980年の33.4%から1988年は51.9%に増大した[1]。, 赤字予算は経済刺激策としての価値があり、1982年以降のレーガン政権時代で景気回復に貢献したが、1980年代予算不足のその規模は金利を高止まりさせ、ドルの価値を過大評価のままとしたので、投資や輸出の面で苦しみ、結果的にアメリカの経常収支赤字を増大させた。, アメリカ合衆国の預金率は大変低かった(日本のそれのおよそ3分の1)ので、赤字は海外からの借金で補われ、数年間でアメリカ合衆国を世界最大の債権国から世界最大の債務国に転落させた。このことはアメリカの威信を傷つけただけでなく、アメリカ資本の輸出に頼ってきた戦後の国際金融システムに大きな変化も起こった。さらに1980年代にメディアや娯楽産業が株式市場や金融分野の魅力を伝えており(例えば1987年の映画『ウォールストリート』)、若者は製造分野ではなくブローカー、投資家および銀行家としてのキャリアを追求したので、失われた工業基盤が直ぐに回復することは無いと思わせるようになった。, 赤字は金利を高止まりさせ、レーガン政権時代の通貨引き締め政策の中断のために初期の20%よりは低かったものの、依然として高くまた高くなる恐れがあった。連邦政府は多額の金を借りることを強いられたので、借入利子を押し上げていた。供給重視政策で高金利と法人税削減により投資が増加すると見ていたが、高金利の中では成長と投資が難しかった。1987年10月、突然株式市場が暴落した。しかし、連邦準備制度は通貨供給量を拡大することで応じ、世界恐慌の再来を回避した。, おそらくもっと危険だったのはレーガン時代の赤字で米ドルを過大評価のままにしていたことだった。ドルに対する高い需要があり(政府借款の大きな手段)、ドルは他の主要国通貨に対して過剰に強くなっていた。ドルが強くなるにつれて、アメリカの輸出品は急速に競争力を失い、代わって日本が最大の利益享受者になった。ドルが高いために外国人はアメリカ製品を買うことが難しく、アメリカ人に輸入品を買うことを奨励した。工業製品輸出部門にとっては米ドルが高すぎる価値になった。鉄鋼やその他重工業は労働組合から過剰な要求を受けたうえに日本の輸出品とは競合できないようにその技術が時代遅れになっていたので衰退した。家電産業(1970年代に衰退が始まっていた)はダンピングなど日本の不公平な貿易慣習の餌食になった。アメリカの家電製品も品質が悪く、日本の製品に比較して技術的な革新にも欠けていた。これは冷戦によって消費者向け製品よりも防衛産業の方にアメリカの科学と技術が向けられていたことが一つの理由だった。この10年間が終わるまでにアメリカの家電産業は事実上の存在を止めた。1980年代アメリカの技術の良い面としては新興のコンピュータ産業が急成長したことだった。, アメリカ合衆国の貿易収支は次第に赤字の程度が増大した。赤字額は1980年の-131億ドルから1987年には-1,452億ドルに増大した。自動車や鉄鋼のようなアメリカ産業は海外とさらには国内市場でも新たな競合の時代に入った。レーガン政権で日本のメーカーに自発的な輸出制限を設定させ(年130万台の販売とした)、輸入トラックには25%の関税(乗用車は3%)を課したことで、アメリカの自動車産業は一息つくことになった。日本のメーカーはこれに対処するためにアメリカ国内に組立工場を設け、そうすることでアメリカ人に職を提供していると言うことも可能にした。自発的な輸出制限は自動車の販売が好調になった1985年以降に撤廃されたが、関税率は今日でも有効である。企業平均燃料節約規制が行われたことで、1980年代は小さな車が主流になり、家電製品の場合と同様に日本のメーカーは品質と技術的な洗練さでアメリカ製品を凌ぐようになった。, 巨額の赤字はリンドン・B・ジョンソンがベトナム戦争と偉大なる社会で軍事と経済の両立政策を進め、戦後の再建が進んだG7諸国との競合が激しくなったことから持ち越された負の遺産だったが、赤字を拡大させる道を選んだのはレーガン政権だった。, レーガンが執務中に「政権の空白状態」があり、大統領の注意力が長く継続しないという告発があったが、これはおそらく党派的な攻撃では全くなかった。財務の保守派や民主党は赤字の拡大や、時には防衛費の監督不足についてレーガンを批判した。1985年1月、著名な保守派コラムニストのウィリアム・サファイアは、1980年の共和党大統領候補指名レースのときにジョージ・H・W・ブッシュがレーガンは「ブードゥー経済学」を提唱していると批判したことに触れ、「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」の記事で、「レーガノミックスはブードゥーに悪名を与えている」と述べ、さらに「アメリカ合衆国は外国人に対する金融市場の統制力を失った」と付け加えた。, レーガンはその任期中に3人の最高裁判所判事を指名した。1人目は1981年の中道派のサンドラ・デイ・オコナーであり、最高裁判所判事としては最初の女性だった。2人目は1986年の保守派アントニン・スカリアだった。1987年に3人目を選ぶ時は論争になった。まず選んだのはダグラス・ギンスバーグだったが、学生時代にマリファナを使ったことを認め、指名を辞退した。次に選んだロバート・ボークは、エドワード・ケネディ上院議員やリベラルの活動家達から、堕胎を違法化し公民権法をないがしろにしようとしていると攻撃されて、これも辞退した。最後は中道派のアンソニー・ケネディに落ち着いた。スカリアとケネディは2010年時点で判事職に留まっており、オコナーだけが2006年に辞任した。, レーガンが国の軍事力を快復させると約束したことで、1980年代の軍事費増大により、新たな軍拡競争で米ソ間の関係は1960年代以降はなかったような緊張関係に発展していた。, レーガンの外交政策は概して成功していると考えられ、当時の国内政策に勝っていると見られていた。レーガンは冷戦に対してタカ派的アプローチを好み、特に第三世界における超大国競合においてそうだった。しかし、ベトナムにおける挫折の後で、アメリカ人はあまりに大きな軍事介入を続けることの経済と財政のコストを賄うことに次第に懐疑的になっていた。レーガン政権はこのことに対して、金も人も犠牲が大きかった朝鮮やベトナムのような大規模の作戦とは異なり、特別に訓練された内乱対策、すなわち「低強度紛争」という比較的安価な戦略を用いることで打ち勝とうとした。, 中東戦争は軍事行動のもう一つの火種だった。1982年、イスラエルはパレスチナ解放機構(PLO)の殲滅を狙ってレバノンに侵攻した。しかし、イスラエル国内に政治的危機を生み、国際的非難を浴びたサブラ・シャティーラの虐殺事件の後、アメリカ軍がベイルートに進駐し、イスラエル軍を撤退させた。それ以前のレーガン政権は1982年半ばのイスラエルによるレバノン侵攻を支持する姿勢にあったが、レバノンにおけるイスラエルの敵であり、親ソビエトのシリアの影響力を抑えてもいた。しかし、敵味方が入り乱れたレバノン内戦から多国籍軍が撤退することで、レバノン国内は泥沼化した。1983年10月23日、海兵隊宿舎爆破事件で241人のアメリカ兵が殺害された。それから間もなくアメリカは残っていた1,600名の部隊を撤退させた。, ベイルートの海兵隊宿舎爆破から2日後、アメリカは『アージェント・フュリー(Urgent Fury<押さえきれぬ怒り>)作戦』によってグレナダに侵攻した。10月19日、南アメリカに近い小さな島国であるグレナダでは、確固としたマルクス・レーニン主義者の副首相バーナード・コアードがキューバ、ソビエト連邦など共産主義諸国との結びつき強化を求めてクーデターを起こした。レーガン政権は在グレナダのアメリカ人や西洋の医学生500人の安全確保を大義名分としてグレナダに侵攻した。『アージェント・フュリー作戦』の成功は、ベイルートでの自爆テロ事件で落ちていたアメリカ人の士気をあげ、メディアの注意をレバノンではなくグレナダの方に向けさせた。グレナダはその後の「低強度紛争」のモデルになった。その後アメリカは同じようなやり方でリビアを攻撃した。これは多くの軍人が訪れていたドイツのディスコで爆破事件があり、2人のアメリカ軍人を含む3人を殺害したことに、リビアの指導者ムアンマル・アル=カッザーフィーが関与していたことが分かったためだった。, レーガン政権はエルサルバドル、ホンジュラスさらには程度では落ちるがグアテマラにおける軍事政権に資金や武器の供与もしていた。グアテマラは1982年から1983年に掛けて、右派軍人独裁者エフレイン・リオス・モントが支配していた。