自由民主主義(じゆうみんしゅしゅぎ、英: Liberal democracy)または自由民主制(じゆうみんしゅせい)とは、自由主義と民主主義の理念が融合した政治体制で[3]、議会制民主主義と複数政党制を統治形態として認めつつ個人の自由をその運用において重視する政治的イデオロギーである[4]。自由権は憲法により保障されるとの立場から立憲民主主義(英: Constitutional democracy)[5]、あるいはマルクス主義の立場からブルジョア民主主義(英: Bourgeois democracy)[6][7][8]、西ヨーロッパで発展した自由を基調とする点から西欧民主主義(英: Western democracy)とも呼ばれる[9]。, 自由民主主義の原則には、立憲主義による公権力の制限、構成員の言論の自由、参政権、自由選挙などを前提とした議会制民主主義などがあり、構成員の多様な意見や政策が自由な議論と選択によって集団の意思決定に反映される。現代では多くの国では複数政党制を採用している。自由民主主義は政治における市場主義や多元主義でもある。, 自由民主制は、アメリカ合衆国、インド、ドイツなどの連邦共和国や、イギリス、スペインなどの立憲君主制のような、複数の形態がある。さらにはアメリカ合衆国などの大統領制、イギリスやイギリス連邦諸国などの議院内閣制、その組み合わせであるフランスなどの半大統領制などの形態も含む場合がある。, 自由民主主義の思想や名称の起源は、啓蒙時代とも呼ばれた18世紀のヨーロッパである。当時は、ヨーロッパ国家の大多数は君主制で、政治権力は君主または貴族が握っていた。古典古代からの政治的理念により民主主義の重要性は低いと考えられ、民主主義は本来的に民衆の変化する気まぐれによって政治が不安定で混沌となると広く信じられていた。さらに民主主義は、本来的に悪性や暴力性を持つ人間の本性とも対立し、民衆の持つ破壊的な衝動を抑えるためには強い指導者が必要であるとも信じられていた。多くのヨーロッパの君主の権力維持は王権神授説となり、その統治権への疑問は冒涜とされた。, これらの保守的な視点は、最初に啓蒙主義知識人の比較的小さなグループによって挑戦を受けた。彼らは人間の出来事は理性と、自由と平等の原則によって制御されるべきと信じた。彼らは「全ての人間は平等に作られた」のであり、そのため政治的な権威は「高貴な血」によっては正当化されない、と主張した。この「高貴な血」は、神との特別な関係や、あるいは人が他の人よりも優越すると主張する他の属性などである。彼らはさらに、政府は民衆に仕えるために存在し、逆ではなく、支配する者を法が支配すべきと主張した(法の支配)。, 18世紀末の近くには、これらの概念はフランス革命やアメリカ合衆国の独立に影響し、自由主義の思想の誕生となり、啓蒙思想の原理を実践に適用した政治体制が創立された。これらの政治体制のいずれも、正確には今日呼ばれる「自由民主主義」ではなく、最大の相違として投票の権利はまだ少数の人間に制限されていた。フランスでの試みは短命で終わったが、これらは後に成長した自由民主主義の原型となった。これらの政治体制の支持者が「自由主義者」(liberals、リベラルズ)と呼ばれたため、これらの政治思想や体制は「自由民主主義、自由民主制」(liberal democracy)と呼ばれるようになった。, 最初の原型的な自由民主制が創立された時は、自由主義は極論で、国際的な平和や安定を脅かす危険で過激な思想とみなされていた。保守的な王党派は自由主義や民主主義に反対し、自分自身を伝統的な価値や物事の自然な秩序を守るものと考えた。若きフランス第一共和政の実権をナポレオン・ボナパルトが握り、フランス第一帝政に再編成してヨーロッパの大半を征服し続けると、保守派の民主主義への批判は高まった。ナポレオンが最終的に敗北すると、自由主義や民主主義のこれ以上の広がりを防ぐためにヨーロッパで神聖同盟が形成された。しかし自由民主主義の思想はすぐに一般民衆に幅広く広がり、19世紀の間には伝統的な王党派は継続的に守勢となり消滅していった。, 改革や革命は、多くのヨーロッパ諸国での自由民主主義への移行を促進した。自由主義は過激な思想として生まれたが、政治的な主流の一部となった。同時に、自由民主主義の概念を採用した多数の非自由主義思想も開発され、伝統的な王党派はより過激な思想とみなされるようになり、自由民主主義はより主流となった。19世紀の末には、自由民主主義はもはや単なる「自由主義の」思想ではなくなり、多数の異なった思想によって構成される概念の1つとなった。, 第一次世界大戦後や、特に第二次世界大戦後には、自由民主主義は政府理論の中で支配的な地位を占めるようになり、現在では大多数の政治的立場から支持されている。, 自由民主主義は啓蒙主義的な自由主義の主張から生まれたが、当初より民主主義と自由主義の間の対立が存在する。特に古典的自由主義体制における自由主義思想は個人主義が強く、国家の個人に対する権力を制限しようとする。反対に、民主主義の一部では経済的な平等を目指して集産主義など政府や集団の力を強化しようとする。「自由民主主義は、自由主義的な個人主義と、民主主義的な集産主義の間の妥協である」という立場もあり、この立場からは、非自由主義的民主主義や自由主義的専制などの視点の存在が、その証明として挙げられる場合がある。他方では、伝統的な自由主義と民主主義的な政府は、単なる組み合わせではなく、政治的平等の概念を底流として発生した相互に必須の存在であるという立場もある。, 調査組織のFreedom Houseは現在、自由民主主義の簡潔な定義を「自由権を保護した選挙による民主主義」としている。, 「自由民主党」という党名の政党は多数あるが、「自由民主主義」を掲げている場合と、必ずしもそうでは無い場合がある。, 当初より自由民主主義を掲げている政党の例には、イギリスの自由民主党やドイツの自由民主党(FDP)などがある。, 日本の自由民主党は、自由党と日本民主党が合併して結党された。結党時の「党の政綱」には「外交の基調を自由民主主義諸国との協力提携に置いて」との記載がある[10]。また、党名を公募した際に最多となったのは「日本保守党」であったが、「選挙に不利」という理由で最も自由民主主義を端的に現す「自由民主党」を党名として採用した経緯がある[11]。, ロシア自由民主党は、ソ連崩壊を受けてアラスカ等のロシア帝国の領土の回復や反ユダヤ主義を標榜しており、通常は極右政党と呼ばれている。. フランスはライックで、民主的または社会的な不可分の共和国である。出生、人種、または宗教の差別なく、すべての市民に対し法の前の平等が保障される。, 前文「フランスは、種族・宗教・信仰の差別なく、譲渡することのできない神聖な権利を所有することを声明する。」「国家は、児童および青年が教育・職業および教養を均等にうけ得ることを保障する。あらゆる段階における無償かつライックな公の教育を組織することは、国の義務である。」第1条「フランスはライックで、民主的または社会的な不可分の共和国である。」, Федеральный закон "О свободе совести и о религиозных объединениях" от 26.09.1997 N 125-ФЗ. 