アルゼンチンの軍事政権が人権侵害していたことを前大統領のジミー・カーターが公式に非難していたことを撤回し、CIAとアルゼンチンの情報部と協業させてコントラに資金提供させた。中央アメリカ、特にエルサルバドルとニカラグアはレーガン政権の主要な関心事だった。ニカラグアではサンディニスタ民族解放戦線がアメリカに支援されていたソモサ王朝の支配を打倒していた。エルサルバドルとニカラグアは歴史的に多国籍企業や裕福な土地所有者オリガルヒ(ロシア語の新興財閥)によって支配されており、国民の大半は貧窮に喘いでいた。両国においてはマルクス主義者が支配的な革命指導者が小作農民からの支持を得るようになっていた。, 1982年、CIAはアルゼンチンの国家情報機関の援助を得て、ニカラグアでコントラと呼ばれる右派民兵組織を結成させ財政援助した。この計画の秘密資金の出所を洗うことで、イラン・コントラ事件の暴露に繋がった。1985年、レーガンはレバノンにおけるアメリカ人捕虜を解放しようとして失敗した中で、イランに対する武器販売を承認した。レーガンは後に、その部下達が利益をコントラに違法に横流ししていたことを無視していたと告白した。国家安全保障担当補佐官ジョン・M・ポインデクスターの副官で海兵中佐のオリバー・ノースがその非難の大半を浴びることになった。このスキャンダルの結果、1986年にレーガンの支持率は急落し、その判断力を深刻に疑うアメリカ人が増え始めた。レーガンは政権最後の2年間でその人気を快復したものの、1985年に得ていたような支持率にまで戻すことはできなかった。1986年の中間選挙では民主党が予想通り議会の多数派を取り戻した。一方オリバー・ノースは1987年の議会聴聞の間、短期間の有名人になった。, ブラックアフリカ(サハラ砂漠より南のアフリカ)においては、アパルトヘイトを実施していた南アフリカの支援により、内戦下にあったモザンビークとアンゴラで、実質的にキューバとソビエト連邦に支援されたマルクス・レーニン主義者のモザンビーク解放戦線とアンゴラ解放人民運動を転覆させる試みもおこなった。レーガン政権はモザンビークではモザンビーク民族抵抗運動にアンゴラではアンゴラ全面独立民族同盟に肩入れし、秘密の軍事と人的支援を行った。, アフガニスタンでは、ソビエトによる代理政権に対抗するムジャーヒディーンに積極的な軍事と人的支援を行い、携行地対空ミサイルのスティンガーミサイルを供与した。アメリカの同盟国であるサウジアラビアやパキスタンも反乱軍に少なからぬ支援を行った。ソビエト連邦共産党書記長のミハイル・ゴルバチョフはアフガニスタンにおける自国の関与を次第に減じ、最終的には泥沼化していた対ゲリラ戦争から撤退した。, レーガンはまた、カンボジアでベトナムが樹立したヘン・サムリン共産主義政権(後にはフン・セン)への反対を表明した。ヘン・サムリンは大量虐殺を行ったクメール・ルージュ政権をベトナム軍と共に放逐していた。レーガン政権は共和派クメール民族解放戦線と王党派のフンシンペックによる反乱に対して軍事と人的支援を承認した。また国際連合では民主カンボジア連合政権(クメール民族解放戦線とフンシンペックおよびクメール・ルージュの三派連合)の代表権継続を支持し、ベトナムが後ろ盾になったカンプチア人民共和国を承認しなかった。, さらにフィリピンでは、熱烈な反共主義者で独裁者のフェルディナンド・マルコス大統領支援を続けた。婦人有権者同盟が主催した1984年大統領候補討論会では、レーガンが「私はフィリピンでは民主主義の権利という立場から見て良くないと思われるものがあることは知っているが、それに代わるものがあるだろうか?大きな共産主義の動きがある。」と言ってマルコス支持を説明した[2]。これは当時のフィリピンで共産主義者ゲリラの活動が行われていたことに言及したものだった。アメリカはフィリピンに軍事的な戦略価値を認めており、マルコス政権はアメリカ海軍基地を国内において置く合意を覆さないことが分かっていた。マルコスは1986年にコラソン・アキノが指導した大半が平和的なエドゥサ革命によって失脚した。, レーガンの国際連合に対する政策は非協力であり、1985年から1987年に掛けてアメリカ合衆国がユネスコから撤退し、国連への拠出金を慎重に差し控えるようになった時がその頂点だった[3]。アメリカの政策立案者達はこの戦術が国連への影響力を強める有効な方法だったと考えている。アメリカは国連との関係を修復するために拠出金保留政策を撤廃したが、このために国連に対して大きな負債が蓄積されることになった。, レーガン政権はソビエト連邦に対して強硬路線を採用していた。その1期目にはライバルを「悪の帝国」と呼んで攻撃した。ソ連によるアフガニスタン侵攻に続いて「デタント」政策を公式に終わらせたのはジミー・カーターだったが、1980年代初期に東西緊張関係はキューバミサイル危機依頼の高みに達した。戦略防衛構想はレーガン時代の米ソ関係悪化の中で生まれた。当時の大衆はこれを「スター・ウォーズ」と呼んだが、飛び来るソビエトのミサイルを打ち落とすことの出来るミサイル防衛システムに巨額の研究費が掛けられ、相互確証破壊の可能性を排除することが目指された。, ソ連はレーガンが1981年に就任する前に、1976年にはその社会主義同盟国ベトナムが統一を成し遂げ、東南アジア、ラテンアメリカおよびアフリカで社会主義革命の連鎖が起こるなど、国際的な場面で大きな成果を挙げていたが、1960年代と1970年代に第三世界諸国との結び付きを強めたことはアメリカに対する絶対的な弱さを隠していたに過ぎなかった。ソ連の経済は構造的に厳しい問題に苦しんでいた。1964年から1982年に掛けての改革は滞り、消費財の供給不足はさらに周知の事実になっていた。, 東西緊張関係はミハイル・ゴルバチョフの登場後に急速に緩和された。1982年以降にソ連の古い指導者3人が続けて死に(レオニード・ブレジネフ、ユーリ・アンドロポフ、コンスタンティン・チェルネンコ)、ソビエト政治局は1985年にゴルバチョフをソビエト共産党の指導者に選び、新しい世代の指導者の時代を画することになった。ゴルバチョフの下で比較的若い世代の改革を指向する官僚が急速に権力を掌握し、政治と経済の自由化の新しい機運を与え、西側との友好的な関係を築き貿易を行うべく推進力となった。, ゴルバチョフは「ペレストロイカ」政策を進め、消費財の生産を高めるために戦ったが、一方で冷戦時代の軍拡競争、また片方では社会主義同盟国が期待を増すようになっていた莫大な対外支援と軍事援助という双子の重荷の中では不可能だった。アメリカは軍拡が莫大な重荷になるとレーガン政権が警告していたことを、ゴルバチョフの下のソビエト政治指導者達は次第に認めるようになった。ソ連は既に防衛のために巨大な予算を費やしており、戦略防衛構想に対抗するものを開発することは、その経済では到底なしえない事態になっていた。ソビエト連邦の選んだ道はアメリカ合衆国と妥協し、経済を立て直し(ペレストロイカ)、国内の民主化を進める(グラスノスチ)ことであり、それが結果的にゴルバチョフにとっては中央のコントロールを確保することを不可能にした。この後レーガン政権のタカ派は、増大するアメリカの防衛予算から逃れようとすることが改革のもう一つの推進力になったと論じてきた。, 冷戦時代に世界が対立する2つの陣営に分かれていたことは、北大西洋条約機構に加盟する西ヨーロッパ諸国だけでなく、開発途上の多くの国を広く拡散した同盟にまとめることに貢献していた。しかし1980年代後半からは東ヨーロッパのワルシャワ条約機構諸国の政権が急速に崩壊を始めた。1989年の「ベルリンの壁崩壊」は東欧共産主義政権の凋落を象徴する出来事となった。1980年代後半、1987年の中距離核戦力全廃条約とソ連軍のアフガニスタンさらにはキューバやアンゴラからの撤退によって、米ソ関係は著しく改善された, これらワルシャワ条約機構諸国と同じ時代にアメリカの支援で民主化を進めていたチリや大韓民国のような弾圧的政権に支持を与える合理性は、このような展開下では無くなっていた。アメリカの政治解説者の中には、冷戦時の2つの超大国間の関係良化が、アメリカの軍事費を削る「平和の配当」に導くことになると考える者もいた。しかしこの考え方は湾岸戦争の勃発とともに政治的議論の場を失った。レーガンの後任、ジョージ・H・W・ブッシュは「新しい世界秩序...テロの恐怖からの解放、より強力な正義の追求、さらなる平和の追求、東と西、北の南の世界の国々が調和を保って繁栄し生きて行ける時代」の出現を訴えた。, バルト三国における独立を求めた愛国主義者の扇動によって先ずリトアニア、続いてエストニアとラトビアがソビエト連邦からの独立を宣言した。1991年、ソビエト連邦は解体され、15の構成要素に分かれた。冷戦が終わり、ユーゴスラビアやソマリアの政権が崩壊した後に生じた空白によって、権威主義者の長年の支配下で埋もれていた敵意が表面に出るか、再開された。アメリカの大衆、さらには政府の中であっても、アメリカの関心にはほとんどあるいは全く繋がらない地域紛争に介入することを躊躇する向きはあったが、これらの紛争は共産主義が強い脅威ではなくなった時代の西側同盟関係を更新する基盤となった。ビル・クリントン大統領はその就任演説で、「今日、古い秩序が去り、新しい世界は前より自由だが安定はしていない。共産主義の崩壊は古い敵意を呼び出し、新しい危険性を生じさせた。アメリカは明らかにこれまでなしてきたように世界を導き続けなければならない。」と語った。, 冷戦終結以降、アメリカは冷戦時の制度構造、特にNATOを再活性化し、さらには国際通貨基金や世界銀行のような多国間制度を再編することを求め、そのことによって地球規模の経済改革を促進しようとした。NATOは当初ハンガリー、ポーランドおよびチェコ共和国を加盟させて拡大し、その後もさらに東方に進んだ。さらにアメリカの政策は、1994年に効力を発揮した北アメリカ自由貿易協定(NAFTA)でうたっている新自由主義「ワシントン合意」を強調するようになった。, アメリカ合衆国はテロを支援したり、大量破壊兵器を拡散することに関わったり、あるいは重大な人権侵害を行う国に経済制裁を発動することが多くなった。この動きには、1989年の六四天安門事件で大衆を武力弾圧した中華人民共和国に対する武器販売に課した禁輸措置や、イラクがクウェートに侵攻した後で課した制裁措置のように合意を得るものもある。しかしイランやキューバに課したような多国間制裁に関しては限定的であり、アメリカの国内法を侵犯した外資企業を罰するために連邦議会が新しい法を課すことになった。, 国際政治学者サミュエル・P・ハンティントンは1999年に「フォーリン・アフェアーズ」誌に寄せた論文で、この冷戦後の世界の状況を強化するために次のように記した。, アメリカの政策に関する別の影響力ある解説者マックス・ブートは、冷戦後のアメリカ合衆国の大変大望ある目標について次のように論じている。, 共和党の大統領ロナルドー・レーガンの下で8年間副大統領を務めたジョージ・H・W・ブッシュが、1988年アメリカ合衆国大統領選挙で民主党のマサチューセッツ州知事マイケル・デュカキスを破って大統領に当選した。, アメリカ合衆国は、多くの事項のなかでも次のような事項を多かれ少なかれ多国間で試み、あるいは試みていると認識されてきた。他国に人権と民主主義に関してアメリカの価値観を採用し実行するように促すこと。他国がアメリカの伝統的優越性に対抗できるような軍事力を持つことを阻止すること。他の社会に国境を越えてアメリカの法を強制すること。人権、薬物、テロ、核拡散、ミサイル拡散および信教の自由に関してアメリカの基準に従う程度で他国を格付けすること。これらの問題でアメリカの基準に従わない国を制裁すること。自由貿易と開放市場というスローガンでアメリカ企業の利益を上げること(NAFTAとGATT(関税と貿易に関する一般協定)が1990年代自由貿易政策の主要例である)。上述企業の利益のために世界銀行と国際通貨基金の政策を形作ること。比較的直接の関心が薄い地域紛争に介入すること。海外へのアメリカ製武器販売を促進し、他国による同様な販売を阻止しようとすること。, 専制国家として知られる国に民主主義を植え付けること、そうすることでテロ、武力侵略および兵器拡散を防止できると期待すること。, これは実行中の大望である。その最も成功した例は第二次世界大戦後のドイツ、イタリアおよび日本である。これらの場合、アメリカ軍が軍事独裁制の国を自由な民主主義の柱に変えることに貢献した。これは20世紀における最も重要な発展の一つである。, Thomas G. Weiss, David P. Forstyhe, Roger A. Coate, "The United Nations and Changing World Politics," Westview Press, 1994, White House>Office of Management and Budget>Historical Tables>Fiscal Year 2014>50 - 80 Page>Section3 Federal Government Outlays by Function , 143-148 Section7 Page Federal Dept , 215 - 216 Section10 Gross Domestic Product Implict Outlay Deflators, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=アメリカ合衆国の歴史_(1980-1991)&oldid=80019695, Busch, Andrew E.; "Ronald Reagan and the Defeat of the Soviet Empire" in. ウーマン・リブは欧米や日本など先進諸国で展開された。アメリカでは、ベティ・フリーダン『女らしさの神話*(8) 』The Feminine Mystique(1963年)の出版と全米女性組織NOWの結成(1966年)が画期をなす。フリーダンは、自分を含めた中産階級の主婦が感じる空しさゆえの不安感を「名前のない問 … 1990年代(せんきゅうひゃくきゅうじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)1990年から1999年までの10年間を指す十年紀。 この項目では、国際的な視点に基づいた1990年代について記載する。 1970年代のアメリカについて教えてください! <戦後からの大きな転換>1974年8月にニクソンは辞任し,フォード副大統領が大統領に昇格しました。二次大戦の終了からおよそ30年の間に連邦政府の権限 … 「私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の息子たちと、かつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくようになることである。」 1960年までには、米国では大きな社会変動が目前に迫っていた。 1990年代 邦楽ヒット曲 ランキング/年代流行 90年代になるとCDをはじめとしたデジタル技術は音楽制作現場においても革変をもたらした。 デジタル技術による音楽制作は人・時間・予算の大幅な削減を可能にし、楽曲の大量生産が可能となった。 出来事: 1月20日: ビル・クリントン、アメリカ合衆国大統領に就任。 1月27日: 大相撲の曙が外国人力士として初めて横綱に昇進。 2月26日: 世界貿易センター爆破事件。 3月27日: 江沢民中国共産党総書記、国家主席に就任。 5月15日: jリーグ開幕。 8月26日 本稿では1991年以降のアメリカ合衆国の歴史(1991ねんいこうのアメリカがっしゅうこくのれきし)、即ち冷戦後のアメリカ合衆国(れいせんごのアメリカがっしゅうこく)について述べる。 為替相場の歴史的出来事(1990年代) 為替相場 の歴史的な出来事(1990年代)を分かりやすくまとめました。 FX を行ううえで必要な知識というわけではありませんが、読み物としてどうぞ。 19世紀の間に、アメリカ合衆国の経済は 外資 へ依存しながら工業化された。 第一次世界大戦 後にアメリカは 世界経済 の債権国へ伸し上がった。� 資源国としても世界中から移民を惹きつけて、 技術と産業を国際的に発展させた 。2 本稿では1991年以降のアメリカ合衆国の歴史(1991ねんいこうのアメリカがっしゅうこくのれきし)、即ち冷戦後のアメリカ合衆国(れいせんごのアメリカがっしゅうこく)について述べる。, 1989年12月3日のマルタ会談で冷戦の終結が宣言され、1990年以後のアメリカ合衆国は「冷戦後」という時代が始まった。1991年は湾岸戦争で始まり、年末にはソビエト連邦が崩壊した(ソ連崩壊)。冷戦後のアメリカ合衆国は、中東での軍事介入を継続した。, クリントン大統領の任期は国内問題に大きな比重が置かれた期間だった。