自由民主主義(じゆうみんしゅしゅぎ、英: Liberal democracy )または自由民主制(じゆうみんしゅせい)とは、自由主義と民主主義の理念が融合した政治体制で 、議会制民主主義と複数政党制を統治形態として認めつつ個人の自由をその運用において重視する政治的イデオロギーである 。 自由民主制(資本主義経済と議会制民主政治の融合した体制)を形成してきた主な組織をイルミナティの設立(1776年)以前と以後に分けて掲載した。 イルミナティ以前には資本主義経済の源流として、 自由と民主主義の原理としての現象学の構築は、始まったばかりである。 付記 現象学 についての参考書を最後にあげておく。 ラングドリッジはイギリスの臨床心理学者で、現在はゲイの 公民権 運動の理論化に努めている。 柳原邦光「アメリカとフランスの市民宗教論の比較」地域学論集5巻3号、鳥取大学地域学部地域文化学科,2009,p227-251. (1992) Political Rights and Political Liberties in Nations: An Evaluation of Human Rights Measures, 1950 to 1984. 民主主義とは「私(たち)のことを私(たち)で決めること」で、自由主義「私のことを私で決めること」を包摂しています。多数決は、少数派の自由を否定するもの(私のことをあなたたちが決めている。)、従って民主主義をも否定するもの(私たちのことをあなたたちだけで決めている。 民主主義と自由主義の区別を知っていますか? 今年の夏は安保法制が盛り上がったこともあり、首相官邸前でsealdsなどの左翼団体による抗議デモが随分と行われたものでした。私自身は道端で行われるデモは信号が通れなかったり、非常に迷惑だなあと思ったわけですが、それも 日本国憲法において、自由主義と民主主義とはどのように位置づけられているのでしょうか?またその違いは何なのでしょうか?言葉の解釈だけでいうと自由主義=国民の権利、自由を最大限に保障しようとする考え方民主主義=国民自らが政治 この記事、『北朝鮮式民主主義との融合(連邦制統一)のための下準備ではないのか』という趣旨なら、それは大当たりだと思います。 でも、「社会主義化」はちょっと違う、と私は思っています。 一見、相反している合理主義と神秘主義が融合している二重人格状態を理解することが欧米フリーメイソンが作りだした自由民主制(資本主義と民主主義の融合)の光と闇を読みとく鍵なのだ。 自由民主主義(じゆうみんしゅしゅぎ、英: Liberal democracy)または自由民主制(じゆうみんしゅせい)とは、自由主義と民主主義の理念が融合した政治体制で 、議会制民主主義と複数政党制を統治形態として認めつつ個人の自由をその運用において重視する政治的イデオロギーである 。自由権は憲法により保障されるとの立場から立憲民主主義(英: Constitutional democracy) 、あるいはマルクス主義の立場からブルジョア民主主義(英: Bourgeois democracy) 、西ヨーロッパで発展した自由を基調とす … 初宿正典「現代ドイツにおける宗教と法」法哲学年報 日本法哲学会 編 2002巻、ページ86~97, 田近肇「イタリアにおける国家とカトリック教会」宗教法25号、pp69-98,2006年, 山田邦夫「オーストラリアの憲法事情」2003年、国立国会図書館立法考査局,2003年, 島薗進『現代宗教とスピリチュアリティ』弘文堂〈現代社会学ライブラリー〉、2012年12月30日、pp129-123, 中島三千男「「大日本帝国憲法」第28条「信仰自由」規定の成立過程」(奈良大学紀要(6),p.127-140,1977.12), ウィリアム・ウッダード 『天皇と神道 GHQの宗教政策』 サイマル出版会(1988年、原作英語版は1972年), 国務大臣の靖国神社参拝問題についての政府統一見解 昭和55年11月17日 参議院議院運営委員会理事会にて公表, 1946年(昭和21年)7月16日の第90回帝国議会・衆議院・帝国憲法改正案委員会の議事録。質問者:日本社会党・, 「 ゆるキャラちゃん達も「福は内」 」 and Pierre Claude, R. "Human Rights and Statistics". Bollen, K.A. 今日の日本国内や世界で起こっている諸問題を見る時、自由主義思想と民主主義思想のみでは人類社会の発展はバランス悪く、非常に危うくなっています。 37-62. University of Pennsylvania Press. Elle assure l'égalité devant la loi de tous les citoyens sans distinction d'origine, de race ou de religion. 政教分離原則(せいきょうぶんりげんそく)は、国家(政府)と教会(宗教団体)の分離の原則をいう[1][2]。また、教会と国家の分離原則(Separation of Church and State)ともいう[3]。ここでいう「政」とは、狭義には統治権を行動する主体である「政府」を指し、広義には「君主」や「国家」を指す[4]。世界大百科事典では「国家の非宗教性、宗教的中立性の要請、ないしその制度的現実化」と定義されている[5]。, 国家により、フランスなどに見られる国家による一切の宗教的活動を禁止する厳格な分離(分離型)や[4]、国家が平等に宗教を扱えばよいとする英国などに見られる緩やかな分離(融合型)[6][7][8] などに分かれる。信教の自由の制度的保障として捉えられ[9]、政教分離と信教の自由は不可分である[10]。本項では信教の自由との関連、各国における政治と宗教、また国家と教会との関係についても扱う。, 歴史的条件の違いを反映して、政教分離は国によって様々な形態をとる[11]。1977年にジャック・ロベール(英語版)の試みた類型化によれば、国家と宗教の関係には融合型、分離型、同盟型がある[12][13][14]。, がある[10]。ただし、現実には重複することもあり、完全に形式的に分類できない[10]。, 政教分離には、国教の禁止が「規制原理」として働き、信教の自由が「構成原理」として働くという二面性がある[23][24]。日本の憲法学では、政教分離は信教の自由を実現するための手段(制度的保障)であると言われる[25]。アメリカ合衆国憲法修正第一条(英語版)の条文にも規制原理と構成原理の両面が見られる[24]。ジョン・ヴィッテ(英語版)は国教の禁止の側面を重視する立場を「厳格分離主義」、信教の自由の側面を重視する立場を「不偏許容主義」と呼んだ[24]。, 宗教改革で信教の自由が成立したといわれるが、ツヴィングリ派や他派の自由が認められたわけではなかった。その後の宗教戦争を経て、信教の自由が普遍的に相互承認されるようになり、それを政治的に保障するための制度としてヨーロッパにおいて政教分離制度が成立した[17]。また、 信教の自由を成り立たせているものは寛容思想であり、寛容を制度化したものが政教分離であるとされる[17]。, このことから、伊藤潔志は「政教分離の本質は, 政教関係の有様ではなく, 信教の自由が保障されていることにあるのである。 したがって, 政教分離は信教の自由を保障している国家における政教関係である」と述べ、さらに、信教の自由や政教分離を認めない国家に対してそれを普遍的な政治原則とみなして認めるよう働きかけていくことは信教の自由に反することにならないかと述べている[17]。, キリスト教圏の国では政教分離を国制とした後も、軍隊で従軍牧師のような聖職者を雇用している。厳格に分離しているアメリカやフランスでも、空母に礼拝所を設置したり宗教行事を執り行うことが容認されている。, 自衛隊に宗教活動に従事する職種(兵科)は存在しないが、艦内神社の勧請や駐屯地への神棚設置、装備品のお祓い[26]など、防衛省が主導せず費用を負担しない神事が容認されている。, 一般的な理解としては政教分離と信教の自由は、西欧においては16世紀の宗教戦争に端を発し、フランス革命で一応形が整う国家の世俗化の産物とされる[27]。中山勉によれば、政教分離は「信教の自由のための制度的保障であり、単に政治と宗教が別次元で活動しているという状況、ないしはその主張を指すものではない」「あらゆる宗教の信教の自由を目的にしているか否かが、政教分離が存在しているかどうかの判断基準」となるとする[28]。, 962年にオットー1世がローマ教皇ヨハネス12世により「ローマ皇帝」に戴冠され、この神聖ローマ帝国以来ヨーロッパはキリスト教に統一された世界国家となり、最盛期に教会は莫大な土地を領有し、教皇の世俗的権力が強大となった[29]。中世では国家と教会が密接に結合しており、公認の宗教以外は異端とされた[30]。, 叙任権闘争、宗教戦争、フランス革命の3つがヨーロッパにおける政教分離の展開における重要な画期となった[31]。宗教改革や初期資本主義の進展によって、教会権力と国王権力が対立し、近世に国王権力は絶対君主制を樹立した[29]。しかし、それも18世紀のフランス革命以降崩壊し、宗教的寛容と国家の宗教的中立の制度が広まった[30]。, フランスでは1516年の政教条約によって国教制度がとられ、カトリックは特権的地位を与えられた[29][32]。ナントの勅令後は 「寛容」が認められプロテスタントにも信仰の自由は認められていたが、 1685年に廃止され、1789 年まで国教制度が存続した[32]。1789年のフランス人権宣言は第10条で「何人もその意見について、それがたとえ宗教上のものであっても、その表明が法律の確定した公序を乱すものでないかぎり、これについて不安をもたないようにされなければならない。」とカトリック以外の宗派を含む信教の自由を明記した[29]。また、1792年9月20日には国民公会が、出生や結婚、死亡などの民事的身分の届け出を教会から自治体に変更し、結婚届けも民事婚にする法案を可決。さらに、西暦の廃止すなわち革命暦の採用、教会資産の国有化、修道会が運営していた寄宿制度(コレージュ)の廃止など革命政府はカトリック教会と対立した[要出典]。しかし、聖職者世俗化法で「至高尊者」などの名の下にカトリックに代わる新たな公的祭祀が行われた[32]。ナポレオンと教皇ピウス7世は、コンコルダ(政教条約)を締結し、カトリック中心の公認宗教制となった[32]。このコンコルダ体制では、プロテスタント、ユダヤ教も認可したものの、カトリック国教制であった(1814年憲章、1830 年憲章・1848 年憲法)[32]。その後、第三共和制のもとでは、修道会が廃止され、公教育機関の非宗教化と、教会と国家との分離がはかられた[32]。フェリー法(1881年)では初等教育の非宗教性が定められ、ゴブレ法(1886年)では聖職者を初等教育から排除され現在のライシテへとつながっていく政策がとられ、1901年の結社法では、修道会設立を政府許可制にした[32]。1904年、フランスとローマ教皇庁は外交断絶となるが、1905年には教会と国家の分離に関する法律 (Loi de séparation des Eglises et de l'Etat) が成立し、それまでの政教条約がフランス政府によって一方的に破棄された[32]。, イングランドでは1534年にヘンリー8世によってイングランド国教会が成立した。エリザベス女王時代にはピューリタン(カルヴァン派)が国教会からカトリック色を一掃して教会改革を徹底するよう要求を繰り返した。ピューリタン革命前夜、議会派ピューリタンも、長老派(国王との妥協を模索し、国教会のなかで改革をする)と独立派(国教会から分離し、会衆教会を基本単位として教会純化を考える)、平等派(王制を廃止し、人民主権を達成しようとする)などの分離派(国教会からの分離を主張)に分裂した。クロムウェル政権は独立派の会衆派教会を優遇した。同じ分離派でもクエーカー教徒、平等派などは認められず、強く信教の自由を主張した。これらの人々はアメリカ、オランダなどへ亡命してのちに帰国する人も多く、信教の自由、政教分離への主張を強めていった。1660年の王政復古後、イングランド国教会は公定宗教として復活した。議会は1673年に審査律を制定し、公職に就くには国教会の信者でなければならないとの規定を行った。そうした中、信教の自由を求める運動は継続され、1689年の名誉革命に際して、「プロテスタント非国教徒を現行の諸刑罰から免除する法」(寛容法)が制定され、プロテスタントの非国教徒は信仰を理由に迫害されることはなくなった。しかし、1828年の審査律廃止まで公職に就くことはできなかった。また、カトリックも迫害されたが1801年のアイルランド併合の際に解放が約束され、オコンネルの運動による1829年のカトリック教徒解放令によって認められた。, 政教分離を国制とした史上初の世俗国家はアメリカ合衆国である[33]。1791年合衆国憲法修正第1条では国教の設置が禁止された[34]。政教分離が選ばれたのは、啓蒙主義思想によるだけでなく、新国家がイギリスにおいて宗教的に迫害された人々による「合衆国」であり[35][36]、異なった宗教的背景を持った人びとによって構成されていたためであった[37]。しかし、州の独立性は強く、ニューヨーク州、メリーランド州、ノースカロライナ州、サウスカロライナ州、ジョージア州は監督派教会を、マサチューセッツ州、コネチカット州、ニューハンプシャー州は会衆派教会を当初は公定教会としていた。その後、修正第1条の精神が徐々に浸透し、各州における公定教会制度は廃止されていき、最も頑強にピューリタンの伝統が保持されたマサチューセッツ州においても1833年に公定教会は廃止された[38][注釈 1]。, ローマ教皇ヨハネ23世は1963年に回勅「マーテル・エト・マギストラ」「パーチェム・イン・テリス」を出し、第2バチカン公会議からは現代世界憲章や「信教の自由に関する宣言」が出された[39][40]。現代世界憲章26項では信教の自由に関する権利は人間の普遍的な権利と義務とされ、29項では万人の本質的平等が認められた[39]。教会は世俗国家との対立図式を乗り越え、人類の未来のためのパートナーとして国家を意識するようになった[40]。, 現在、多くの国で、信教の自由を保障するための政教分離原則が人権宣言や憲法で保障されるようになっている[29][30]。ただし、公定宗教は認められており、英国国教会、アメリカ合衆国大統領の就任式宣誓などは政教分離の原則違反にはならない[34]。