1994年から2000年の6年間には、多くの評論家が技術を推進力とした「新経済」と呼ぶものが出現し、さらには比較的高い実質生産量の伸びを示し、インフレ率は低く、失業率は5%以下のレベルになった。インターネットとそれに関わる技術は経済の中に幅広く浸透し、連邦準備制度議長のアラン・グリーンスパンが1996年に「不合理な活況」と表現したように、ウォールストリートの技術を推進力とするバブル経済を促進した。, 1991年にソビエト連邦が解体された後、アメリカ合衆国は軍事力において世界で傑出した力を持ち、経済面でアメリカ合衆国の最大のライバルと見られることのある日本は停滞の時期に入っていた。中国は貿易においてアメリカの最強の競合者となり、その競合分野を拡げていた。ハイチやバルカン半島での地域紛争に際しては、クリントン大統領が平和維持軍としてアメリカ軍を派遣した。これは世界の他の部分に警察力を発揮することがアメリカの役割であるのかという冷戦時代の議論を復活させることになった。アメリカ軍が中東での駐屯を続けていることに対して、海外イスラム圏の過激派が襲撃を予告するようになり、1993年にはニューヨークのツインタワーである世界貿易センター内でトラックを爆破した。また海外のアメリカ合衆国関連資産に対しても多くの攻撃を行った。, 1990年代はラテンアメリカやアジアからの移民が圧倒的に多く、次の世代でアメリカ合衆国の人口構成を大きく変える地盤ができた。例えばヒスパニック系住人が少数民族の中での最大集団としてアフリカ系アメリカ人に取って代わるようなことだった。, 2000年前半から2001年に掛けて、インターネット・バブルが弾けた。インターネット関連株の有望性に関わる加熱状態によって主要指標が大きく上昇していた。2000年3月10日、NASDAQが1年前の2倍以上となる高値5,048.62をつけた(日中の最高値は5,132.52)[1]。, 3月13日月曜日に出された大量の売り注文が連鎖反応を引き起こし、投資家、ファンドなどの機関が清算に動いた。3月10日の約5,050からわずか6日間の間に9%近くNASDAQ指数が下降し、3月15日には4,580となった。, 1999年のクリスマス・シーズンの後、インターネット関連小売業の業績が悪く、"Get Rich Quick"(手っ取り早く稼げる)インターネット戦略が大抵の会社にとっては欠陥であるということを示す初めての明瞭にはっきりとした証拠になった可能性がある。これら小売業界の業績は、民間会社の年度あるいは四半期報告が発表される3月に明らかになった。このときに"Get Rich Quick"戦略が多くの会社にとって欠陥となった。, 2001年までにバブルは急速に凋んでいった。インターネット関連産業の大半はそのベンチャーキャピタルが燃え尽きた後は取引を止め、多くは純利益も残せなかった。投資家達は冗談でこれら失敗したインターネット関連産業("dot-com")のことを"dot-bombs"(インターネットの爆弾)とか"dot-compost"(インターネットの肥料)などと呼んだ。, 工業化社会が石油に大きく依存しており、その確認埋蔵量の大半が中東の国々にあるということを、1973年さらには1979年の2度のオイルショックでアメリカ合衆国は理解するようになった。1980年代に石油価格は実質ベースで1973年以前のレベルに戻っていたが、石油消費国、特に北アメリカ、西ヨーロッパおよび日本にとっては思いがけない結果になり、中東の主要産油国の莫大な埋蔵量はその地域の戦略的重要性を実証していた。1990年代初期、石油に関わる政治は1970年代初期と同様に危険なものだった。, 中東における紛争がまた1つ国際的危機を生んだ。1990年8月2日、イラクが隣国のクウェートを19番目の州として併合することを目指して侵略を開始した。この侵略に先立ち、イラクはアメリカ合衆国国務省にクウェートが傾斜掘削を行っていると苦情を伝えていた。これは数年前から続いていたことだったが、イラクはこの時イラン・イラク戦争の負債を払い経済危機を回避するために石油からの収入を必要としていた。サッダーム・フセイン大統領はその軍隊にクウェート国境に進軍し、侵略の意図があることを警告するよう命令した。駐イラク・アメリカ合衆国大使エイプリル・グラスピーがフセインと緊急会談を開き、その場でフセインは対話を継続する意志を述べた。イラクとクウェートが最終協議の場を持ち、これが決裂した。フセインは自軍をクウェート領内に送った。, アメリカ合衆国当局は、1940年代以降アメリカ合衆国と密接な同盟関係にあり、石油も豊富なサウジアラビアと、イラクのフセイン大統領が今にも戦火を交えようとしていることを恐れた。西側世界はイラクの侵入を侵略行為であるとして非難した。アメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュはフセインをアドルフ・ヒトラーに擬え、もしアメリカ合衆国と国際社会が動かなければ、このような侵略行為が世界のどこでも起こるようになると宣言した。, 国際連合安全保障理事会の常任理事国5カ国のうちの2つ、アメリカ合衆国とイギリスが委員会を説得してイラクにクウェートから立ち去る日限を通告させた。西側世界は世界経済に悪影響を与えることを恐れ、クウェートの石油供給をフセインの支配下にならないようにする決断をした。フセインは石油輸出国に原油価格を上げ、生産量を削減するよう圧力を掛けた。しかし、西側諸国は1970年代のアラブ諸国による石油禁輸処置で混乱が生じたことを覚えていた。, フセインは撤退の日限を無視し、国際連合安全保障理事会はイラクに対する宣戦を布告した。戦争は1991年1月に始まり、その「砂漠の嵐作戦」ではアメリカ軍が国連軍の大半を占めた。2月下旬にイラク軍がクウェートから撤退する時までに、イラクは約2万人の兵力を失った。ある情報源ではイラク側に10万人に上る損失が出たとしている。, 2001年9月11日朝、4機の民間航空機がハイジャックされた。そのうちの2機はニューヨーク市のワールド・トレードセンターに衝突し、双子ビルを倒壊させて3,000人弱の人命を奪った。3機目はバージニア州アーリントンのペンタゴンに突っ込んだ。4機目は乗客が反乱を起こした後にペンシルベニア州南部に墜落しており、操縦していたハイジャック犯人に墜落させたものと考えられている。このテロ事件でもたらされた大きな衝撃、悲しみそして怒りはアメリカ国内のムードを変えた。ウサーマ・ビン=ラーディンとそのアルカーイダのテロリスト・ネットワークがこのテロを仕組んだことがわかり、ブッシュ大統領は「テロへの戦い」を宣言した。, アメリカ合衆国議会は今後のテロ攻撃に対する幾つかの防衛策を承認した。例えば国土安全保障省の創設であり、米国愛国者法の成立だったが、この米国愛国者法はアメリカ自由人権協会のような団体から批判を受けた。アメリカの軍事的対応としては2001年10月7日のアフガニスタン侵攻があった。その標的はアルカーイダであり、彼等を支援し匿っているターリバーン政権だった。アメリカ軍は十数か国からの軍隊の支援を受け、ターリバーンを政権の座から追うことに成功したが、連合軍とアフガニスタンの様々な党派との間に今でも戦闘が続いている。, 2002年、アメリカ合衆国の国内総生産は2.8%成長した。2002年の上半期における主要な短期的問題は証券市場の急落であり、これは一部大企業の不明瞭な会計方法が暴露されたことが原因の一つだった。もう一つの問題は失業率であり、世界恐慌以来となる長期間の増加を続けていた。市場の安定性に失業率の問題が組み合わされ、経済学者や政治家の中ではこの状況を「雇用なき景気回復」と言う者もいた。それでも2003年から2005年のアメリカ合衆国は9.11不況からの着実な経済回復を成し遂げていた。, ジョージ・W・ブッシュ大統領は2002年1月の一般教書演説で、イラン、イラクおよび北朝鮮を「悪の枢軸」と呼び、これらの国がテロを支援し、大量破壊兵器を得ようとしていることを糾弾した。ブッシュ政権は、サッダーム・フセインがテロを支援し、1991年の国連停戦決議に違背し、生物兵器、化学兵器および核兵器を所有しているとしてイラク侵攻意図を公にし始めた[2]。, アメリカ合衆国の同盟国にはインド、日本、トルコ、ニュージーランド、フランス、ドイツおよびカナダが含まれていたが、ブッシュ大統領が言う全面的な侵攻を正当化するだけの十分な証拠があるとは思っていなかった。特にアフガニスタンではまだ軍隊が必要な状況だった。国際連合安全保障理事会はイラク侵攻を承認せず、それ故にアメリカ軍がイラク侵攻の主体となった。