, 憲法修正第1条で示されるアメリカ合衆国での政教分離原則の目的は、市民の宗教的自由の保護であるため、宗教の自由な活動は私的・公的領域において保障される[41][42][43]。そのため、特定の宗教が政治に関わっても政教分離違反にならず[8]、フランスに比べて、宗教が機能する場がかなり広い[41]。, フランスでは政治と宗教が厳格に分離される(Separation of Religion and Politics)のに対して、アメリカでは政府と特定の宗教団体との分離(Separation of Church and State)である[42]。アメリカにおいては、国家が特定の教会や教派のために公金を使ったり、特定の教会・教派の信者への優遇措置が違憲なのであり、多様な教会的伝統が国家形成に積極的に参与できるよう、特定の教派が突出した政治権力を行使できない枠組みを用意するという点に重点が置かれている[43]。, アメリカではキリスト教的伝統は尊重され、アメリカの公的領域において一定の役割を果たすことは伝統的に是認されている[43]。アメリカ合衆国ドルの紙幣・コインには"IN GOD WE TRUST(我々は神を信じる)"の文言が刻まれ印刷されているし、アメリカ合衆国議会には宣教師が専属している。, また、証言やアメリカ合衆国大統領などの公職就任の際に、宣誓もしくは確約 (Affirmation) が求められるが、このうち宣誓は神に対する誓いであり、神に言及しない確約はクエーカーなどの宣誓を禁ずる教派の信徒のために用意されたものである。ロバート・ニーリー・ベラーによれば、アメリカには、教会と明確に分化された高度に制度化された「市民宗教」が、アメリカ人の生活の枠組みに宗教的次元を付与しており[41]、アメリカの最大公約数的な宗教がアメリカの公的領域で一定の役割を果たすことが伝統的に是認されている[42]。, この市民宗教では、アメリカは神がイスラエルの民に与えると約束した「約束の地」「イスラエル」、アメリカ人は「選ばれた人々(選民)」、独立革命は「出エジプト」、独立宣言と憲法は「聖典」、ワシントンは「モーセ」、南北戦争とリンカーンの死はキリストの死と再生に結び付けられており、「世界の光明」であるアメリカを世界規模に拡大することが目指される[41]。, 森孝一はベラーの「市民宗教」を「見えざる国教」と意訳し[42]、巡礼父祖(ピルグリム・ファーザーズ)のキリスト教と、建国父祖(ファウンディング・ファーザーズ)の啓蒙思想とが結合したものがアメリカの「見えざる国教」とする[41]。独立宣言では、, と明記されるが、森孝一は「すべての人間は平等である」と非宗教的に表現することもできたが、キリスト教的な表現になったのは当時の大半の人々にとって自然であったからで、この状況は21世紀現在でも変わらず、アメリカの人口の90%がユダヤ・キリスト教的伝統の宗教を信仰している[42]。, 2001年にアメリカ同時多発テロ事件が発生して3日後の9月14日にはワシントン大聖堂で追悼礼拝が実施された[42]。ワシントン大聖堂はイングランド国教会系統の聖公会に所属する教会であり、森孝一は政教分離の原則を犯しても国家統合を優先させたい意図があったとしている[42]。追悼礼拝ではイスラームの聖職者、ユダヤ教の聖職者も招かれ、バクスター大聖堂牧師は「アブラハム、ムハンマド、そして私たちの主であるイエス・キリストの父なる神」と呼びかけ、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つのセム的一神教(アブラハムの宗教)が同じ一つの神を信仰する兄弟であるというメッセージがこめられた[42]。ブッシュ大統領は、アメリカへの攻撃は、創造主がアメリカに与えた「自由と平等」という理想への攻撃であり、この理想はすべての人類の希望である、と演説で語った[42]。, 司法では、合衆国最高裁判所は1961年のTorcaso v. Watkins訴訟で連邦・州政府において宗教に関する質問、検査、査察などを違憲とした[44]。1971年のレモン対カーツマン事件では、国家にゆるされる宗教的行為の条件として、政府の行為が適法で世俗的な目的をもつこと、宗教を助長または抑制しないこと、政府と宗教の過度の関係をもたらさないことの3要件を判示した。, 2002年の「星条旗に対する宣誓」の中の「one Nation under God(神の下にある一つの国家)」という言葉に対する無神論者による訴訟において、サンフランシスコ第9連邦控訴裁判所は違憲と判決したが、連邦議会は圧倒的多数で反対決議し、世論調査では89%がこの言葉を残すべきであると答えた[42]。, 最高裁は2005年にマクリアリィ郡 v.アメリカ自由人権協会訴訟で、公共の場における他の宗教の文書なしの聖書のみの展示は違憲と判示した[45]。同年、刑務所における無神論者の服役が議論できる集会についてのCutter v. Wilkinsonで無神論も宗教と同等の保護されるべき法益であると判示した[46]。, マーティ、ピラード、リンダーらによれば現在のアメリカでは、大統領が超越的な価値基準から国家や国民の行為を評価するリンカーンのような「預言者型」から、国家自体が究極の基準となり大統領は国民に国家賛美を求める「司祭型」へ移行してきた[41]。コールズは「預言者型」に「リベラルな市民宗教」を、「司祭型」に「保守的な市民宗教」が対応しているとする一方で、蓮見博昭は市民宗教が保守とリベラルに分裂して、国民統合のための装置として機能しなくなったと指摘している[41]。, フランスの政教分離はライシテ (laïcité) の原則に基づく[注釈 2]。ライシテとは国家の非宗教性、宗教的中立性の原則を意味するものであったが、1958年憲法では法の下の平等、差別の禁止、信条の尊重を含む概念へと強化され、法概念としては国家の非宗派性、教会と国家の分離などを含んでおり、あいまいさという柔軟性も持っている[12]。カトリック教会のような特定の宗派を優遇も冷遇もするのでなく、諸宗派に対して中立的で平等な対応をとることを定めた制度である[48]。奥山倫明によれば、ライシテは国家と宗教との関係を定めたものなので、これを日本の憲法学者の宮澤俊義が述べたような「国家があらゆる宗教から絶縁し、すべての宗教に対して中立的な立場に立つこと、すなわち、宗教を純然たる『わたくしごと』にすることが要請される[49]」という厳しい分離を解釈していた意味で「政教分離」と呼ぶことは難しいと指摘している[48]。, 第三共和制のもとで修道会が廃止され、公教育機関の非宗教化と、教会と国家との分離がはかられた[32]。フェリー教育相は1881年に公教育を無償化するとともに、初等教育の非宗教性が定められた(フェリー法)[32]。1884年の憲法改正では議会開会の祈りは廃止された[48]。1886年には初等教育の公立学校から聖職者が排除された(ゴブレ法)[32]。ピエール=ワルデック=ルソーは1901年に修道会を政府認可制にした[32]。1902年にエミール・コンブ首相はカトリック系学校約12,500校を閉鎖。これは教会財産の国家接収を意味し約3万人の修道士女が国外へ亡命した。1904年にルベ大統領がイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世を訪問するとローマ教皇庁はフランス政府と国交を断絶したが、1905年「教会と国家の分離に関する法律」(Loi de séparation des Eglises et de l'Etat) が成立し、それまでの政教条約がフランス政府によって一方的に破棄された[32]。ただし、この1905年の教会国家分離法では自由な礼拝が保護され、さらに礼拝への公金支出禁止についての特例として学校の寄宿舎・病院・監獄・兵営には司祭の配置が認められており、厳密な国家と宗教との分離ではなかった[48][50]。, ライシテが憲法に規定されたのは、1946年の第四共和制憲法である[注釈 3][12]。1958年成立のフランス第五共和国憲法に引き継がれた[12]。, ルソーが論じた市民宗教は第三共和政で禁止されたが、21世紀現在のライシテを「共和主義的市民宗教」とする指摘もある[41]。ボベロはライシテが国民のアイデンティティとなって、「共和国の諸価値」と矛盾するイスラムの方に問題があるとするように、ここには「市民宗教」が持つ危険性が現れているという[41]。現代では「異教徒を排除してはならない」という宗教的寛容が、イスラム教徒の移民問題で議論されているが、移民反対論者はかつてのようなレイシズム的な排外主義ではなくて、リベラルな価値観を受容しない人々を排除しようとしているとも指摘されている[51]。, ドイツでは宗教改革による対立を経てアウクスブルクの和議において、ルター派はカトリックと同等の権利を持ったが、同時に領邦教会制が成立した[32]。領邦教会制では"cuius regio, eius religio”「一つの領邦に属する者のすべてが一つの領邦教会に属する」とされた[32][52]。領邦教会司教が領邦君主であることもあり、世俗権力と宗教権力は密接な関係にある一方、カトリック教会も中世以来の世俗権力を有しており、トリアー、ケルン、マインツ大司は神聖ローマ帝国選帝侯でもあった[32]。, 1918年にドイツ帝国が崩壊しヴァイマル共和政となり、ヴァイマル憲法137条では「国の教会(Stasstskirche)は存在しない」と規定され、宗教団体設立の自由と宗教の自由も保障された[32]。しかし、教会は引き続き公法上の社団とされ、教会税徴収権も有し(137条)、公立学校で宗教は正規科目とされる(149条)など、ヴァイマル憲法においていわゆる「政教分離」制度が採用されたわけではない[32]。, ヴァイマル憲法の規定は1949年のドイツ基本法140条でも取り込まれ、ドイツ基本法4条では個人の信教の自由を保障する[52]。しかし現在でも、宗教団体は「公法上の社団」の地位を与え、教会税の徴収も認められている[32][52][53]。そのため、H.P.マルチュケは「ドイツ連邦共和国では国家と教会(カトリック教会と福音主義教会)の分離の原則が行われているが、それは宗教的に無色の国家が教会の公共活動に無関心な態度をとるというのではなく、国家が特定の教会と一体化して他の教会ないし宗教団体を排除することなしに教会の活動を支援することを許容するものである」と解説する[53]。また宗教に関わる事項は、各ラントの権限に属し、連邦は権限を持たない[52]。また、公立学校における宗教の授業は、憲法上の正規科目とされている(基本法第七条三項)[32][52][53]。他面において、国家は、教会内の立法・裁判などに介入できない[53]。, ドイツにおける国家と教会の関係は、カトリックとの関係では連邦と教皇庁の政教条約によって規律されている[53]。なお、1933年にカトリック教会とナチス・ドイツとが締結したライヒスコンコルダートも現在も連邦では効力を有している[52]。また、国家とドイツ福音主義教会(EKD)との関係では教会協定(教会条約)によって規律されており[53]、教会条約は1955年のニーダーザクセン州のロックム条約以降ほとんどのラントで類似条約が締結されている[52]。, イタリアでは、1870 年イタリア王国がローマを併合し、教皇国の処遇が問題となった[32]。王国政府は1871年教皇保障法で、教皇は特別の主権者とされ、独自の衛兵を保持し、国による経費の負担が保障したが、聖座は一方的行為として受け入れなかった[32]。王国憲章第1条ではカトリック教は国の唯一の宗教とされていたが、政権を掌握していた自由主義的政治家は、教会財産を没収するなど反カトリック政策を遂行していたことも背景にあった[32]。決着をみたのは、1929年ムッソリーニのイタリア王国とローマ教皇庁のラテラノ条約で、第一条で「イタリアは、使徒伝承のローマのカトリック教は国の唯一の宗教である」とし、またバチカン市国を成立させた[32][54]。1947年のイタリア共和国憲法第7条では「国家とカトリック教会は、各々その固有の領域において、独立かつ最高である。両者の関係は、ラテラノ協定により規律する」とラテラノ協定は継続する一方で、第8・19条では信教の自由が保障された[54]。1984年のヴィッラ・マダーマ協約でラテラノ協定が改訂され、憲法7条の規定を削除し、国家の非宗教性を憲法原理とした[54]。しかし、現在でもカトリック教会が頂点にあるとの指摘もあり、1990年代の納税申告での使徒指定制度では80パーセントがカトリック教会を選択していた[54]。宗教教育では1859年のカザーティ法でカトリックを必須教育とする一方で非カトリック教徒の免除も認めていたが、1923年、ムッソリーニ政権でカトリック教育が必須科目とされた[54]。1984年のヴィッラ・マダーマ協約ではカトリックがイタリア国民の歴史的財産の一部となっていることから学校におけるカトリック教育を引き続き保障するとする一方で宗教教育を受けることを選択する権利も保障された[54]。ただし、公立学校に在籍する生徒の90パーセントがカトリック宗教教育を選択しているという[54]。, イギリスにはイングランド国教会があり、日本のような意味での政教分離原則は採られてはおらず、広義での公認宗教制度をとる[32]。イングランド教会は、 国教会制定法を通じて議会によってコントロールされている[32]。また、女王は国教会の主教任命権を有しており、国王はイングランド教会の「至上の支配者」である一方で国教会を信仰し、国王の戴冠式は国教会で執り行われる[32]。イギリスには憲法が存在せず、信教の自由について憲法上の保障はないが、イギリスは、ヨーロッパ人権規約(1953年)の調印国であり、1998年の人権法によって、同規約を国内法の一部とし、人権規約9条の信教の自由に依拠して裁判所で適合か不適合かが判断される[32]。大戦中の1944年、戦費による財政圧迫で義務教育の維持が困難となったため国教会とカトリックによる支援を求めて、教育法が制定された[32]。1944年教育法では学校教育の中で宗教礼拝が規定された[32]。1988年教育改革法では、宗教教育は基本カリキュラムの一部と位置づけら れ、イギリスの宗教的な伝統が主としてキリスト教であるという事実を反映 しなければならないと明確に定められた[32]。なお、両親が子供に宗教教育を受けさせない権利を認められているが、公立学校での礼拝はキリスト教的なものでなければならな いと定められている[32]。