アメリカ軍の主要な協力国はイギリス、オーストラリア、ポーランド、スペインおよびイタリアだった。2003年3月20日、イラク侵攻が始まった。, 連合軍とイラク軍の戦闘が6週間続いた後、連合軍はイラク国内の重要地域を征圧した。サッダーム・フセインはその宮殿から逃亡し、その国内支配は明らかに終わった。5月1日、ブッシュは「任務は達成された」と書かれた看板の下で、地上での主要作戦は終わったことを宣言した。フセインの息子達、クサイとウダイはアメリカ軍に殺された。サッダーム・フセイン自身も12月に捕捉され、刑務所に収容された。それでもイラク反政府軍との戦闘は続いており、2004年アメリカ合衆国大統領選挙が終わっても拡大を続けた。, イラク侵攻に伴う犠牲者数が増加し、侵攻と再建の費用は2,000億ドルと推計されたことで、主要作戦の終結が宣言されて以降、アメリカ国内の支持者の約3分の1は失うことになった。最近の世論調査ではアメリカ合衆国に対する国際的な不満はかつてない位の高みにあり、ヨーロッパの住民の大半は、アメリカ合衆国があまりに強大すぎて主に自国の利益のために行動していると考えており、イスラム教国の大半はアメリカ合衆国が傲慢で、好戦的で、イスラム教を憎んでいると考えている[3]。, イラクの状況は次第に難しいものとなり、政策立案者達は新しい選択肢を探し始めた。このことからジェイムズ・ベイカーとリー・ハミルトンを中心とする超党派委員会であるイラク研究集団が形成された。この集団は様々な提言を行った。その中でも顕著なものはイラクにおけるアメリカ軍駐留兵力の削減を求めたこと、近隣諸国との関与を求めたこと、またイスラエルとパレスチナのような地域紛争を解決することにより大きな関心を促したことだった。この提言は概して無視され、アメリカ軍によるイラクへの直接関与は今日でも続いている。, 1990年代と2000年代は幾つかの国内テロもあった。多くの場合、連邦政府や大企業の動き、あるいはアメリカ社会の他の側面に不満を抱いた者による犯行だった。, 1970年代と1980年代はメディアから「ユナボマー」(The Unabomber)と呼ばれた正体不明の者から、学者や航空産業の人物に郵便爆弾が送られてきていた。一時期は無くなっていたが、1993年からまた熱心に郵便爆弾を送るようになった。その標的は製材業や石油産業の代表者など大企業に拡大された。1990年代半ばに2人が殺害され、FBIによる骨の折れるまた金を使った捜査に、全国的メディアの協力もあって、セオドア・カジンスキーという実行犯を突き止めて逮捕した。カジンスキーは終身刑を宣告された。, 1995年4月19日、オクラホマ州オクラホマシティのアルフレッド・P・ミュラー連邦政府ビルの外で、トラック爆弾が爆発し、168人を殺害し、600人以上を負傷させた。この爆破事件はアメリカ国内テロとしては最大のものとなり、連邦政府ビルの安全性を徹底的に改良させることになった。この事件の実行犯ティモシー・マクベイは反政府過激派であり、ウェーコ包囲事件やルビー・リッジ事件をその連邦政府に対する報復の正当化理由にしていた。マクベイは特に連邦政府役人を標的にしようとしたが、多くの無辜の市民が巻き添えになり、その中には19人の子供も含まれていた。マクベイは2001年に死刑が執行され、共犯者のテリー・ニコルズは終身刑を宣告された。, 1996年7月、ジョージア州アトランタの100年記念オリンピック公園で開催されていた夏季オリンピック期間に、自家製の爆弾が爆発し、2人が殺害され、100人以上が負傷した。この事件の後には2つの妊娠中絶医院と1つのレズビアン・ナイトクラブに同様な攻撃があった。2003年、容疑者エリック・ロバート・ルドルフが逮捕され、2005年に終身刑を宣告された。, 2001年、9.11同時多発テロ事件から数日後、著名なニュースパーソナリティや政府役人など数人に炭疽菌を入れた郵便が配達された(アメリカ炭疽菌事件)。この郵便で5人が死に、17人が感染した。このバイオテロは当初国際テロ組織アルカーイダによるものとされていたが、2008年にブルース・エドワード・アイビンスというメリーランド州の科学者が実行したとされた。アイビンスは告発される前に自殺した。, 1990年代初期、アメリカ合衆国の暴力犯罪率が過去最高になり、1993年頃から着実に減少を始めた。それでも薬物の問題や人口増加によってアメリカ合衆国の犯罪は増え続けている。, 1992年、ロサンゼルス暴動が起こった。これはロサンゼルス市警の警官4人が黒人運転手ロドニー・キングを殴ったことについて無罪とされた後に発生した。この暴動はロサンゼルス市の主に黒人やヒスパニック系住人が多い南中部で起こった。50人以上が死亡し、2000人以上が負傷した。この虐殺の顕著な例として、レジナルド・デニーとフィデル・ロペスは凶暴な暴徒に殴られて半殺しのめにあった。3,600か所から出火し、1,000軒以上の建物が破壊され、広い範囲で略奪が起こった。全体として被害総額は10億ドルに上った。ジョージ・H・W・ブッシュ大統領はこの暴動を非難し、カリフォルニア州知事のピート・ウィルソンおよびロサンゼルス市長のトム・ブラドリーと共に秩序回復に努めた。外出禁止令が発せられ、警官や消防士に加えて4,000人の州兵が動員された。, 1990年代後半から2000年代にかけて、多くの学校乱射事件が国内を震撼させた。犠牲者が多く著名な事件としては、1998年のウェストサイド中学校銃乱射事件、1999年のコロンバイン高校銃乱射事件、2005年のレッドレイク高校銃乱射事件、2006年のアーミッシュ学校銃乱射事件、2007年バージニア工科大学銃乱射事件、および2008年の北イリノイ大学銃乱射事件があった。これらの事件により銃所持に関する政治問題やメディアによる攻撃に関する議論に火を付け、メンタルヘルス、学校の安全性およびいじめ対策への関心が高まった。, 首都ワシントンの都市圏はベルトウェイ狙撃者事件に襲われた。これは2002年10月の1か月にわたってワシントンD.C.地域の市民や連邦政府職員に対する狙撃が続いたものだった。10人が殺害され、3人が負傷した。容疑者ジョン・アレン・ムハンマドとリー・ボイド・マルボが2002年10月24日に拘束され、1年後に有罪宣告された。ムハンマドは死刑、マルボは終身刑を宣告された。, 2009年11月、テキサス州キリーンのフッド砦銃乱射事件でアメリカ陸軍少佐ニダル・マリク・ハサンが仲間の軍人13人を射殺し、30人を負傷させた。ハサンがイスラム教徒の子孫だったためにこの事件はテロだと考えられたが、FBIはテロ組織によって行われた可能性を否定した。, 1992年8月24日、カテゴリー5のハリケーン・アンドリューが南フロリダで地滑りを起こし、マイアミ市南部郊外のホームステッド、ケンドール、カトラーリッジなどの町を破壊した。その2日後、同じハリケーンがルイジアナ州の人口が希薄な地域で再び地滑りを起こさせたが、フロリダ州ほどの被害にはならなかった。このハリケーンで直接には26人、間接には39人が死亡した。被害総額は260億ドルに上り、当時はアメリカ合衆国史上最大の被害額となった。このハリケーンのとき、連邦政府の対応が鈍かったためにジョージ・H・W・ブッシュ大統領の国内問題への対応力イメージに傷が付き、また貧しい住宅事情で災害を大きくしたことなど多くの議論の種が生まれた。, 1993年3月、「世紀の大暴風」あるいは「スーパーストーム」と呼ばれる大型の嵐がアメリカ合衆国の東海岸を襲った。この暴風雨は最低気圧が記録的なものとなり、フロリダ州でハリケーン並の暴風、高潮、および殺人的竜巻を生んだ。東部のあちこちでは1フィート (30 cm) から2フィート (60 cm) の降雪があった。この嵐は特にアメリカ合衆国南部を麻痺させ、アラバマ州バーミングハムのような地域では1.5フィート (45 cm) の降雪と記録的な低温を記録し、この地域としては異常な事態になった。この嵐で300人が死亡したとされ、被害総額は60億ドルになった。, 1993年の春から夏に大洪水がアメリカ合衆国中西部を襲い、ミシシッピ川やミズーリ川、さらにその支流の流域は大きな被害を受けた。多くの小さな町が被害を受け農業の被害は甚大だった。1万戸の家屋が破壊され、1,500万エーカー (60,000 km2) の農業用地が水に浸かった。この洪水で50人が死亡し、被害総額は150億ドルとなった。, 1994年1月17日早朝、ロサンゼルスのサンフェルナンド・バレー地域がマグニチュード6.7の地震に見舞われた(ノースリッジ地震)。この地震で70人以上が死亡し、9,000人以上が負傷した。死者の多くは建物、駐車設備あるいは高架道路の崩壊によるものだった。都心部が襲われたために被害額は200億ドルと大きなものになった。, 1995年7月、シカゴ市を熱波が襲い、それが厳しい余波を生んだ。7月12日から16日までの5日間連続で最高気温は 90°F (32℃) 台から 100°F (38℃) 台を彷徨った。熱指数(湿度と温度の組合せで暑さを感じる程度を表したもの)は何日も120度までいった。この熱波で600人以上が死んだが、その多くは黒人、年長者、貧窮者だった。この事件で住民のそのような構成員に関する関心が増し、熱波の際に彼等に手を差し伸べることの重要性や、都市の気温や湿度が以上に高くなる都市ヒートアイランド現象の概念に関する関心が高まった。さらに停電や適切な警告や大衆の備えが無かったことで自体を悪化させており、そのような高い死亡率に繋がった可能性があった。, 1996年1月、アメリカ合衆国北東部と大西洋岸中部を吹雪が襲い、多くの地域では18インチ (46 cm ) から36インチ (91 cm) の降雪を観測し、ワシントンD.C.、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク市およびボストンなどの主要都市を麻痺させた。この吹雪での死者は150人、被害額は30億ドルになった。, 1999年5月3日、グレートプレーンズ南部、特にオクラホマ州で猛烈な竜巻が起こった。最も強烈なものは藤田スケール5のものであり、オクラホマシティとムーア市の郊外を襲った。この竜巻は主要都心部を襲った竜巻の最も顕著な例となり、被害額も初めて10億ドルを超えるものになった。災害全体では50人が死亡し、600人以上が負傷した。, 2004年、ハリケーン・チャーリー、フランシス、アイバンおよびジャンヌと4つのハリケーンが1か月の間に立て続けにフロリダ州を襲い、100人以上の死者と500億ドルの損害を出した。その中でもアイバンは勢力が強く、チャーリーは被害額が大きかった。, 2005年8月と9月、ハリケーン・カトリーナとリタというさらに大型のハリケーンが2つメキシコ湾岸を襲った。カトリーナはルイジアナ州ニューオーリンズの堤防を決壊させ、海抜の低い市内の80%は水に浸かった。東はアラバマ州モービルから西のテキサス州ボーモントまで広範囲におよぶ破壊と洪水が起こり、特にミシシッピ州の海岸線は被害甚大だった。少なくとも1,800人の人命が失われ、1906年のサンフランシスコ地震以来となる国内の大惨事になった。メキシコ湾岸の港湾設備、石油掘削リグおよび石油精製所が被害を受け、既に高いレベルにあったアメリカの石油価格をさらに上昇させた。ニューオーリンズの住人はその多くが貧窮者であり、嵐の前に避難できなかった(あるいは避難しようとしなかった)ために何日も洪水の中に孤立してしまった。家屋の屋根の上あるいは不衛生で危険な公共建築物の避難場所から何万人もの人々が軍隊に救出された。州政府や地方政府は事態の深刻さに対処できなかった。連邦政府の対応も含めて彼等の対応は、混乱の中で危険なくらい備えが無く公共の安全を保つ能力に欠けていたとして、議員や市民に厳しく批判された。ジョージ・W・ブッシュ大統領は、連邦政府がニューオーリンズなどハリケーンの被害を受けた地域の再建を請け負うと約束し、その費用は2,000億ドルに上ると試算された。, ハリケーン・リタはカトリーナから1か月も立たないうちにテキサス州とルイジアナ州の州境地帯を襲った。このときヒューストン地域やルイジアナ州の一部から数百万人の市民が避難したので、アメリカ合衆国史の中で最大の避難騒ぎになった。ハリケーン・リタでは100人以上が死亡したが、死者の大半は避難やハリケーンが通り過ぎた後に起こった間接的な原因によるものだった。被害総額は100億ドルとされた。, 猛威を揮った2005年大西洋ハリケーン・シーズンの1つとして、10月にはハリケーン・ウィルマがフロリダ州を襲い、死者35人、被害総額200億ドルを出させた。このハリケーンは史上最低の圧力を記録した後にフロリダ州で地滑りを起こさせ、記録に残る猛威を発揮した。, 2008年2月のスーパー・チューズデーは多くの州で加熱した中間選挙の最中にあったが、破壊的な竜巻が中西部と南部を襲った。特に危険な夜間の竜巻が地域を横切った。このとき総計87個の竜巻が記録された。テネシー州、ケンタッキー州、アーカンソー州およびアラバマ州で60人以上が死亡し、数百人が負傷した。被害額は10億ドルを超えた。この竜巻による被害は23年ぶりの規模になり、夜と冬の竜巻の危険性と南部住民の竜巻に対する脆弱性について関心を新にさせることになった。, 2008年9月、2年連続して大型ハリケーンの被害を受けなかった後で、ハリケーン・グスタフがルイジアナ州で180億ドルの被害を生じさせ、さらにその数週間後にはハリケーン・アイクがテキサス州ガルベストンとヒューストン地域で310億ドルの被害を出させた。アイクはアンドリューやカトリーナに続いて史上3番目に大きな被害額を出させたハリケーンとなった。100人以上が死亡した。またこのハリケーンのためにガソリン価格が1ガロン4ドル(1.06ドル/リットル)にも跳ね上がった。, 2003年2月1日、スペースシャトル、コロンビア号が大気圏再突入時に分解し、部品はテキサス州とルイジアナ州の上空に飛散した。この事故で7人の宇宙飛行士全員が死亡した。事故の原因は発射時に発泡断熱材の一部が剥落し、これがシャトルに当たって穴を生じさせ、再突入時に高温ガスをシャトル内に引き入れてしまったとされた。この災害後、スペースシャトル計画は29ヶ月間中断され、NASAは事故原因を調査し、再発防止策を作った。, 2010年4月20日、メキシコ湾のルイジアナ州海岸沖で、海洋石油掘削リグ、「ディープウォーター・ホライズン」が爆発し炎上した。数十名の作業者が炎の中から脱出し救命艇やヘリコプターに救出されたが、11人が死亡し、17人が負傷した。リグは36時間燃え続けた後に沈没した。4月24日、損傷した油井から急速に原油がメキシコ湾に漏れていることが発見された。約90日間にわたって、毎日数万バーレル(1バーレルは159リットル)の原油が流出し、アメリカ合衆国史の中で最大の原油流出事故となった。油井は7月半ばに封鎖されて流出は止まったが、油井に蓋をし、代替油井を作る作業が行われている。海岸を守るために多くの努力が払われたが、この漏洩はメキシコ湾岸の州の環境と経済に莫大な影響を与えた。オバマ政権はリグの所有者BP(ブリティッシュ・ペトロリアム)に海岸の清掃費用を全て負担するよう命令した。その費用は数百億ドルに上ると推計されている。この事故でアメリカ合衆国政府、オバマ政権およびBPに対する大衆の評価が低下し、流出原油に対する対応が悪かったことでBPの評価は最悪になった。, ジョージ・H・W・ブッシュ大統領は湾岸戦争の成功によって評価を上げ、大統領として高い支持率を維持していた。しかし、景気の後退と選挙公約を破ったことが評判を落とし、その支持率は80%台の高みから40%台前半さらには30%台後半まで低下した。ブッシュが政治的問題を抱えた中で、ビル・クリントンは三つどもえとなった1992年アメリカ合衆国大統領選挙の一般投票で投票数の43%を獲得し、ブッシュの38%、第3の候補ロス・ペローの19%を上回って当選した。ペローは二大政党に対する有権者の不満に訴え、二大政党からほぼ等分に票を奪った[4]が、選挙人票を獲得するところまでは行かなかった。ペローが19%を獲得したことで、次の1996年選挙ではその改革党に対して連邦選挙委員会のマッチングファンド(大統領選挙資金公的補助制度)が得られることになった。次の1996年選挙でも再度三つどもえ選挙の地盤ができた。, クリントンはアメリカ合衆国史の中でも最も若い層の大統領として就任し、ベビーブーム世代としては初の大統領となった。クリントンは多くの国内問題に焦点を当てて解決することを約束し、就任時には高い期待を持たれた。しかし、直ぐに指名した役職者の個人的経歴に関する議論が持ち上がり、政治的な対立によりホモセクシャルがアメリカ軍に従軍することを認めると宣言したことも止められてしまった。, 1993年のこれらの出来事は、より対立的な大統領になるはずだったクリントンの評価を或るものには大きな好感をもって、また或るものには嫌悪感をもって見られるというパターンを作ったように見えた。