, オーストラリアはイギリスから独立しているが憲法上の国家元首はイギリス女王で、1867年カナダ憲法と同様に、 連邦憲法では人権保障に関する条項がほとんどみられないが、自由権として第116条「国教を樹立し、宗教の遵奉を強制し、または自由な宗教活動を禁止するための法律を制定してはならない」で国教の禁止と信教の自由が規定されている[55]。司法では私立の宗教学校に対する連邦の補助金支出は合憲。宗教的反戦家への兵役義務は合憲[55]。第2次大戦中に、戦争遂行に不利益な団体として解散を命じた措置についての訴訟は、国家の目的が治安確保であり宗教禁止ではなかったため合憲と判示された[55]。, ロシア帝国のピョートル1世は、モスクワ総主教座を廃止し、ロシア正教会を国教として聖務会院(シノド)が管理した[16]。19世紀末のポベドノースツェフは、教会と国家の分離は宗教と道徳を崩壊するため国家と正教会の政教一致を主張した[16]。, 1905年ロシア第一革命後に皇帝ニコライ2世と内務大臣ブルイギンは信教の自由勅令を発し正教以外の信仰の自由を容認した[16]。, ロシア革命後のソビエト連邦は無神論国家として「反宗教」を国是とし、国家の宗教統制が徹底的に行われ、宗教信仰の自由はまったく認められなかった[16][17]。ソ連では正統的マルクス・レーニン主義以外の思想は許可されなかったため、「真理の独占体制」とも呼ばれる[16]。キリスト教のローマ・カトリック、ロシア正教会は弾圧と厳しい制限を受けて、一時は消滅した。イスラム教もムスリム宗務局によって統制された。, ロシアのローマ・カトリックは20世紀初頭にはロシアに50万人以上の教徒がいたが、1920年代末までにカトリック布教区は消滅した[19]。, ロシア正教会も弾圧を受けた。ピョートル1世が廃止した総主教座を復活させてティーホンはモスクワ総主教に就任したが、ソビエト政権は土地に関する布告によって1890万エイカーの正教会の土地を没収し国有化した[16]。1918年の国家と教会および教会と学校の分離に関する布告では、政教分離の原則を確立するとともに、 教会から法人格と所有権を剥奪し、教会施設と教会資産は国有化された[16][18]。ティーホンは1922年に逮捕収監され、翌年の裁判で反ソ的態度の放棄を誓った[16]。, 1922 年6月1日に発効したソ連邦刑法では教会と国家との分離規定違反が定められた(第119 -125条、227条)[16]。政府の法律へ反抗するために宗教的迷信の利用は禁固刑または強制労働、戦時の市民の兵役義務を妨げ煽動もしくは宣伝を行った場合は極刑とされた[16]。また協同組合の設立、宗教団体の構成員への援助、児童への宗教教育や聖書や宗教書の研究も禁止され、小旅行や児童用の遊び場、図書館、読書室、 サナトリウム、医療活動を組織することなども禁止された[16]。またボリシェヴィキ党のエメリヤ ン・ヤロスラフスキーがソ連邦無神論者同盟を組織し、反宗教キャンペーンを展開した(1929 年に戦闘的無神論者同盟に改組)[16]。, ティーホンが生前指名していた総主教代理3名も逮捕された[16]。逮捕されたセルギーは教会の消滅を恐れて1927年、ソヴィエト国家に対するロシア正教会の忠誠を誓約した[16]。1929 年、全64条から成る宗教団体に関する法律と宗教団体の権利と義務に関する内務人民委員部指令が発効し、宗教団体 は20 人制によって登録を厳しく制限され、また慈善活動や伝道活動も禁止され(第17条)、さらに人民委員会付属の信仰問題委員会が設置され正教会など宗教団体は国家の支配の下に置かれ、30年代にはロシア正教会は組織としてはほとんど存在しなくなった[16]。革命後1930年代までに7万2千人〜7万7千人のロシア正教会司祭が処刑・投獄された[20]。, しかし、1941年に独ソ戦が開始すると、スターリンは戦意昂揚のために政教和解の方針を取り、戦闘的無神論者同盟を解散したり、総主教制の復活を認めた[16]。また、スターリン政権にとって反体制運動の温床となり得るキリスト教諸派をロシア正教会に吸収する狙いもあった[16]。1943年にはソヴィエト人民委員会議付属ロシア正教会問題評議会が、1944 年には正教会以外の宗教団体のための宗教信仰問題評議会が設置され、1966年に、ソ連邦閣僚会議付属宗教問題評議会として統合された[16]。評議会議長は、帝政時代の宗務院総長さながら、「無神論国家の宗教大臣」の役割を担ったといわれる[16]。フルシチョフ政権は苛烈な宗教攻撃を再開し、ロシア正教会は約一万の教会を失った[16]。, 1988年、ゴルバチョフはピーメン総主教に対してソヴィエトの教会弾圧について謝罪し、政教和解を申し入れ、1990年の信教の自由に関するロシア連邦共和国法においてロシア史上初めて信教の自由が認められた[16]。同法は信教の自由を保障し(第3条)、宗教団体または無神論団体の国家からの分離、教育制度の世俗的性格など政教分離原則が明文化された(第5条)[19]。ゴルバチョフはローマ法王とも会見し、バチカン外交部が開設され、1991年には暫定的な布教区が復活された[19]。, 1991年12月にソ連は崩壊した。ソ連崩壊とともに社会的混乱が生じて、カルト集団が大きな影響力を持つようになった[56]。この頃から正教君主制の復活やロシア正教の国教化を説くロシア正教ナショナリズムが台頭していった[19]。ロシア正教会は「事実上のロシア国教会」を自認し、外国からの宗教活動や宣教師の入国を制限するように政府に圧力をかけていった[57]。, 1993年6月、ロシア正教会の要望で、「非ロシア的・非伝統的」な宗教の登録を厳しく規制するゴルバチョフ宗教法改正法案が議会を承認したが、反対もあり廃案となった[58]。, 1993年12月12日に制定されたロシア連邦憲法でロシア連邦は世俗国家であり、宗教団体と国家は分離され(第14条)、信教の自由が保障された(第28条)[19]。, 1996年7月のロシア国家会議は新宗教法改正案を作成し、信教の自由の保障を原則としていたのに対して、ロシア正教会は「非ロシア的・非伝統的」な宗教の排除を求めた[58]。1996年の調査ではロシア正教を肯定する国民は88%にのぼった[19]。, 1996年、エリツィン大統領就任式には総主教アレクシイ2世が最前列に並んだ[59]。, 1997年9月26日、エリツィン政権で「良心の自由(信教の自由)と宗教団体に関するロシア連邦法」 ( 宗教法 )が発効した[注釈 4][16][19]。この1997年宗教法は、1990年の信教の自由に関するロシア・ソヴィエト連邦共和国法の改正作業の結果であり、またロシア正教会の意向を相当程度受け入れたものであった[63]。前文で、ロシア連邦は世俗国家であるが、『ロシアの歴史、その精神性および文化の形成と発展における正教の特別な役割を認める』と謳われた[58][注釈 5]。これによって、ロシア正教会は法制上も事実上の国教会の地位を確固たるものにした[16][57]。また、それに続く前文でロシアの伝統的な諸宗教である「キリスト教、イスラム教、仏教、ユダヤ教、その他の宗教」に触れていることから[注釈 6]、正教とこれらの宗教が伝統宗教として明文化されたとされる[19]。