クリントン政権で初期に成功した国内政策は1994年に攻撃用武器規制法を成立させたことだった。この規制法は共和党の非難を浴び、共和党が議会と大統領を支配していた2004年には失効することになった。クリントンが1994年に提案した国営健康管理システムはクリントンの妻、ヒラリー・ロダム・クリントンが議案提出したものであり、右派の猛反発にあった。彼等は政府が小さくあるべきであり拡張すべきではないという一般原則にのって活発な反対を行った。この提案は議会を通らず、アメリカの健康管理は従来と変わらぬままになった。, 民主党は1930年代のニューディール政策から60年代の「偉大なる社会」プログラムにつながる「大きな政府」による社会福祉や人権擁護の積極的な推進により大きな支持を得て、しかもその後のウォーターゲート事件で共和党が厳しい批判にさらされたこともあり、長期にわたって議会支配を確固たるものにしていた。しかし1980年代と1990年代初期はその結束が崩れた時代であり、有権者に奉仕する者としてある民主党現職議員の人気で議会の統治能力に対する幻滅が拡大していた事実を覆い隠していた。1994年の中間選挙で、民主党は突然40年間続いた下院と上院の支配を失った。ニュート・ギングリッチに率いられた下院共和党は40年間少数党として過ごした後に議会を誘導する困難さに直面したが、1994年9月27日に議会に提出した「アメリカとの契約」の追求を始めた。, 年を経るごとに、ワシントンでは大統領とその右派敵対者、共和党との二極化が進展した。ニュート・ギングリッチは1995年1月に下院議長に選出された。ニューメディアの情報発信源が急成長し、右派に声援を送った。ラッシュ・リンボーのラジオトークショーが素晴らしい成功を収め、共和党の議会における勝利に大きな影響を与えた。1995年に「ザ・ウィークリー・スタンダード」が創刊され、ジョージ・W・ブッシュが当選した後に、ホワイトハウスで最も読まれている出版物だという宣伝を行った。これら新しいメディアはかつて無かったような騒々しい論争を増長し、アメリカ政治の新しい「文化戦争」と言う者もいた。極右派の声は連邦政府に対して妥協しない敵意に変わり、特にアルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局がテキサス州ウェーコでブランチ・ダビディアンへの襲撃に失敗した後はそうだったが、1995年4月にティモシー・マクベイとテリー・ニコルズによるオクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件の後は信用を幾らか落とした。, クリントンは伝統的な民主党とリベラル派の後ろ盾を受けて、その中道的「新民主党」政策を好む中道派の支持を得ることができた。それはニューディール政策や偉大なる社会の拡大された政府の任務から舵を切り、共和党の主要課題を取り上げて三角政治を行うことを可能にした。そのような妥協の例としては1996年に法として成立した福祉改革法があった。この新法は受益者が利益を受ける条件として働くことを求め、個々人が補助を受ける期間の上限を定めていたが、各州はそのタイムリミットから取扱件数の20%を除外することを認めていた。クリントンはまた連邦の犯罪防止策を強固にする道を探っていたが、薬物への戦いに連邦予算を振り向け、新に10万人の警官を雇用することを要求した。クリントン政権が終わるまでに、アメリカは最長期間の景気拡大を経験し、財政黒字を達成していた。財政黒字を達成した最初の年は、1969年以降ではアメリカ社会保障医療信託基金から政府が借金をしなかった最初の年でもあった。, クリントンは1996年選挙で共和党の上院議員ボブ・ドールと、改革党指名候補となったロス・ペローを破って再選された。, 1992年と1996年の有権者は、以前からあったクリントンの婚外情事という噂について見逃してきていた。しかし1998年2月に、クリントンとホワイトハウスの研修生モニカ・ルインスキーとの間に性的関係が続いていたという報告書が出たときに、この噂が表面に出た。クリントンは当初、明快にその関係を否定した。「私はあの女性、ルウィンスキー嬢と性的関係を持たなかった。[5]」クリントンの妻ヒラリーはこの告発が「広い右派の陰謀」によって拾い上げられた根も葉もない中傷だと表現した[6]。ルウィンスキー事件が独立検察官ケネス・スターによって捜査されることになった1998年8月、クリントンは前言を引っ込めることになった。スターはここ数年間にわたるクリントンの悪行に関わる様々な告発を調査していた。クリントンの否定発言は検察官の前での宣誓供述書にまで及ぶことになったので、偽証と司法妨害の容疑で下院での大統領に対する弾劾手続が始められた。, この事件はクリントンが下院で弾劾裁判を受けたときが頂点だったが、結局上院で有罪とはされなかった。大衆の反発がニュート・ギングリッチに及び、1998年中間選挙で共和党が揮わなかったために、ギングリッチは辞任した。その後継議長なることが明白だったボブ・リビングストンは、彼も婚外情事を行っているという記事が出たために弾劾手続が始まる前に議員を辞任した。弾劾裁判の後、スキャンダルに倦み、気後れしたアメリカ大衆は事件が決着したことに大いに満足したように見えた。, 1999年、共和党員でイリノイ州出身のJ・デニス・ハスタートが下院議長になり、これを2007年まで続けた。共和党の下院議長としては最長記録になった。, 2000年アメリカ合衆国大統領選挙はその結果を巡って激しい論争となり、最終的にアメリカ合衆国最高裁判所の「ブッシュ対ゴア事件」判決では、5対4の票決でブッシュ有利としたフロリダ州公式開票結果を支持した。ジョージ・W・ブッシュは2001年1月20日に大統領に就任した。この選挙は選挙人投票で選ばれた大統領が一般投票では多数を得ていなかったということでは3度目の結果になった。ブッシュ政権の初めの8か月は大した事件も無しに過ぎた。しかし、その時点までに1990年代後期の好景気は終わっていることが明白になっていた。2001年という年は9か月不況に見舞われ、生産高の上昇率は0.3%に過ぎず、失業率や企業の破産件数が少なからず増加して、心理的にも数字からも好景気が終わったことが分かった。ブッシュ大統領は景気回復を目指して大幅な連邦税減税を承認した。, 2001年9月11日、アルカーイダのテロリストが民間機をハイジャックして世界貿易センターとペンタゴンに攻撃を加え、3,000人近い死者を出し、6,000人以上を負傷させたときに、ブッシュの指導力と決断力が試されることになった。ウサーマ・ビン=ラーディンが攻撃の首謀者であるとされた。ブッシュ大統領は全ての航空機を着陸させ、その週の残り期間はアメリカの空港を閉鎖させる命令を出した。航空産業の緊急救済法案が成立し、翌週証券市場が再開されたときは証券相場が急落した。この攻撃に反応してブッシュ政権と議会は安全保障の強化を目指した議論の多い米国愛国者法を成立させ、捜査、情報および緊急時対応に関わる多くの連邦機関を統合した国土安全保障省を創設した。10月7日、ブッシュは地球規模のテロとの戦いの一部としてアフガニスタンでの空爆開始を宣言し、アルカーイダ、ターリバーンなどテロ組織の殲滅を目指すと伝えた。2003年、経済が力強い回復を遂げたときに、ブッシュは3月20日にイラク戦争を始めさせた。これはサッダーム・フセインの政権が大量破壊兵器を保有しているという論議のある根拠に基づいた開戦だった。5月1日にブッシュは飛行機の上から「任務は達成された」と書かれた旗を背景幕として、イラクにおける主要戦闘作戦は完了したという声明を発表した。しかし、イラク反政府軍が率いるゲリラとの戦闘はこの10年間の残りも続いており、4,000人以上のアメリカ兵が殺されることになった。2003年後半、フセインが捕捉され、イラク国民の前で裁判に掛けられた後に、2006年に処刑された。, 2004年アメリカ合衆国大統領選挙で、ブッシュは民主党の対抗馬ジョン・ケリーを破って再選された。ブッシュは一般選挙の50.7%を獲得し、ケリーは48.3%だった。共和党は直近の中間選挙の傾向とは対照的に両院で勢力を伸ばした。, ブッシュ政権の2期目では、アメリカが主導したアフガニスタンとイラクへの侵攻、1兆3,000億円の減税、落ちこぼれ防止法、メディケア処方薬改善近代化法、部分的人工中絶禁止法、2005年エネルギー政策法および安全・説明可能・柔軟・効果的輸送平準化法の成立などが主な出来事だった。