良心の自由、信教の自由に対する権利(第3条)、公教育機関における教育の世俗的性格と宗教教育を受ける権利も保障され、世俗国家ロシアにおける国家の宗教的中立と宗教団体の政治的中立が明文化された(第4条)[16][19]。一方で、国家登録を済ませ15年以上の存続を条件を満たさない宗教団体には法人格を与えないとし(第11条)、外国の宗教組織はロシアで宗教活動はできないとされた(第13条)[19]。さらに、民族的・宗教的不和の煽動や、人間憎悪の煽動、家族崩壊の強制、自殺や医療拒否の勧誘、義務教育の妨害、財産の団体への譲渡の強制などの活動を禁止された[19]。この宗教法の下、宗教組織のヒエラルキーが成立し、最上位を多数派正教とし、イスラム教、 仏教、ユダヤ教、ローマ・カトリック、プロテスタント諸宗派までが伝統宗教であるとされ、その他の宗教セクトとして古儀式派、その他のプロテスタント、新宗教運動などが位置づけられた[19]。このように1997年の宗教法は信教の自由よりも、宗教のヒエラルキーを強化しているため、ロシアは「正教国家」に向かっているとも指摘されている[19]。この宗教法は欧米やローマ教皇から批判があったが、エリツィンはロシア憲法とこの宗教法は矛盾しているが、宗教を野放しにすると混乱を生み出すためにこの法を制定したと回顧している[59]。, しかし、この宗教法以後も宗教団体へのロシア政府の扱いには問題が多く発生している。エホバの証人は正教徒7千万人、イスラム教徒900万人、仏教徒90万人に次いで、信徒数28万人に達するロシア第四の宗教団体であるが、エホバの証人に対して検察は団体登録取消訴訟を開始した(エホバの証人側が勝訴)[19]。, ローマ・カトリック教会問題もあり、2002年に教皇ヨハネ・パウロ二世がロシア布教組織を1917年以前の状態に戻すと決定し、モスクワに大司教区を置くとした[19]。ロシアには11万人、外国人を含めて40万人のカトリック信徒がいる[19]。この決定にロシア正教会は反発し、アレクシイ2世総主教はバチカンによるロシアでの宣教を拒否すると述べ、さらにロシア外務省はバチカンに決定の取り消しを求め、カトリック司教のビザが没収され、再入国を禁止された[19]。テレビ番組「ロシアの家」はカトリックの侵略に対して行動を起こせと放映された[19]。プスコフのカトリック教会は工事が停止され、アルタイ共和国ではカトリック大聖堂の建設が禁止された[19]。また下院議会では、ロシアではカトリック教徒に対するいかなる迫害もないと明言され、カトリック問題の審議は拒否された[19]。ロシアのカトリック大司教コンドルセービチは、カトリックへの迫害は違法であると是正を求めたが、下院総会ではローマ・カトリック教会は公式サイトで南サハリンとクリル諸島が「樺太」と表示されており、日本のロシアへの領土要求を意図的に煽っており、これはロシア連邦の統一を脅かすものであるため、ロシアにおけるカトリック教会の活動は禁止されなければならないと訴えられた[19]。, しかし、2016年2月12日、ローマ教皇フランシスコとモスクワ総主教キリル1世はキューバで歴史上初の歴史的な和解をし、イスラーム過激派のISIL(イスラム国)を共同で非難した[64]。, このほか、公教育での宗教教育、特に正教会の勢力拡大が問題視されている[65]。1999年にモスクワ総主教庁の提案で「世俗・宗教委員会」が教育省内に創設され、教育省と正教会総主教庁との協定が成立した[19]。1990年代末各州で公立中学校に正教が正規科目として導入がはじまり、2002年には教育省と総主教庁の調整評議会が推薦する教科書『正教文化の基礎』による授業が開始された[19]。こうした教育省の政策をリベラル派は脅威であるとして教科書の作者ボロジナは反ユダヤ主義であると糾弾し、裁判が行われた[19]。ロシア軍には従軍聖職者制度が導入された[66]。, 2000年8月、ロシア正教会高位聖職者会議で、ロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世とその家族を新致命者として列聖し、ソ連時代の殉教者が讃栄された[67]。, ウラジーミル・プーチン大統領の「大国ロシアの復活」は、ロシア正教会にとっても歓迎すべき国家目標となった[68]。, 2012年3月、モスクワの救世主ハリストス大聖堂で、フェミニストパンク・ロック集団のプッシー・ライオットがプーチンを追い出すことを求める抗議行動を起こした[69]。この事件によって、同年6月、信仰への侮辱を禁止する「信仰者の感覚擁護法」案が上院で批准したが、世論では意見が別れた[70]。, 2013年7月、プーチン大統領はクレムリンにキリル総主教を受け入れ、ルーシがキリスト教を受け入れた988年を記念して「ルーシ受洗1025年」を祝った[71]。2014年のクリミア併合は、「第二のローマ」であるコンスタンティノープル(現イスタンブール)を睥睨する位置にあり、ロシア正教の歴史的復権に連なるもので、「クリミアは新しいエルサレムである」とプーチンは力説した[72]。1453年にオスマン帝国がコンスタンティノープルが陥落し、東ローマ帝国が滅亡して以来、モスクワは「聖なる第三のローマ」であるという「聖なるルーシ」信仰が生まれたが、そのことが背景にある[73]。, 江戸時代の日本では、幕府が仏教の寺社勢力に介入統制し支配に利用する方針が徹底され、仏教は民衆の教化のみ役割を担わされ宗論は厳しく制限された[74][75]。儒教と神道の習慣は尊重され、神道のなかで論じられた廃仏論は明治初期の廃仏毀釈運動に影響を与えた。またキリスト教は厳しく弾圧された[75]。, ここでは法制史の立場から日本近代での政教分離について概説する。「祭政一致の制に復し天下の諸神社を神祇官に属す」とする慶応4年3月の太政官布告で神祇官再興が宣言された[76]。村上重良によればこれは「政治と神を祭ることは一体であるという古代的観念」を掲げたものである[77]。, 1868年(明治元年)神仏分離令が出され、廃仏毀釈が起こる。また「五榜の掲示」にキリシタン禁制とあるのが確認される。1869年に設けられた公議所の議論で、神道の国教化路線が決定され、神道に関する神祇官は太政官から独立したが、1871年には神祇省に格下げされ1872年には神祇官が廃止され、教部省が新たに仏教・神道ともに管掌することとなった。国民を教化する職責として教導職制度が設置され、教導職の教育機関として大教院が設置された。しかし1872年、浄土真宗本願寺派の島地黙雷は三条教則批判建白書を提出し、1875年1月には真宗4派が大教院離脱を内示するなど紛糾し、同5月に大教院は解散した。, 1874年には仏教・神道の中での宗派選択の自由が、1875年には信教の自由が保障された。1882年(明治15年)に内務省通達により、神社は宗教ではないとされた(神社非宗教論)[78]。1889年(明治22年)、大日本帝国憲法第28条で「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と記載された。, しかし、昭和期に入って、日本国内で国粋主義・軍国主義が台頭すると、神道は日本固有の習俗として愛国心教育に利用され、神道以外の宗教に顕著な圧迫が加えられるようになった。