, 民主党は2006年選挙で勝利を収め、ナンシー・ペロシを女性初の下院議長に選出した。この選挙では女性と少数民族出身議員の数でも記録破りとなった。民主党は選挙で勝利したときに、議会で権力を取ったときの政策提案100時間計画を起草した。この計画の主要課題としては赤字を減らすための従量制計画、9.11委員会推薦の法制化、連邦最低賃金を時間あたり7.25ドルに増額すること、メディケア患者に対する薬価値下げ交渉を薬品会社と直接行う権限を政府に与えること、アメリカのエネルギー独立性を改善するために大規模石油会社に対する租税補助金を止めることが含まれていた。100時間計画の後、9.11委員会推薦は議会で実行されなかった。, 第110議会は、ブッシュ大統領の軍隊増派提案に対して拘束力の無い決議を行った以外、イラク戦争について何かを変えるようなことはほとんどしなかった。さらに下院はアメリカ軍の段階的撤退を条件に1,240億ドルの緊急予算を承認した。ブッシュは派遣軍の縮小を提案していることを理由にこの法案に拒否権を使った。これはブッシュが発動した2度目の拒否権となった。, 2007年5月から7月にかけて、エドワード・ケネディやその他の上院議員が共同発案者となって、上院法案1348号と修正法案1639号を提案した。この法案の目的は恩赦と市民権をもたらすために移民法の改革を要求することだった。6月7日、上院多数党院内総務ハリー・リードはこの法案を審議案件から外した。6月14日、ブッシュ大統領はこの法案の支持者となり、上院で審議するよう差し戻した。6月26日、上院は64対35の票決で討論終結を決めた。6月27日、27の修正案が議論され、そのうち5つのみが上院法案1639号に組み入れられた。6月28日、討論終結投票で議論を終わらせることが確認された。結果は53対45で討論終結を否決し、2007年移民法議論は終わった。, 上院において少数派共和党による議事妨害の恐れがあり、110議会の1年目だけで72回の討論終結投票が行われた。これは通常の2年会期ではこれまでの68回を破る記録となった[7]。上院少数党による妨害で法案を成立させられないために、何もできない議会の様相を呈し、議会の支持率は著しく降下した。2007年後半、幾つかの世論調査では議会に対する支持率が18%にまで下がっていた。2008年1月、議会の支持率は20%台半ばだった[8]。2008年の選挙では多数派民主党が両院で勢力を伸ばした[9]。, 2008年は共和党の大統領[10]と民主党による議会支配[8]という状況で、かつどちらも著しく低い支持率のままに選挙の年になった。大統領選挙では、共和党がアリゾナ州選出のアメリカ合衆国上院議員ジョン・マケインを大統領候補、アラスカ州知事のサラ・ペイリンを副大統領候補に指名した。民主党はイリノイ州選出のアメリカ合衆国上院議員バラク・オバマを大統領候補、デラウェア州選出のアメリカ合衆国上院議員ジョセフ・バイデンを副大統領候補に指名した。共和党の指名は2月のスーパーチューズデーの結果で大勢が決したが、民主党の指名争いは6月にヒラリー・クリントンが公式に撤退宣言を行うまで決着が着かなかった[11]。11月4日、オバマがマケインを破って第44代大統領に当選し、行政府の最高位に選ばれた初めてのアフリカ系アメリカ人となった。オバマとバイデンは2009年1月20日に就任した。, オバマの政策は打ち続く地球規模の金融危機に対応しなければならず[12]、また税制や外交政策の修正、キューバのグァンタナモ湾仮収容所での囚人拘禁の段階的縮小に取り組んだ[13]。オバマはイラクからの米軍撤退期限を2011年に設定した[14]が、アフガニスタンでは2009年前半に増派を行い、さらに要求されているので、戦争は拡大している。, 2010年3月、オバマは患者保護・医療費のかからない医療法を成立させた。これはアメリカの健康保険システムにとって大きな変化になった。議会では大いに議論が戦わされ、共和党員はだれも賛成票を投じなかったので、民主党の支持だけで成立した。, 2010年4月以降、オバマ政権はディープウォーター・ホライズン原油流失事故で悩まされている。これはアメリカ史の中でも最大の流出事故であり、損傷した油井から90日間も原油が流出し続け、7月半ばに流出は止められたものの、まだ完全ではない。メキシコ湾沿岸諸州の環境と経済に大きな衝撃を与えた。オバマ大統領は何度もメキシコ湾岸に行ってこの危機への不断の対応を訴えたが、オバマとその政権、連邦政府およびBPは、その危機対応のまずさで否定的な評価を受けるようになった。, バラク・オバマ大統領は伊勢志摩サミット出席後の2016年5月27日、日本の安倍晋三首相とともに、現職のアメリカ大統領としては初めて、自国の行為により世界史上初めて戦争時において核兵器の使用がなされた場所である広島県広島市の広島平和記念公園を訪問した。, 2016年、ラストベルト地帯における、従来は民主党の支持層であった白人労働者の支持を受けるなどして、「AMERICA FIRST(アメリカ第一)」、「Make America Great Again(アメリカを再び大国に)」といったスローガンを掲げて、その並外れた言動から「暴言王」とも称された、実業家出身で政治経歴のないドナルド・トランプが共和党候補として出馬し、元ファーストレディ(大統領経験者の配偶者)である民主党候補のヒラリー・クリントンを破り当選を果たし大統領に選出され、2017年1月20日に第45代アメリカ合衆国大統領に、副大統領にはマイク・ペンスが就任した。, トランプ政権は、環太平洋パートナーシップ協定(通称:TPP)からの撤退表明、駐イスラエル米国大使館のエルサレムへの移転および同国首都としてのエルサレムの承認、シリアへの空爆、メキシコからの不法移民規制、気候変動抑制に関する多国間協定(通称:パリ協定)からの米国離脱宣言、イラン核合意からの離脱、国連人権理事会からの離脱、ホワイトハウス報道官やCIA(中央情報局)長官、国務長官などの相次ぐ政府高官人事の交代、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の第3代最高指導者である金正恩朝鮮労働党委員長との史上初の米朝首脳会談の開催など、内政・外交面ともにさまざまな課題に直面している。, Joint Resolution to Authorize the Use of United States Armed Forces Against Iraq, International Surveys: What We Are Finding, “THE 1992 ELECTIONS: DISAPPOINTMENT -- NEWS ANALYSIS An Eccentric but No Joke; Perot's Strong Showing Raises Questions On What Might Have Been, and Might Be”, http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9E0CE0DB1F3FF936A35752C1A964958260, Remarks by the President at the After-School Program Event, http://www.nytimes.com/2007/12/02/weekinreview/02herszenhorn.html?_r=1&ref=todayspaper&oref=slogin, FACTBOX: Faces and facts in congressional election, Clinton Concedes Democratic Nomination; Obama Leads Party in Fall, Obama Signs $787 Billion Stimulus Package, Executive order -- review and disposition of individuals detained at the Guantanamo Bay Naval Base and closure of detention facilities, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=アメリカ合衆国の歴史_(1991-現在)&oldid=74329977.
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