神道以外の信仰を持つ生徒・学生であっても靖国神社への参拝を義務づけたため、1932年には上智大学の学生が靖国神社参拝を拒否するという事件(上智大生靖国神社参拝拒否事件)が発生した。これに対してカトリック教会は1936年『祖国に対する信者のつとめ』を出し、大日本帝国政府の方針にしたがうべきことを表明した。, 第二次世界大戦後の1945年、GHQにより神道指令が出され、国家神道は廃止され、日本国憲法では政教分離が実現されている。, 日本国憲法に「政教分離」の言葉はないが、根拠として日本国憲法第20条1項後段、3項ならびに第89条が挙げられる。, 上記の憲法規定は、宗教の関与を否定するものではなく、宗教団体が政治家や政治団体を支持したり、政治運動を行うことは憲法上認められている[79]。, 政教分離と信教の自由の関係につき、最高裁判所は津地鎮祭訴訟の判決で、「信教の自由を確実に実現するためには、単に信教の自由を無条件に保障するのみでは足りず、国家といかなる宗教との結びつきをも排除するため、政教分離規定を設ける必要性が大であつた[80]」として、信教の自由と政教分離は目的と手段の関係にあり、個人の権利ではなく制度的保障(自由権本体を保障するために、権利とは別に一定の制度をあらかじめ憲法によって制定すること)であるとしている。これに対しては、信教の自由を侵していないという理由で政教分離の規定が縮小されてしまう可能性があり不適切であるという批判もある[81]。, 国家と分離される「宗教」については、信教の自由の場合と異なり、宗教だと考えられるものすべてを指すと考えることはできない[82] とする立場が一般的であるが、この「宗教」の定義によって国家および地方公共団体が禁じられる「宗教的活動」のとらえ方には2つの説が生じる。, 一つには「当該の行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進、又は圧迫、干渉になるような行為[80]」とする説である。津地鎮祭最高裁判例がその代表である。2つにはより厳格に「祈祷、礼拝、儀式、祝典、行事等およそ宗教的信仰の表現である一切の行為を包括する概念」であるとする説がある[83]。, この説に対しては、死者に対する哀悼、慰霊等の行事のすべてが含まれるのは非常識であるとする批判がある[84]。, また、政教分離の対象は国家および地方公共団体である。判例によれば、護国神社などは私的な宗教団体であり、私人である隊友会が殉職自衛官を山口県護国神社に合祀申請しても国家は関係ないから政教分離の問題にはならなかった[85][86]。, 他方、国家権力主体としての性格を有する愛媛県が靖国神社に寄付金を納めるのは、国家と宗教の過度なかかわり合いを発生させるので、憲法20条に反し、許されなかった(愛媛県靖国神社玉串料訴訟)[87](「目的効果基準」も参照)。, 大日本帝国憲法は第28条において「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と定めた。この条項は天賦人権説を否定する立場から起草されていることが草案作成者である井上毅とヘルマン・ロエスレルとの間の往還書類で判明しており、政府が宗教の論争から自由であること、宗派の分裂が政治の分裂を招くことから政府は宗教を統一するよう介入すべきであること、正教と謬教に同等の権利を与えてはいけない、といった趣旨が含まれており、条文の表現はこの目的を踏まえあえて曖昧に記述する方針となった。一方で国家神道との関わりについては日中戦争以降の国家ファシズム期のように、国民および官吏に対する参拝の義務といった論理(解釈)は、法文の執筆時典においては確定的に含まれていたわけでは無かった[88]。, この第28条は信教の自由、および“安寧秩序” “臣民の義務”という定義自体が不完全なもので、のちに神道は「神社は宗教にあらず」といって実質的に国教化され(国家神道)、神社への崇敬を臣民の義務として、神宮遙拝は日常化され、家庭や公共機関などに神札を祀ることが奨励された。これに反する宗教は弾圧を加えられることもあった(大本教、ひとのみち教団、創価教育学会、横浜ホーリネス教会、美濃ミッションなど)。, 戦後日本における政教分離原則は、当時日本を占領していたアメリカを中心とする連合国総司令部 (GHQ) が、1945年(昭和20年)12月15日に日本国政府に対して神道を国家から分離するように命じた神道指令がその始まりである[89]。そして、1946年1月1日の昭和天皇のいわゆる人間宣言に始まる一連の国家神道解体へとすすんでいった。憲法制定過程では 松本委員会案 において、すでに神社の特典を廃止するとして記載されている(第二十八条)。, 津地鎮祭訴訟において最高裁は、宗教は個人の内心にとどまらず外部的な社会現象(教育・福祉・文化・民族風習など)をともなうのが通常なので、「国家と宗教の完全な分離は、実際上不可能に近い」として、いわゆる「目的効果基準」に従って国の宗教的活動の違憲性を判断するべきと判示した。これは「行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になる」か否かをもって、憲法第20条3項にいう「宗教的活動」に抵触するかどうかを判断するものである[80]。, 箕面忠魂碑訴訟では、この目的効果基準にしたがって、忠魂碑の移転に関わる費用等を市が負担した行為が合憲とされた。また、愛媛県靖国神社玉串料訴訟では、同基準に従い、県知事が公費から靖国神社に玉串料を奉納した行為が違憲とされた。さらに、砂川政教分離訴訟では北海道砂川市が市有地を神社に無償提供していた件が違憲と判断された[90]。, なお、宗教的要素をもった文化財に対する補助金や、宗教系私立学校への助成金支出などもこの基準に照らして問題ないとされている。宗教系私立学校への公金支出については、学校教育法、私立学校法などにより公教育を担っていると位置付けられているという理由もある。, 政治と靖国神社の関係について、「特権付与の禁止」と「国の宗教活動の禁止」の視点から議論がなされてきている。, 1985年8月14日に、政府は「内閣総理大臣その他の国務大臣がその資格で参拝することは、憲法第二十条第三項との関係で問題がある。断定はしていないが違憲ではないかとの疑いをなお否定できない」という従来の政府統一見解[91] を変更して、「正式な神式ではなく省略した拝礼によるものならば閣僚の公式参拝は政教分離には反しない」という見解を打ち出し[92]、8月15日に中曽根康弘首相が靖国神社を公式参拝し供花代金として3万円の公費を支出した。この参拝について、仏教、キリスト教信者が中心となって、信教の自由、宗教的人格権、宗教的プライバシー権等の侵害を理由に損害賠償・慰謝料を求める訴訟を行った。福岡高裁(平成4年2月28日)判決は、靖国信仰を公認し押しつけたものとは言えず、信教の自由の侵害はない、としたが、傍論において公式参拝が制度的に継続的に行われれば違憲の疑いがあるとした。大阪高裁(平成4年7月30日)判決も、今回は具体的な権利侵害はないが、公式参拝自体は違憲の疑いが強いとした[93]。
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